たとえば会社で宗教・政治の話はしてはいけない。
これは公のマナーであり、信念や根幹、育ちの概念に関わってくるからであって、日本だと不和闘争の原因になりやすい。
というのは、なんとなくわかっていたつもりだったのだが。
最近、複数の人へ仕事の進め方やこだわりなどを聞きたくて、四方八方に声をかけることがあった。事例を聞き、良いものを取り入れたい、場を回転させ無駄なものを排除し、シンプルにしていきたい。その一心で声をかけるも、ぼんやりとした回答しかもらえなかった。さらには「あなたはその考え方でいいと思う」という謎の評価的コメントを貰い、バカにされたと憤った。何て意識が低いのかと。切磋琢磨こそ多くのことがわかっていく楽しさだというのに。
と、心底信じ切っていた私に、別テリトリーで似たようなことがあった。
某作品のストーリーの良し悪しについて話をする機会があった。
個人的にそのストーリーは不快感があったが、知人はあのストーリーの方が良い、と答えた。最初はああなんて情緒がないのか、と憤った。それまでは同回答の方が多かったからだ。けれど普段からお世話になっている別の知人からも同じような回答があがり、同時に沸き起こった不快感に目から鱗が落ちた。
個人が感じたこと、好きなものを語ること。
それらは、宗教・政治の話に似ているのではないか。
自分の好きな物、好きな概念、好きな世界、個を構築する世界=宗教 と言えなくもないのではないか。
であれば、その類の話は会社=不和を巻き起こしてはならない場所ではタブーではないのか。
これまでポンポンと口に出していた。
ただ共感がほしかっただけだ。私がこの世のコンテンツを味わい、意味がないもの、意味があるものを分け、共感してもらうこと、それが私にとって他者との対話と会話の意義だ。(あくまで肯定感をもらうためのもの)
それはもしかしたら、他者を不快にさせていたのかもしれない。
そう悟った。
好きな物を共感しあえないこと、それは寂しさの一途をたどる。
けれど不和を振りまき居場所をなくすを繰り返した己を振り返ってみて、生い先短い身であるのだから心の内に秘め、必要な時に出し、眺め、己を形づくるためにあれば良いのかもしれない。
一生、私はさびしいままなのかもしれない。
けれどこれは褒められる思考ではないだろうか。違うだろうか。