自分の力だけじゃなんにもできないくせに万能感だけはあって、私が被った迷惑はちっとも覚えていないようで、腹が立つ。ギターも歌も大して上手くないくせに、音楽で成功したら飯を食わせたいだなんて。寝言でも許されない。お前が買った本と食べた飯と交通費とその他諸々、それが飯の1回で返せると思っている頭の足らなさに腹が立つ。気持ちが悪い。記憶ごと全部消えてくれたらいいのに。
結局は電池取り替えなくても体重計は使えてる。
あの電池切れのサインはいったいなんだったのよ?
それにしても痩せてない
体重計の電池取り替えるの面倒だな。
こんな単純な作業が億劫とは我ながらなかなかダラシがない。 ⠀⠀⠀⠀ ⠀⠀ ⠀
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ネガティブな人は嫌な記憶を取り出して眺めて味わってる。
こんなことを言ってる人を何処かで見たけど、別にわざわざ取り出して、私はツライツライって言っているわけではないんだよなーとは思うのです。
何かのキッカケで表に出てしまって、ある程度それを眺めないと引っ込んでくれないから、眺めるしかないだけなのに。
悲劇のヒロイン、ヒーローのつもりもなくて、勝手にでてくるから治まるまでやり過ごす。それを自分から取り出してるなんて言われたら微妙な気持ちにはなります。
表に出てきてしまった気持ちはこういうところに置いておく。でも奥の方にひっそりと置けるように配慮はする。じゃあ最初から置かなきゃいいと言う人もいるかもしれないけど、吐き出したという事実は必要だから。せめて見えにくいところに置いておく。奥の方に来て見つけてしまって嫌ならごめんなさいという気持ちもあるけど、奥まで歩いてきたのはあなたでしょう?という気持ちもあるにはあります。
一番いい形って難しいけど、どちらかに合わせすぎないことも大事なのかなと思うのです。
今年も来年の手帳考える時期になってきた。
まあね、実は毎年挫折してるのに、この時期はワクワクするから、その気持ちは抑えない事にしてる。低空飛行ながら続いてるのは4行日記くらいかも。
何か記録したい気持ちがあって、結局それを何となく選んだ今年の手帳へ闇雲に書いてたんだけど、今回はその「書きたい事」を見つめ直そうと、とりあえず書きたい事を思いつくままにいっぱい書き出してみた。
それで書き出してみた上でちょっと整理してみたところ、私はメモとノートと手帳とできっちり分けてそれぞれに当てはまるグッズを考えてみたら自ずと何が必要か分かってきた気がする。
今までは「あの方式で失敗したからこれ。かわいいし」みたいにふわふわの選択だからダメだったんだなと実感。
今年は持ち歩きは前よりうんと小さくして取りこぼしのない自由メモ多めのスタイルにして、母艦として安心感のある容量の今年の一冊みたいなので受け止めるスタイルにしようと決まりました。
あれをどこに書こうって迷う気持ちを一回付箋とかに書き出して全部吐き出すと整理が更に捗ってまとめやすくなるかな。
まだマンスリーやデイリーのどこに何を書くかは決まってないけど、書きたい項目を突き詰めて整理したらこれも決まりそう。
人の手帳術がハマらないのはこういうの取っ払いすぎてたんだね…当たり前だけど「私がズボラだから…」と思ってた気持ちから一歩抜け出せたかも。
お食事系クレープをたべたくなって買ってしまった!
ツナとタマゴでシンプルだけど、クレープの甘みのある皮が相性良くてうまーい。
近所のある場所がずっと工事している。
元々あった建物を更地にし、そこから新しい建物を作るという長期の計画。
元々あった建物はけっこう立派でまだ全然使えそうだったんですよね。廃墟になっていたわけじゃなくて、直前までオフィス等で機能していたし。でも、壊してからじゃないとダメなんだろうなと。
そんなことを考えていたら、何か新しいことをしたいときとか心機一転したいときって、出来るだけまっさらな更地であるほうがやっぱりいいもんだよねと。ここはまだ使えるけど⋯ここは気に入っているけど⋯これがどうしても嫌だ、ダメだってときは更地にしないと始まらないような気がする。
自分でも周りから見ても、まったく新しいスタートにするには、元々いた場所を離れるか、元々いた場所を更地にするしかないのかもしれない。
離れるほうを選択する人が多いと思うけど、住所は同じだけど変わりたいときは更地にすることを意識したらいいのかなと変なことを考えた。
それにしても工事の音って、やっぱりうるさいなと。
今の思いや気持ちを溢したくなって、
10年以上前にお世話になったキミを思い出した。
またはじめてみようと思ったよ。
半分がだし巻き玉子という、斬新な弁当を買ってみました。
アリですね。だし巻き玉子は半分にしか切られてなくて、あとは齧っていくスタイルでした。
玉子をメインにすれば弁当って半分埋まるんだなと勉強になりました。
噛み合わないと悲しくなっていましたが、今はもう無理に噛み合わせないですね。
だから、あ、噛み合ってない⋯で終わります。
昔は、どうして?もっとこんな反応して欲しかったとかなど、自分の中で気持ちを反芻させたり、時には相手に理解してもらうために説明しようとしてましたが、もうやめました。
でも、今のほうが何故か穏やかですよね。でも、前のほうが自身は誠実だったと思うのです。相手と理解し合おうとしてた故に悶々としていたわけですからね。
誠実さと心の安寧って比例しないんだなと。私は不誠実でも、自身の平和をとってしまいます。それが変化ですかね。