現在の郵便のシステムの礎を作ったのが、前島密という人物で江戸から明治に変わったその時期に日本の仕組み作りに奔走していた人物の1人ということを知りました。
そして郵便以外にも行ったことがあって、それは「漢字を廃止する」ということなんですよね。え?廃止なんでよ?なんて思っていましたが、漢字を覚えている時間によって他の事を修得する時間を奪われているといった考え方によるものだったそうです。
他の言語のようにアルファベッドを覚えて、それを駆使して他の学問を学ぶ時間に割くという考え方もアリだったかもしれません。
でも、私はひらがな、カタカナ、漢字がある今の状態の日本語を気に入っているので、その案が通らなくて良かったかなと思っています。ひらがなだけだと幼さを表現出来るし、カタカナだけだと幼さとは違うカタコト感を表すことが出来る。そして、そこに漢字が混ざると表現がもっと複雑で豊かなものになるような⋯そんな使いわけが出来るような気がするのです。
以前、私が読んだ「アルジャーノンに花束を」という小説は、原文は英語だけど、日本語のひらがな、カタカナ、漢字があったからこそ、より緻密に翻訳出来て伝わった部分があったんじゃないかな?とずっと思っているのです。
内容は知的障害がある主人公が医者の施しによってどんどん知性を持ち博識になっていくんですが、その状態はいつまでも続かない⋯というものです。
この一連の流れを、主人公が日記をつけるというの様式で話は進んで行きますが、最初はひらがなばかり、漢字も間違ってるし、読み辛いけど、主人公の置かれている状態がすぐに理解出来たんですよね。そして、知性が備わってくると文章も漢字が多くなり理路整然としたものになってくる。そして、そこからの凋落もまた漢字が減り、ひらがなばかりになりボキャブラリーが減っていることをまざまざと理解させられたものです。
なのでやっぱり今のスタイルがあったからこそ、得られたもの、表現出来たものって沢山あるんだと感じます。
漢字を学ぶ時間を他のことに充てるというのも、日本のことを考えてる故の提案だった思うので、否定し過ぎることはしませんが、効率の良さを考えると無くしていかなきゃならないものもあるし、その1つ1つの判断の積み重ねで今持っているものが私たちの中にあるんだと実感しました。
ところで次回の漢字検定、受けるかどうか迷っています。前回はダメだったので⋯でも、このまま放置してるのも覚えたことごもったいないから悩んでいます。
漢字がなかったら、漢字検定もなかったのか⋯
今日は牛すじを大量に下茹でします。
コレをやっておくと冷凍しておいて食べられるから便利。
もうお腹空いてきた。⠀⠀ ⠀
噛み合わないなら、噛み合わせて欲しいと思ってしまうんだよね。
噛み合わせが良くて、一緒にいようと決めたんだから噛み合わないことがたまにあったとしても、そこがぴったり合うように帳尻合わせして欲しいよ。
それならその辺にいる他人と同じ「他人」。
しっくりこないジョークは、違和感のある噛み合わせの歯で食事してるのと一緒だよね。
このずれた噛み合わせはいつか戻る日がくるんだろうか?
来ないかな?私も元に戻らないし向こうはズレたことにさえ気がつかないんだから戻らないでしょう。
せめて合わせなくても残っている歯だけは大事にしないとね。そのために歯磨きと健診はかかさないのと同じように、自分を大切に。歯も大切に。
こんなことを6年前の私は主張してたんですね。噛み合わないことに対して違和感を覚えて不満を感じて憤っている。まあ、それは現在も変わらないけど、もう無理に噛み合わせて欲しいとも噛み合わせようとも思わなくなったかな。
この文章の比喩表現を使うなら、残っている歯で自分の食べたいものしっかり噛み砕いていきたいなと思うのです。
ちゃんと噛み合わて欲しいと思うだけじゃなくて、キチンと気持ちを伝えてきたつもりだったけど合わなかったからしょうがにい。自分の歯は自分のもので、自分のためだけに咀嚼したいものだけを咀嚼したい。
聞いててニヤニヤしちゃうほど軽薄な会話だった。よく言えば軽快?軽やか。周りにそういう人がいないものだから興味がある。話し相手がいない人にはいいんだろうな、お友達になりたいわ。
職場の服装が自由な娘、最近気取らない雰囲気多いなと思ってたら、「仕事着は初期アバターかZARDを目指してる」と言ってて笑った。
ZARDの方が敢えて感あってかっこいいかも。
用事で初めて行った場所があったんですが、古着屋さんが多かったです。若い頃なら古着屋を巡るのも楽しかったんですが、今はそういうところに入ろうとも思いませんね。
自分が古くなったから安くても新しい服を着るか、自分で勝手に古くしていった自家製の古着?しか着たくないんですよね。
古着でも高いものは高いし、価値はよくわかりませんが、もうとにかく自分が古いのです。でも、それでいいのかなと思ってます。
先日ライブに行ってきたけど、とても良かったという話はしました。
ただ、私ボーカル以外の人の名前知らなかったんですよね。ボーカルの名前も最近覚えたばかりなので。ただ、それくらいで丁度いいような気もするんですよね。バンドが奏でる音楽が好きで、それを肌で感じたいからライブに行くっていうだけで。
バンドメンバーも音楽という仕事を離れたら、それぞれの生活や顔や価値観もあると思いますが、それを音楽性が好きだからってグイグイ自分から知ろうとしないことで、一番好きな音の部分をずっと好きでいられるような気がするんですよね。
音が好きだからその背景に何があるのか?を知りたくなるのは当然の感情だし、それを知ることで音への理解が深まることもあるにはあると思うのですが、同時に好きなものを好きでいるために知り過ぎないことも大切だなと。
相手が知って欲しいことは、バンドの場合は音楽性でそれ以外は前面に出していないのだから、オマケなんですよね。
相手が知って欲しいと思うことを知るようにする。同時に押し出していないものを無理矢理発掘しないことも大事で知ろうとし過ぎない。
コレが大事だし、バランスが良いのかもしれません。
何か少し精神的な波があってたまに気分が落ちることがある。特に理由はない。マンネリにならないように新しいことを始めたり、いろんなことのやり方を変えたりしていても、そういうのも含めて急に何の意味もないことのように感じて、気分が沈む。
少し前に ChatGPT に手相を見てもらった。悪いことは言われなくて、でも何となく自分の性質なんかは当たってるようにも思えて、この先のことも当たってるのではないかと思わせる内容だった。
少し早めにリタイアしたいと言ったら、今すぐよりも3年後くらいが良いと言われたので、もう少し頑張って続けて見ようかな、という気持ち。
何か前にもこの内容を書いたような気がするけど、過去の投稿を見直しても見当たらなかった。
日本の観光地に住んでます。
ネットでは海外の人のマナー違反が
よく書き込まれていますが、
海外の人どころか
現地の日本人のマナー違反もたいがいですよ。
電車乗降するのに並ばず横入りするおばちゃん。
自転車乗り入れ禁止の場所に、
チリンチリンとベルを鳴らし、
歩行者を蹴散らしながら自転車で走り去るおじさん。
電車の出入り口を占領し大声でしゃべる学生。
日本人とか外国人とか関係ないのでは?
髪の毛を切った。
どうかな?
変じゃないかな?
かわいいって思ってもらえるかな。
私が好きな髪型にしたけれど、似合ってるかな。