2025.08.12Tue
非表示 12:16

詳しくはわからないが、義実家の家族の体調がよくなさそうだと。一緒に住んでる家族は気づいてない『ゆでガエル状態』と帰省してきた夫が言った。初めて聞いた言葉なので体調よりそっちの方が気になってしまった、すまん。とはいえ我らにできることはあまりないと思うのだが。とりあえず、いらないもの減らしてスペース作っておくといいのではと言っておいた。わたしの実家もそんな感じだから。わたしは義実家には行かないんだ、すまん。人数にカウントされてないから行ってもあぶれるし、湿疹出るから。


非表示 11:42

昨日ライブに行った。
ライブまではそれを楽しみに頑張れて、ライブ後はしばらくまた頑張れる。
またなにか次の人参を準備しなくては。


非表示 06:25

8センチCDのことを"短冊CD“っていつの間にか呼ばれるようになって過去の遺産みたいになってますが、その時代の移り変わりを見てきてしまいました。長く生きてますね。


非表示 06:07

今はサブスクやネットで気軽に音楽が聞けるけど、CD全盛期のときもありました。
シングルCDは長方形の形のジャケットに8cmのCDが収められてた時代もあります。今はその形から短冊CDと言われているみたいです。
当時、母とCDレンタル屋に行って聴きたいものを見繕っていたんですが、販売コーナーにその短冊CDが400円で売っていたんです。当時、定価だと1000円しましたし、小4の子どもには高いですよね。だけど400円でもやっぱり小4には高いは高いんですよね。それで、結局悩んでやめたんですけど、帰りの道で「あーやっぱり買えば良かったかなー」と言うのを繰り返していたら、母から一言。
「お父さんがいたら怒られるよ」
この一言で、私は何度も買えばよかったかなと言うのをやめたんです。ただ、これは今思えば完全に母は父を利用してますね。確かに、父は特に私には理不尽なことでよく怒鳴っていて、ちょっとでも気に入らなかったりすると怒っていたんです。
そういうのを見ていて、父から怒られるというカードを使えば私が大人しくなると思ったから言ったんでしょうね。
振り返ると、母は父の横暴さを使って自分の思い通りに事を動かそうとしていたことが多々あったなと思います。こんなよくある日常の一部が突然思い出されて、30年以上経っても蘇る。
私がしつこく何度も買えばよかったと繰り返していたことを、咎めるのではなく、父を出してくるところに結局は似たものどうしの夫婦なんだなと、大人になって気が付きますね。
子どもの頃は、父が理不尽なことで怒ってきて、父だけが怖いと思っていたけれど、それをやられるがままに放置していたのは母。時には「父に怒られるよ?」というカードを使い、父の悪口を言いたいときは私に共感している体で、自分のストレスを発散していたんだと。
父は理不尽で今でも苦手だけど、母みたいなタイプが一番厄介だなと。母はもういないけど、今もいたら父を都合良く使い、私に愚痴るか、そして私を都合良く使い、誰かに私のことを愚痴ることでコミュニケーションをとったり、鬱憤を晴らしていたんだろうなと想像できますね。
でも、私はもう色々自由で、あの頃の400円のCD買えば良かったかな?なんてまだ30年以上経っても言っています。


非表示 01:02

今年の誕生日でマイナンバーカードが期限切れになるって、そういやお知らせ来てたのにすっかり忘れてて明日誕生日じゃん!って所まで引っ張ってた。
そして思い出した。写真撮影で引っかかってたこと。
明日までだからもうオンラインでやるしかなく、写真は自宅で撮るしかない。
どうしよう…と思ってたら、今はもう何でもいいアプリが存在することを知った。
証明写真アプリなるものがあるのね。
撮った写真からAIが判断して薄化粧程度の補正入れてくれてた。
風呂上がりのすっぴんだったから正直助かった。
補正入った写真は無効になるみたいな記述もあったけど、目は元の形だったし、ちょっと肌の補正が入ってる程度だからどうかそのまま通って欲しい。
長い期間自分で見るものなので、見るたびテンション下がる出来栄えだとしんどいのよ…
そして、写真はjpg形式のみ受付で、サイズ調節した画像が自動でpngになっちゃってたからこれをまたどこかのサイトで変換してアップしたりと地味に面倒くさかった。
最初気付かなくて何回やっても画像がアップ出来ない!って思ってた。
年取ってこの作業出来なくなったりしないか不安になったわ。

