子どもの幼稚園の頃の撮った写真が出てきて、幼稚園の数々のイベントの写真があり、以下のようなことを思った私。
子どもの成長や当時にしかない可愛らしさに思いを馳せるのとは別に、あの頃のあの行事、面倒臭かったーという思い出が蘇ります。すごい無理してたなーと。なんで、ただの幼稚園のイベントなのにあんなに疲労して摩耗してたんだろうと思うのです。
あの保護者同士の結束感がどうにも苦手だったんですよね。小学校になると、見るもの見たら帰りたい保護者ばかりに見えて、あの幼稚園時代のアツアツ保護者はどこにいったのか?と疑問です。
親子遠足とか本当に嫌だった。動物園行ったけど、子どもが動物と触れ合っている間、保護者が飲み物やアイスを買って談笑する時間があったんですが、あれは苦痛だった。早く帰りたい。あの時間は無駄だ。
嫌な保護者ももちろんいたけど、それは数人のはずなのになぜあの場面があんなに嫌だったのか。楽しくないのに楽しいと思う仮面をつけて口角を上げ、瞳をいつもより見開く。早く帰りたいという気持ちを抑えながら、私もアツアツ保護者です。と偽って話す。本当にしんどかった。
イヤだったことでも、これは学びだったと言えるほど人間出来ていないのが私。
やっぱりあの頃のアレ、嫌だったなー面倒だったーやりたくないーって思うだけ。
働いていたわけではなかったので、保育園じゃなく幼稚園だったんですが、子どもと離れる時間もようやく持てて、幼稚園という第三者を交えて子どもの成長を見守る段階に来たと思ったら、自分が入園したかとのようなトラップ。あれは本当にすり減る。もう減るものもないのにすり減る。これを言うと子どもが可愛くないのか勢が来るようなきがする。あくまで、子どもへの気持ちと幼稚園で体感したことは別物。嫌なものは嫌なのです。
最近いいことあまりないから、いいこと絞り出してみる。
花粉が落ち着いたおかげで肌の調子がいい。
病院でもらった塗り薬がよく効いている。
あたたかくなったから手足が冷たくない。
天気がいいから洗濯物がよく乾く。
自分で作ったものがおいしい。
今度ライブに行く。
あげてみると、まぁまぁいい感じに思える。
私、相手にとって何番手かの友達だと思うんだけど、年数でいうと一番長い付き合いになる。
これくらいの距離感のほうが長く人と付き合えると思う。これからも何番手かの友達をやってほしい
教養、教養、教養ってうるせぇでございます。
好きなように好きなもの愛でてたらそれでよくね?
好きなものをもっと好きになるために勉強すればよくね?
教養教養教養って言ってる奴の教養レベルってどのようなものですの?
「見守り」がいつの間にか「監視」にすり替わり、他人の家の事情(遅刻の理由など)にまで首を突っ込むことが正当化されてしまいます。
AIにある事をグチったら返ってきた答えの一部。
集団で何かをすることで安心感を得ようとすると、結局は「監視」の部分が芽を出してしまうものなんだよね。それがしんどいのです。
自分や、自分が選んだ人間関係以外の人がどうなろうと私には関係ないかなー?と思ったりしたのです。
遅刻するのに連絡なしって困るは困るんですけど、先に行ってもいいルールだから先に行ってもらうだけなんですよ。
集団からあぶれて、個人で動いてもらって構わないんですよね。
それをルール違反だーと周りが騒いで、どうでも良いわ〜と思っている私が奔走するのが本当に面倒だった。
そもそも、私自身もそれぞれ集まってじゃなくて、好きな時間やペースで時間までに目的地に辿り着くほうがいいんじゃないかと思ってるので。遅れても何があっても個人の責任になるほうがいいかなと。何でもグループにすりゃいいってもんじゃない。
そのせいで、みんな結局疲れてるし、無駄な労力を使っているので。そんなことばかりです。
みんなやっていると言われても、私は"みんな“じゃないんだよなー
"みんな“になれていたら、最初から苦労していないし、みんなになりたかった。
欠席遅刻するなら連絡してー
それだけでいいのに、それすらしない人ってなんなのー
今までどうやって生きてきたのよー
余計なひと言が多いって嫌われるって言われてるけど、じゃあこの余計なひと言ってなんだって考えたときに、わかりやすく誰が聞いても、それ嫌みだよね?悪意あるよね?ってものだけじゃないんですよね。むしろそれらのほうが不快になることが正しいことだから、マシなんですよね。
ちょっと前に、ある方が「私は旦那さんの愚痴をいうような妻にはなりたくない」って言っていたんですよ。これってすごい立派ですよね。でも、だから言ってほしくないんですよ。旦那さんの愚痴を言わないほど我慢出来るなら、その言わない宣言もしないでいたらいいのにと思ったわけです。
愚痴を言わないことは世の中では正解とされているし、あるべき姿とされているんですが、まあ、人間、そんなになうまくいかないですよ。確かに愚痴ばかりはどうなのかとも思うんですが、愚痴を言わない!と宣言出来ちゃうほど順調に事が運ぶかって言われたらそうではない。どんどん愚痴を言うべき!と思っているわけでないんですが、その立派な宣言によって、愚痴という逃げ場を失った人がいると思うんですよね。
私、こういうタイプの宣言も余計なひと言だと思うんですよね。自分の中だけで掲げて、自分の中だけで実行すべきことをわざわざ主張する。こういうタイプの余計なひと言って反論出来ないし、褒めるしかないから疲れるんです。
それも余計なひと言ですよ?っていう言葉、けっこうありますよね。私は褒めるしかない余計なひと言を発するタイプには警戒してます。これも余計なひと言なのかもしれませんが。
私は、好きな人に好き好き好き好き言いすぎる人間です。
この人になら言っても大丈夫かな?言いたいなと思った人には好き好き好き好き言いすぎます。
同性異性問わず。
ほんまに好きやねんもん。
でも、迷惑だよね。
私が勝手にあなた方を好きなだけで、伝えられても、、ってなるよね。
でも、言いたい。
好きって言いたい。
だから、ごめんね。
だいすきだよ。ごめんね、