むかーし、社会人1年目くらい、忙しくしていた知人が、ただ寝るためだけに帰る家の家賃を日割りして更に平日の在宅時間で割って1時間いくらで平日は家で過ごしているかを計算して絶望していた。
とはいえ休日もあるし衣食住快適に過ごせる場所だから、そんな単純なものではないと思う。ただただ忙しすぎて心が荒んでたんだろう。あの人元気かな。
かなり昔話ですが、夏休みが8月20日くらいまでの地域に住んでいて、8月31日までが夏休みの地域に9月初旬に転校したんです。
転校前の学校は冬休みは1月15日くらいまで休みなんですが、新しい学校は冬休みは短く1月7日頃から学校なのです。
何が言いたいかというと、10日ほど休みを損してるなと何十年経っても思っているということです。
「どこいってきたの?」
「コンビニ」
「コンビニ"です“だろぉぉぉぉぉぉぉ?」
四半世紀ほど前になりますが、高校生の私が父と話していて、コンビニと言っただけで怒鳴られた話です。
「どこいってきたの?」
「コンビニ」
「そっか」
これも四半世紀ほど前になりますが、弟と父が話していて、コンビニに行ったというだけの話です。
このとき、なんで、コンビニ“ですだろぉぉぉぉぉ?と弟には怒鳴らないのかな?と思っていたのでよく覚えています。
コンビニ“です"という、突然です、ます調にこだわりだして、怒鳴ったのも疑問ですが、それは大したこだわりじゃなくて、すぐになかったことになってしまう。弟がまったく同じシチュエーションで“です"を使わなかったのに、怒鳴らなかったのは、大したこだわりがないんですよね。それなのに、私が大失態をしたみたいに怒鳴った。こういうタイプの矛盾は本当に許せないですね。
何で怒っているのかも重要なんですが、その怒りの内容が一貫しているなら、弟にも怒鳴るはずなんですよね。それがないってことは、です、ます調に拘りなんかないんですよね。ただ、怒鳴りたいから理由を探している。
内容がどうであれ、怒りに対して一貫性がない人に対して、強烈な拒否感を覚えるのは、こういう経験から来てるのかもしれません。この父の遺伝子が入っていて、この父の元で育った自分が怖いし、好きになれなくて、たまに過呼吸みたいになってますが、なんとか生きてます。
かつて、ある専門高校に一人の生徒がいました。周囲は就職が当たり前と考える中、彼はそこで見つけた「学ぶ楽しさ」に夢中になります。特に、努力が形になる資格取得に喜びを感じ、次第に大学進学への道を見出しました。しかし、その決断は、親との間に深い溝を作ることになります。親は「お金のかかる子」と彼を非難し、その言葉は彼の心を深くえぐりました。中でも、親が外部で漏らした「学力より下の学校に行かせると、大学に行きたがって困る」という言葉は、彼の存在価値を根底から揺るがし、何年経っても癒えない傷となりました。今、大人になった彼は、その傷を抱えながら、親と同じ年齢に近づくにつれて、その痛みを改めて感じています。
行ける時に行って手伝っているけど、実家の片付けが大変。
家具は少しは減ったけど他のとこに住む予定で買っておいたものだから、今の家に不相応に大きくてたくさんある。その予定が変わったから、まあ大変。
そして両親ともに衣装持ち。ずっと着てないし着ていくとこもないだろう。使わないもの置いておくスペースがもったいない、反面教師。
両親ともに健在のうちに手をつけられてよかったと思おう。
今日!日差しが少ない!
それだけで気分が晴れる!
でも来週、また体温こえてる気温なのか⋯
意気消沈⋯というか生き消沈⠀⠀ ⠀⠀ ⠀⠀ ⠀⠀ ⠀⠀⠀⠀ ⠀⠀ ⠀
珍しく誰かと話したいけど、自分の話を聞いてくれて否定はしない説得してこようしない、そんな人いないかーって思って結局はこういうところに気持ちを投げて終わり。
何を話したいとかは具体的にはないのだけど、ブレーキをかけない会話をしたいんですよ。そんなアクセル全開の会話をしたいと思うのです。
昔はそういう場所もあったし、楽しかったし、それがあったから築けた関係もあったけど、あれはただ若いという無防備さがあったから出来たわけで、無防備なのに鎧を着ているような無頓着さが最大の武器だったわけです。
今はさすがに無頓着はマズいなと思うし、それじゃ誰とでも話せないけど、無防備ではいたい。鎧なんか疲れるから無理。じゃあ1人でいいか。むしろ1人がラクじゃないか?なんてところに戻ってくるのです。
昔から誰かと常にいたいというタイプじゃないからどうにかなってるけど、なんか暴走したいなーでも、準備もめんどくさいし、暴走の後のケアもシンドイのでやっぱりこのままかな。
快走したいけど、昔に戻りたいわけでもない、自分が鬱陶しい年頃なのです。
誰にでも苦手な人はいる。これはそうですが、私の場合、私のことを苦手な人が多くいるんじゃないかな?という答えに辿りつきそうです。
先日、薄く焼き上げたクッキー生地を円筒状に巻いた菓子を購入し、久々に食しました。
口溶けの軽さから、定番の品として長く愛される理由を改めて実感いたしました。
当初はご挨拶の品を買い求めたのですが、そのついでに、無意識のうちに自分用のこの定番菓子も籠に入れておりました。
当初の目的が「ついで」となり、自分用の買い物が主目的となる、この一連の行為は、ささやかながらも楽しさを伴うものだと感じます。
定番品とは、決して飽きられることなく、常に一定の品質と風味を提供し続けるからこそ、その地位を確立するのだと再認識いたしました。
いつ食しても変わらぬ、シンプルでありながらも確かな美味しさこそが、定番たる所以なのでしょう。
そのようなことを鑑みますと、私も誰かにとっての「定番」となり得る存在になれるのか、ふと思いを巡らせてしまいました。
近所に数年前まで某チェーンのドーナツ屋があったけど、すごく空いていたんです。だから閉店となったんでしょうが、他場所にある同じドーナツ屋は混んでいるので、単純に立地の問題なんでしょうね。
繁華街というよりは、住宅地にありました。その場所で20年間以上営業していたみたいなので、家の近くで買って帰るか⋯という感覚から、買ってから電車に乗るか⋯という感覚に変化したんでしょうね。
でも、私にとってはいつも空いているという感覚はありがたかった。いつも空いている場所こそ、気に入っていたら大事にしたいです。