情が厚いと言われる。
誰よりも人に興味がなかった私が。
なぜか、と考えてみた。
他人に気持ちがわかってもらえない辛さより、わかろうと努力してもらう嬉しさの方が心を豊かにすると思うようになったからかもしれない。
たとえば誰かが相手の心の大きさを1としても、本人にとっては10の可能性がある。
創作物の感想を聞いて、相手が「これくらいの言い方でも〇〇なら平気だろう」と直球でダメだしをし、聞いた側は傷ついて、その手の質問をしなくなる。心を閉じてしまった例だ。
作るくらいだ、こだわりがあるだろう。せめて「ここが良いと思う、でも強いて言うなら…」というワンクッション「悪い場所がすぐには散見されない」という相手のこだわりを敬う姿勢は見せてもいいと思う。
できたら断定もしない。私にとっての10を渡したところで、相手にとって1かもしれない。たくさんの意見の一つとして捉えてもらえたらいいし、それを採用してうまくいくのならお互いに嬉しい結末になる。
相手側に考えるソースが足りない場合(この場合、視野角とも引き出しの多さとも言う)に、衝突が起きる気もするので、相談した相手が悪かった、という反省材料にはなるが、傷ついた心の修復にも時間が要る。
その時間分を気持ちよく使ってもらいたい。他人を慮る余裕も出る。そうしていつか廻り巡って、また誰かに優しくしてもらえるかもしれない。これが心を豊かにするということじゃないだろうか。
つまりは相手のための心が感じられるかどうか。
相手が嬉しいと思う言葉とは、言葉に心を乗せられるかどうか。
国語や道徳って絶対に必要だと思う授業なのに、いま軽んじられている気がする。
私は中学生の頃に習った道徳の教本を読んでも、ちっともぴんと来なかった人間だ。もっと理解できる頭があったのなら、と齢を重ねた今頃になって強く強く思う。
どうかネットの力を借りて、心を豊かにしたいと思っている人がいるのなら届いてほしい。一助になってくれたらとても嬉しい。
最後に。
私は情に厚くなんかない。
だってそうしていつか私に優しくしてほしいなと思ってるのでね。されて嬉しくて、いつか自分に還ってきてほしいことを、自分からしているだけにすぎない。
でもそれでいいんじゃないか、とも思う。