好きな芸能人とかアーティストとか、逆にちょっと苦手なタイプのそういう人たちとか、まあ誰にでもあると思うんですよね。綺麗事抜きで言うと。
で、不思議なんだけど、自分の周りにいる自分の苦手な人や嫌いな人って自分が苦手な芸能人を好きだったりしません?逆に自分が好きだなと思っている芸能人とかを、その人は嫌っていたりすることもある。
こういうのが不思議だなーとは思う。やっぱり気が合わないんだなって確信にもなって良いとも思う。
ただ、ライブなんか行くと、ここにいる全員と気が合うわけでないんだよなーと思ったりもするので、好みと性格の合うところが重なり合うのも稀だなと思うのです。
暑さは少しは落ち着いたとはいえ、まだアイスコーヒーからホットコーヒーには切り替えられるほどではないので、まだ夏。
母がある俳優のことを「食べ方の演技がわざとらしい」と言っていたことがあります。私はあまりそうは思っていなくて、適当にその場は何か答えて終わったと思う。
元気で可愛らしい雰囲気のその俳優が、数年後にはさらに洗練されて綺麗になったなと思ったので、母との何気ない会話でさらりと思ったことを伝えたら、無視されたんですよね。
なんてことない状況だけど、母はこの俳優が嫌いだったんだなーと。
「可愛いくない」とか赤ちゃんに対しても容赦ないっていうか。その赤ちゃん、とても聡明で品があって、発光しているようなオーラがすごい方に成長されてますよ?なんて思いますが、母が生きていたらなんというのでしょうか。昔は可愛いくなかったけどーなんて上から目線で言うのでしょうね。
私、母のこういうところ苦手なんですよね。昔からというか、亡くなって数年経ってそれに自分が気づいていったという感じです。家族だから気が緩んでそんなことを言うのかもしれませんが、人を貶すような言葉をコミュニケーションの一部として使ってくる環境を与えられていたということに、その時は感じなかった疲弊が後から追いかけてくるような感覚が現在ですね。
弟義妹家族とことごとく価値観があわない
嫌いだわ、ほんとに
小姑であるわたしや、義母にあたる母への態度がほんとにやだ
別にありがとうが欲しくてやってるわけじゃないけど
LINE既読もつけないってどーゆー神経なの?
お祝いおくってるのに
去年の今頃も嫌いだわもう、やらんと思ってたけど
まじ来年はなしにしよう
離しすぎないようにしようではなくて、話しすぎないようにしように変わっていきました。
でも、これが大事。
日常的な会話から、ちょっと昔の嫌な出来事に繫がって、それを言葉に出してしまったけど、やっぱり反応は悪かったなと。
無事だったし、どうにか10年以上その出来事から過ごしてはいるけれど、その時にちょっと運が悪かったら命にも関わることではありました。でも、困ったような反応、そして早く飲み干してしまいたい薄くてマズいお茶をすすってるようなオーラを出されてガッカリしましたね。
でも、まあ、これはいつものことなんですよ。ちょっと自分が反応に困るような話になると、マズいお茶をすすってる顔つきになって、次のお茶請けを探しているような雰囲気になっている。
昔と違って、あ、また、この話嫌だなって思っているんだろうなって気が付くのも早くなったから、自分でもなんとか着地点を早めに見つけ出して終わらせた。
そうしたら「話しは変わるんだけどさ〜」とすごく楽しそうに息を吹き替えしたように話し出すから、わかってはいたけれどガッカリもしてしまいました。あの出来事、私は怖かったし、今こうしていなかったかもしれないのに、その気持ちはどうでもいいんだなと。
一応、労ったように聞こえる言葉、寄り添っているように見える言葉を使ってはいたけど、あの苦いお茶を飲み干しているオーラは私には見えてました。そして、切り替わったときのあの嬉しそうな顔⋯
近い存在でも、私が抱えている気持ちに振れたくないんだなって思うと人間っていうのはなんでしょうね?とは思います。だからその話題や暗い話、ネガティブなこと、愚痴は言わないようにしてますが、それでも、言わないようにしているからといって自分の中から消え去ったわけではないので、何かのキッカケで表に出てしまうこともある。それをうまくコントロール出来るほど私は器用じゃないんだよなと。
だから、やっぱり最初から話をしないとか、そういうレベルじゃないと無理なんだよな。1人じゃないのに独りだよねーと思う瞬間ではあります。
カカオを使っていないチョコレートを食べましたが、ちょっと薄い気がします。
まあ、食べられないことはなかったです。
いつも雨降るかどうかって聞かれても私気象予報士じゃないとは思ってしまう。だって天気予報で見たことを言ってるだけだし、雨降るよ?って言っても洗濯物を外に干すから意味がない。それなら最初から聞かないでーとは思ってしまう。
そして、雨が降ってきて洗濯物を急いで取り込むのは私だったりするので、それがもう疲れる。
今日も外に干しちゃうんだろうな。
仕事の後でも食事を作っていることを褒められて「大したことない、本当に食材をのせただけとかなんですよ」と言ったことと、その“大したことない"料理をアップしてくるあの人。
まあ、通常営業だけど、私にとってはとても疲れる投稿ではありました。
食べてくれる家族への感謝、美味しい食材への感謝。そして、なんだかこだわってるものちゃんと商品名を書くところ。ニッシさんのこだわり豆腐とか絶対書く。これもなかなか用意周到さを感じますね。
手抜きもしても周りへの感謝は忘れないし、褒められても謙遜する私、見てください!ってことなんですよね。私、手を抜いているけど、こだわるところはこだわっていて、ただの手抜きとは違うのよ?ってことを言いたいんだろうと。それを感謝というラップでぴったりぎっちり密閉したような言葉たちだったな。
この人を観察してるのは、感謝や謙虚さも結局はアピール材料にしてしまえばウザいんだなということを学べるからなんですよね。感謝も謙虚さも大事だと思いますが、過剰に並びたてるとゲテモノになる。そんな見本だなと思うのです。
今日は人生の中でいくつかある、「一段上がった瞬間」だったかもしれない。
ずっと、集団の中で孤立することや、自分の意見を主張して相手の不興を買うことがすごく怖くて、おかしいと思うことでも「みんなそうしている」とか、責任感、良識、みたいなものを持ち出されるとそれ以上言えなかった。
その組織の中、自分が関わる人たちから認められたい気持ちが強くて、合わせすぎていたんだと思う。
それが今日は、初めて「それは今後きちんと決めていかないといけないことだと感じます。個人の良識や責任感に委ねるのは人が離れていく一つの理由になると思う」と、感情的に反発するのでもなく、現実的には難しいというのもわかった上で、ただ自分はそれを良しとすべきだと思わない、という一意見として主張できた。もちろん、それにさらに反論されたら、引くつもりで。
けど、結果として、相手は上司で、これまでそういう慣習を良くはないと思いつつも仕方ないと受け入れてきた側なんだけど、その上司が「そうだね」と言ってくれた。
今まで自分が認めてきたことを否定されたに近いのに、それに対して反発して正論、綺麗事、と鼻で笑わなかった上司がすごいのだと思うけど、自分の意見を恐れずちゃんと言えたこと、そうできるだけの自信がついたんだなということも、そうしてみたら反発されたり笑われたりしなかったということも、すごく嬉しかった。