8年ほど前に記録した自分の戯言を見たら、帰宅してまた2時間後に出かける用事があっても部屋着に着替える!少しでも自分の時間を確保したい!みたいなことを書いてたけど、そもそも今はそんなスケジュールにしないで、用事を2日間に分けられるように調節するだろうなと思いました。
1日にアレコレやるのがしんどいし、元々8年前もだらしないけど、そこに加齢が加わりもう1日に1つの用事しかこなしたくないです。
今日、知り合って一ヶ月、付き合って一ヶ月の恋人に、一部の余地もなく振られた。
期間にすればたったそれだけでも、あり得ないほどの信頼と絆があると思っていた。それは互いに。将来を共にすることを、何の疑いもなく二人ともが信じていた。三日前までは。
原因は私が踏み抜いた、彼の“触れられたくなかった過去”。でも、何度振り返っても、私にはそれを予測はできなかった。彼は“何度も説明した”と言っていたけど、私にとっては“たった一度、それまでの印象と全く違うことを口頭で説明されただけ”で、それを一度で理解できなかった、それで“二度目”、許されないラインを越えてしまった。
きっと、他の人には「それは仕方ないよ」と言ってもらえることなんだと思う。でもそれはもう無意味なんだ。
私が一度で分からなかった、分からなかったのに「分かった」「もうしない」と言ってしまった。二度目にやったことは全て“間違い”だった。良かれと思ったことすべて裏目に出た。
だからもう“可能性”はない、と分かる。話せば分かる段階はとうに彼の中では終わった、むしろこの件に関しては「最初からなかった」。
どんな約束も、本心からの愛の言葉も、たった二度の間違いですべて無になる。残酷だけど真実。なぜならそれは「たった二度」だけど「致命的な二度」だった。
どうあがいても、私がそこを理解できる道はなかったと思う。分からないまま、とにかく触れない、はできたかもしれなくても、何でも話すことをルールにしていた私達の関係性でそれは不可能に近かった。例外を一つ作ったら、あらゆることが壊れていきそうで、怖くてできなかった。
無理があった、いずれ壊れてた。そう考えることもできるけど、やっぱりなんの意味も持たない。
私はこれからどうやって、何を支えに生きていくんだろう。ありふれすぎていて、「仕方なかったんだよ」とか「次があるよ」とか、そんな言葉で片付けられるだろうと目に見えているから、誰にも話せない。そんな言葉で片付けられるのには耐えられない。だから、自分の中で抱えて、正面から、逃げも隠れもせず傷ついていくしかない。辛いな。
あぁ、もう無理。悪口のひとつも言わなきゃやってられない。世の中には、こちらの心を波立たせるものが多すぎるのだから。立派な人になろうと背伸びするのはもうやめて、自分の等身大を楽しみたい。
そう思ってあたりを見回したけれど、私の愚痴を受け止めてくれる人はどこにもいなかった。結局、私は一言も発せずにいる。沈黙は金、というけれど。結果的には聖人のように振る舞っている自分に、少しだけ苦笑いした。
通勤に使っているロングのダウンコートがくたびれてきたので、新しいロングのダウンコートを購入した。
時期的なものなのが定価から値引きされ、さらに半額になっていた。値札の価格より3分の1以下で購入した。
色も形も無難なこのコートがなぜこんなに値引きされているのか?
それは着用して外出してわかった。
全く暖かくないのである。
ダウンコートっぽいけど、触ってみると中はスカスカで、暖かいどころか冷たいナイロンを上から羽織ってるような感覚。
防寒もなにもあったものじゃない。
安いものには理由がある。
アウターはメーカーものを購入するべきだと思います。
防寒しないダウンコートなんて体調悪くなりそう。危ない。
結局、極寒予報の日は前のダウンコートを着ています。
買うんじゃなかったな。
もう30年以上前ですが、車の移動販売でアイスを売りに来ていたことがあったんです。アイスディッシャーで取り分けながら売ってくれるタイプの。サーティー湾みたいな売り方のアイス屋です。
マンションに住んでいて、ど田舎というわけでもなく、大都会というわけでもない場所に住んでいて、そのアイス屋が来る音がして親から購入許可が出たときは嬉しかった。
それから引っ越ししてその手のアイス屋は完全に見かけなくなった。地域性や時代もあるのかもしれないけど、なんかあのアイス美味しかったような気がする。今食べたら普通のアイスなのかもしれませんが⋯
平和主義の裏側に「称賛への依存」があるのだとしたら、それは自己防衛が招いた閉塞感に他ならない。
感情の四要素である「喜怒哀楽」から特定のピースを排除しようとすれば、精神のバランスは必ず崩れる。負の感情を抑圧することは、結果として正の感情を受け取る感性をも麻痺させてしまうからだ。健全な人間関係とは、綺麗事の維持ではなく、多面的な感情の受容によって成立するものではないだろうか。
別に嫌味じゃないけどなー
そうじゃないのに嫌味と受け取ってくる人とは話したくないかなー
それが100人に聞いて95人は嫌味だと受けとるといっても私は嫌味として言っていないから、それなら話したくないんです。
「普段、〇〇は嫌いだけど、これなら食べられる!」って美味しいを表現するときに使われがちだけど、よくよく考えたら微妙な表現かなと。
私、トマト嫌いだけど、このトマトなら絶対食べられるってないんですよね。トマトはトマトだから嫌いなので⋯
食べられるトマトがあったら、たぶんそれトマトじゃないと思う。トマトの見た目の違う何かだと思う。
まあ、大人としてはやっぱり字は綺麗に書けたほうがいいのかもしれないが、そうすると、また努力することが増えちゃうから疲れちゃうんですよね。
「大切な人との今」を慈しむべきだという言葉は、痛いほどよく分かります。でも、同じように「今の自分」だって、今この瞬間にしか存在しません。自分が自分をないがしろにしたまま、誰かを本当の意味で大切にすることなんて、きっとできないのだと思います。
以前、自分を置き去りにして周囲に尽くしていた時期がありました。心は悲鳴を上げているのに、無理をして「良い自分」を演じていた。けれど皮肉なことに、自分を犠牲にすればするほど、周りからは大切にされませんでした。
自分を削っているという自覚があるからこそ、相手の反応をすべて「対価」として求めてしまい、少しでも期待が外れると苛立ちが募る。そんな殺伐とした空気を纏った人間に、優しく寄り添ってくれる人なんて、そうそういないのも現実です。
それでも、ただの他人ではない「特別な誰か」には、その手を掴んでほしかった。一番助けてほしかった瞬間に、その手を振りほどかれた記憶は、今も消えない棘のように胸に残っています。
結局、自分を守れるのは自分しかいない。それを教えてくれたのが、あろうことか「ずっと一緒にいたい」と願っていた人や場所だったというのは、あまりに皮肉な話です。
世間一般の「正しい在り方」から見れば、今の私は冷淡で、悪い見本のように映るかもしれません。けれど、誰かのために自分を擦り切らせていた頃より、今のほうがずっと幸福を感じている。そして不思議なことに、適切な距離を置いた今のほうが、周りの人たちも以前より笑っているように見えるのです。それが私の思い込みだったとしても、密着しすぎてお互いが苦しかったあの頃より、ずっと健全で楽しい時間が流れています。
結局、物理的な距離や一緒に過ごす時間の長さが、愛情の深さを決めるわけではないのでしょう。
そんなことを考えながら、今日もひとりでコーヒーを飲んでいました。