2025.04.16Wed
非表示 14:28

もう2・3年前だろうか。
自分が妄想の世界に迷い込んでいた時に、「それ、妄想だよ」と誰かに言われてその世界から抜け出すことができた。
それから一年後、また症状が出たときも、「本当は何も考えていない、妄想」と誰かが繰り返し言ってくれたおかげで妄想の夢から意識を取り戻すことができた。
あの声はいったい何だったのか。

2024年、去年の12月。
一連のものとは少し違った声がした。
脳内に「頑張れ」と一言、その言葉が響いたと同時に、かなり攻撃的な言葉がずっと浮かび上がってくる。
当時、自分の意識はハッキリとしていたので、何だか不思議になってしまったことをよく憶えている。

攻撃的な言葉は「頑張れ」に対してのものなのだろうか。
オタクとしてはこの心霊的で脳病的な脳の働きに興味がある。
もうホラーゲームみたいで面白いよね。

(*6ω6)まじで脳外科とお祓いに行きたいわ~。


非表示 09:33

自分の話というよりは家族の話になってしまったけど、それも自分を構成するものだからしょうがないかなとも思うのです。


非表示 05:53

最近弁当を作っているので、その関連の記事やSNSなどを見ることも多いです。
その中で、「簡単!すぐできる!」「5分で」みたいなことを描いてることも多いんですが⋯
これ、朝から簡単じゃないよなーとか。5分では無理だよなーって思ってます。
こういう、簡単!すぐできるとか5分で!って人によって感覚違うなと思うんですよね。
例えばハンバーグのレシピで、玉ねぎ刻んで、袋の中でひき肉とそれを捏ねて絞り出すから成形の手間がない!って謳っててるけど、私にとっては朝から玉ねぎ刻んで、袋の中とはいえ、ひき肉を捏ねて焼くって手間以外の何者でもないんですよね。
その人にとっては成形の手間がないことが魅力なのかもしれないんですが、そこを端折ったところで手間だらけじゃない?って思うのが私なのです。
何が大変か⋯って、もう個人個人のものだから安易に簡単!と言われるものを信じられないし、結局は自分のことを理解して自分が思う簡単を探して定着させないと意味ないんですよね。
今日は肉を焼いて適当な調味料で味付けして簡単だったかな?とは思いますが、たぶん人によっては朝から肉を焼くことはシンドく感じるのかもしれません。

2025.04.15Tue
非表示 13:15

40にもなって、きっと多くの人は10代〜20代で気づいたりぶつかったりするんだろうな、と思うような自分の育ちに根っこのある問題に今頃気づかされる。
自分に逃げ癖があること。立ち向かって潰れるより上手に逃げられる方が賢い、と思ってたけど、それとは全然別の次元で、人から何か言われた時に反射的に否定や批判だと思ってすぐ言い訳したり(その癖はだいぶ直ってきた)、否定したりする癖がある。小さい頃からずっと、親を始め人から何か言われるとしたら褒め言葉だったことはたぶん一割以下で、ほとんどの場合は遠回しなものも含めてネガティブなものだったからだろうと思う。だから咄嗟に何か言われる=怖い、嫌だ、やりたくない(できない)、という気持ちが先に出てしまう。それに周りも気づいている、ということを教えてもらって(決して嫌味ではなく)、愕然とした。そんなつもりなかったのに、すごく無責任に見えていたんだなと。相手を「この人は自分を傷つけない」と信用をしていないということでもある。まず「うっ」と思ってしまう気持ち、反射で返したくなるのを堪えると、相手の言っていることがそこまで理不尽じゃないと分かることに気づいた。この繰り返しで克服していくしかないんだろうと思う。
判断や答えを他人に求める癖もある。今の職場が「自分で考え自分で答えを出し、それを発信し責任を持つ」方針で、そこで初めて自分は生まれ育った家庭も学校も今までの職場も、とにかく合わせることを求められてきたんだなと気づいた。その癖はそう簡単には抜けなくて、自分がどうしたいかより先に「それはこの集団において評価されることか・価値があることか(そうでないなら無駄だからしない)」を考えてしまう。それが悪いとは思わないけど、自分がどうしたいか、どう考えるか、それはなぜなのか、を考えてみたら、その方が楽しい。なかなか抜けない癖だけど、これも気づいたらまず一歩かも。
いくつになっても発見はある、といえば格好いいけど、ただただ恥ずかしい。