2025.08.11Mon
非表示 22:12

私たちは時々、誰かの手伝いをすることが前提で成り立つ世界で生きているんじゃないか、とふと思うことがある。まるで、見えないルールブックにそう書かれているかのように。そんなとき、心の中では古いレコードのように「もうやめてしまえ」という言葉が何度も繰り返される。それでも顔にスマイルマスクを張り付けて、何度も何度もステージに上がってきた。
​そのマスクも、長い年月をかけてずいぶんくたびれてしまった。まるで、夏の終わりに打ち上げられた花火の残骸のように。劣化してひび割れた笑顔は、もう笑顔には見えないのかもしれない。夜明け前の誰もいない街角に立つ石仏の顔のように、怒りにも似た般若の相を浮かべているのかもしれない。
​新しいマスクに作り直すべきだろうか。それとも、このひび割れた顔のまま、生きていくべきなのだろうか。ひび割れた顔なら、誰も私に何かを頼んだりはしないだろう。そうすれば、私は誰にも見られることのない場所で、マスクを外して本当の笑顔になることができるかもしれない。誰もその顔を見ることはない。それでいいんだ、と私は思う。それでこそ、私は私でいられるのだ。


非表示 17:48

3連休だったが特にどこかに出かけたりせずに、朝食や夕食を食べに行ったりスーパーに買い物に行くくらいしか外出しなかった。あとは髪を切ったり枕やシーツ、ベッドパッドを洗濯したりした。

髪はここ数年自分で切っているのだけど、ちょっと失敗した。いつもより少し短めにしようとしたら、長めの部分と短い部分が変なバランスになってしまった。ここからさらに調整しようとすると取り返しのつかないことになりそうで怖い。しばらくの間、出社を出来るだけ避けようと思う。リモートワークの仕事で良かった。


非表示 06:24

遠くから投げているわけじゃなく、近くからポロっとゴミをゴミ箱に捨てているのに入らないことがある。
絶対入るだろうというのをハズしていくのが私の人生。
ポロっと捨てないで、確実に捨てることでしかきちんとゴミを捨てられないんだな。それも、また窮屈。


非表示 05:51

一緒に話していると息継ぎが出来ないような気分になるんですよね。会話じゃないよなーと思いながら、会話風の何かをしているだけだよなーと。

相手側から会話スタート
「このクッキーーおいしい」
「そうだ⋯」(このクッキーに似たものが、あの駅に売ってるよ)
「あの味もおいしい、チョコレートも美味しいけど抹茶もおいしいよね?」
「うん、まっ⋯」(抹茶も程よい苦味でおいしよね、抹茶といえば、あの店の抹茶味は何食べてもおいしいよ)
「でさ、話変わるんだけど、あの店の豚骨ラーメンがおいしいんだよ」
「⋯ラー」(ラーメン?)
「すごい並んでるけど、並ぶ価値はあるかもしれない、いやーまた食べたい」
「ど⋯」(どこにあるのその店?)
「大盛りが無料なんだよ、お得じゃない?」
「う⋯」(うん、それでその店はどこにあるの?)

こんな感じで私はだんだん「ど」とか「う」しか話してないのに会話のような何かが始まっています。
とりあえずこの流れを終わらせるのは無理だから、話が始まらないようにするか、都合良くトイレ行くしかないなって思っています。
私は本当は()の言葉を言って会話したいんですが、もう難しいみたい。

2025.08.10Sun
非表示 15:22

アナログで手書きの日記を書くために百均でノートを買ってきた。
きっかけはなんてことないことで、ここ最近流し見してたテレビで日記の話をいくつか見かけたのね。

ブログでもない。ここに書くでもない。プライベートなもの。アナログで手書き。いずれ忘れ去られてしまうなんてことない日常も、忘れられないような出来事も赤裸々に。
なんかいいな、って思った。

もともとアプリの日記も続けられたことがない三日坊主な自分に続けられるのか?という不安はありつつ(笑)、意外とアナログな手書きの方が続くかも?という期待もある。
というのも、ここ最近手書きでメモしていたときに、手書きで文字を書くってデジタルで言葉を紡ぐより思考が整理しやすいかもってことに気づいたので、そんな期待も込めつつ、続くことを願って始めてみることにした。

まずは習慣化をめざして!気負わずいこう。

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