今日は前から気になってたお店に行ってきた。
いつも閉まってる?と思ったら、何のことはない私がその前を通る時間帯はいつも営業時間外だったというだけの事だった。
少しお休み多めで、営業時間も短めだったから、本当にたまたま定休日とかに通ってたらしい。
国道沿いにある店なので気にはしてたけど、駐車場ないから行くとなるとまたちょっと手間のかかる所だったので、ようやく行けた感があった。
そしてわざわざ行った甲斐のある成果があった。
今後の定番になりそう。いい店に行けてよかった。
洗濯機が壊れてしまい今日は洗濯をしてませんが、洗濯をしないと朝が楽ですね。ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
私って出身地を愛でる気持ちとか母校への愛着とか、そういうのが他の人より少ないのかも?とは思います。
なんでしょうね?逆に凄い愛着全開!みたいな人ってどうしてそこまで?とは思います。
別に懐かしむ気持ちとか悪い思い出しかなかったということはないんですけど、絶対的な愛はないですね。
父が通っていたという小学校に転校したことがあるんですよね。その学校に通うとなると親戚関係だったり、そういうしがらみがあるということで母は反対したそうですが、俺の母校に子どもが通うというロマンに付き合わされた結果、私はその学校に通うことになりました。その学校は本当に良くなくてハッキリいうと今なら問題になるような言動を教師からされたこともあったし、母が危惧していた親戚関係のトラブルは言わずもがなって感じでしたね。途中でまた転校したのは良かったです。
そんな記憶もあるから執着に似た故郷や出身校への愛着に距離を置くような考えになったのかもしれません。
愛着は良い事なのかもしれませんが、自分の愛着に人を巻き込むことが良くないんでしょうね。
父は今も正月の駅伝を自分出身大学という理由だけで応援してますが、そんなに愛を持つほど大学生として真面目に勉強していたように思わないんですよね。勉強の話よりは飲み歩いて粗相したとかそういうタイプの自慢話しか話していないので。
自分の人生に少しでも関わったというだけで、あんなに思い入れが深くなってしまうことに違和感がありつつも、勝手に応援してる範囲なら別にいいのかなとも思います。
郷愁の思いは自分だけで完結するのが正しい愛着なのでしょうね。
私がかつて学んだ高校のある学科が、数十年前に姿を消しました。正直なところ、寂しさを感じるよりも、高校の発展を考えれば当然の決断だったと納得しています。
私もその廃止された学科の出身なのですが、確かに私たちのクラスには、どこか「野生的」な雰囲気が漂っていました。在学中は友人たちとそれなりに楽しく過ごしましたが、一方で「そっち側」に足を踏み入れてしまったような感覚も否めません。非行に走ったわけではありませんが、多くの生徒が「何も考えずに過ごせればいい」という風潮に流され、真面目に勉強する者がかえって浮いてしまうような環境でした。
入学は容易でした。私自身、勉強しなくても入れる学校を選びましたし、親の意向も大きかったです。もちろん、その雰囲気に流された私自身の責任も否定できません。しかし、高校生という多感な時期は、周囲の影響を受けやすいものです。そう考えると、当時の学科に漂っていた芳しくない空気は、やはり改善されるべきだったのだと思います。
だからこそ、あの学科が廃止されたことは、むしろ喜ばしいことだと感じています。若い頃には、良い意味で周囲に感化され、成長していく経験が必要です。健全な環境の中で、生徒たちがのびのびと学び、自分を磨けるような「良い流れ」を学校が提供してくれることを願っています。
文句や愚痴ばかり言うのも確かに良くないけれど、文句や愚痴ばかり言うなと言うのも良くないとは思う。ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
私たちは、自分がイライラしていたり、多忙を極めているときに、周囲の人々を委縮させてしまうことがあります。これはごく自然な反応かもしれません。しかし、自分が「教わる立場」にあるからこそ、この事実に気づけます。
かつて自分が「教える立場」だった頃を振り返ると、質問しやすい雰囲気を作る難しさを痛感します。自分で作業を進めた方が早いと感じたり、かつて自分が抱えていた「わからない」という気持ちを忘れがちになったりするものです。教える側も教わる側も、それぞれが自身の業務に手いっぱいで、他者にまで気を配る余裕がないのが現実かもしれません。
しかし、人生においては、私たちは様々な状況で立場を変えていきます。だからこそ、表面に見える状況(表のカード)の裏に隠された気持ちを、そして逆に見えない状況(裏のカード)の裏にある表の気持ちを、常に想像し続けることが重要だと考えます。
この視点の転換こそが、最終的にどんな立場であっても、表裏一体となって活用できる「一枚のカード」として、より良い人間関係を築く力になると信じています。この考え方を胸に、日々精進していきたいです。
中学生のときから仲良かった子、今思えば親が厳しかったのかも?
同じような偏差値の学校は近い範囲でけっこうあるのに、都会の私立女子校に進学していた。当時はあまりきにしていなかったけどかなり時間が経って、ブランド思考の親御さんだったのかなとは思う。
ウチは絶対に公立の家だったから、まず子どもながらにお金をかけてもらえることが羨ましいなとは思っていたな。頭が足りないから入れなかったとは思うけど、そういうタイプの女子校に入っていたらおそらく合わなさすぎて潰れていたかもなと。
それなのに、こんな私と仲良くすることを認めてくれてたのは感謝しかないんだけど、内心本当は親心としては私のようなタイプが友達って嫌だったのかもしれないとは思う。その辺の適当な公立高校行っている私とは付き合いさせたくなかったかもしれない。それでも今でも連絡取ろうと思えば取れるし30年近くどうにかなっているのはなかなか凄い。
でも今出会っても私たちは仲良くならないだろうなと。なんかそんな気がする。
こちらが忙しそうにしていても平気で今じゃなくてもいい話をしてくる人ってなんだろう。
自分が忙しいときは話しかけるなオーラすごいけどね。
何だろう。
mood よりこっちのほうが落ち着く。
アイコンもハンドル名もプロフィールもいらないよ、
心の色は自分で決める。
ある程度頂上にいると思っていたのに、そこは麓だったみたいな感じかなと。だから周りが何故登山をしているのか理解出来ないし、それを笑うことで平和に暮らしたかったのかな