非表示 08:48

昨日はついに筍を茹でたのです。
筍の風味に頼り切った筍御飯は料理上手に見えるので嬉しいです。
上手く見えるものを使うのは大事。


非表示 05:34

父の、
ラインは、
いつも、
こんな感じだ。
この読みづらい、怪文のような、文体を、
笑って、許してあげることは、出来ない。
父は、
いつも、理不尽に、人を、怒鳴る。
だけど、自分は、こんな、読み辛い、ラインを、
人に送って、くる。
だから、私は、勝手に、憤って、いるのだ。


非表示 05:30

手を差し伸べられたら、それに気がついて、その手をがっしり掴むことが大事って確かにわかるし、その通りだと思います。
ただ、私にその差し伸べられた手って来たことあったかなーとも思うんです。
手が差し伸べられた瞬間に気がつけるように、そういっためで周りを見ておくことも大事だそうです。
確かにこれもその通りだと思うんですけど、周りを信じすぎて頼りすぎると油断するし、何にもないよねーって思ってしまってシンドくなっちゃうので。
結局は自分のことは自分でしかどうにもならないなって所にいつも戻ってきてしまう。本当は心の何処かで自分でもどうにもならないってわかってるけど、そこに敢えて触れないようにするだけで精いっぱいなのですよ。

2025.04.14Mon
非表示 14:58

いくら他者が人の気持ちを考えたところで、
その人の本心はその人にしか分からないから、
真実が知りたいのであれば、本人に聞くしかないけれど
それができないから大多数の統計による模範回答を求めて
安心したくなるんだろうなぁ。


非表示 13:45

ある程度下調べするって大事だけど、キッチリきっかり調べ通した下調べじゃなくて、うっすらおこなった下調べ程度で楽しめるのが理想なんだよねー


さびしい理由

非表示 09:54

たとえば会社で宗教・政治の話はしてはいけない。
これは公のマナーであり、信念や根幹、育ちの概念に関わってくるからであって、日本だと不和闘争の原因になりやすい。

というのは、なんとなくわかっていたつもりだったのだが。

最近、複数の人へ仕事の進め方やこだわりなどを聞きたくて、四方八方に声をかけることがあった。事例を聞き、良いものを取り入れたい、場を回転させ無駄なものを排除し、シンプルにしていきたい。その一心で声をかけるも、ぼんやりとした回答しかもらえなかった。さらには「あなたはその考え方でいいと思う」という謎の評価的コメントを貰い、バカにされたと憤った。何て意識が低いのかと。切磋琢磨こそ多くのことがわかっていく楽しさだというのに。

と、心底信じ切っていた私に、別テリトリーで似たようなことがあった。

某作品のストーリーの良し悪しについて話をする機会があった。
個人的にそのストーリーは不快感があったが、知人はあのストーリーの方が良い、と答えた。最初はああなんて情緒がないのか、と憤った。それまでは同回答の方が多かったからだ。けれど普段からお世話になっている別の知人からも同じような回答があがり、同時に沸き起こった不快感に目から鱗が落ちた。
個人が感じたこと、好きなものを語ること。
それらは、宗教・政治の話に似ているのではないか。
自分の好きな物、好きな概念、好きな世界、個を構築する世界=宗教 と言えなくもないのではないか。
であれば、その類の話は会社=不和を巻き起こしてはならない場所ではタブーではないのか。

これまでポンポンと口に出していた。
ただ共感がほしかっただけだ。私がこの世のコンテンツを味わい、意味がないもの、意味があるものを分け、共感してもらうこと、それが私にとって他者との対話と会話の意義だ。(あくまで肯定感をもらうためのもの)
それはもしかしたら、他者を不快にさせていたのかもしれない。
そう悟った。

好きな物を共感しあえないこと、それは寂しさの一途をたどる。
けれど不和を振りまき居場所をなくすを繰り返した己を振り返ってみて、生い先短い身であるのだから心の内に秘め、必要な時に出し、眺め、己を形づくるためにあれば良いのかもしれない。

一生、私はさびしいままなのかもしれない。
けれどこれは褒められる思考ではないだろうか。違うだろうか。

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