なんか語ろうとするとどうしてもネガティブな感じになっちゃうんですよね。だからこそ1人でいるのが安心出来るのかもしれない。
あんまりこういうこと言わないようにしよう!と気負うと疲れちゃうので、感情を適当に置いていけるココは好きなんですよね。
今日からゴールデンウイークです。家族は長めの休みの人もいて、まあ自分のペースはないけれど。なんとかいきます
ベランダ園芸始めた頃から憧れてたいちご。
いちご、難しいんですよ。時々画像で見かける、鉢から溢れるようにたわわに実ったいちごって、ファンタジーだと思ってた。
植える品種と位置、株の数、鉢の大きさ、そんなのがいい感じにマッチングしないとああはならない。
春に売り出す苗が多いけど、本当にあんな風に育てたいなら秋に苗を植えないと上手くいかないしね。
そんな諸々もあり、うちは今、ワイルドストロベリーしか育ててない。ワイルドストロベリー、なかなか侮れないんだよ。
めちゃめちゃ丈夫で次々実がなるし、肥料やるとそこそこ大きくて甘い実がなるし。
株分でどんどん増えるから、地植え嫌う人もいるくらい増えたりするしね。
採り損ねてクチャっとなった実は、土に植えとくと芽が出ていつの間にか大株に育つくらい丈夫。
今年、そんな風にテキトーに、でも途切れることなく育ててたワイルドストロベリーが初めて実が垂れる感じの大鉢になって大喜び。
今までも同じ鉢で何となく何年も育ててたのに、こんなに上手く育ったのは初めて。
長かった。
今はほぼ毎日採れるくらいなってて楽しい。
それにしてもいちごって、何故こんなにもウキウキしてしまう姿なのか。見てるだけでいいなといつも思う。
もうしばらく楽しませてほしいな。
一歳の時に亡くなった父は遺影でしか見たことなかったけど、
祖母の家を片付けた際、遺品のカメラと写真がでてきて、私が引き取った。
写真のほとんどが電車。
鉄っちゃんだったのか。
写真の裏側にメモ書きがあって、初めて見る父の手書きにしんみり。
そして、社員旅行の集合写真と、友達と一緒の写真が数枚。
たぶんまだ10代の父が、水着姿の女性二人に挟まれて照れてたり、
一日駅長の女優さん?とのツーショットや、友達と笑ってるスナップ。
身内のひいき目を抜いても、この時代に、この人モテたろうな、と思った。
現代ではちょっと古臭い濃い目の顔とスラッとした体。
昔のドラマの俳優さんによくいた系統だよね。
足を組んでソファに座ってる写真とか、なんか雰囲気がある。
市民劇団で舞台に出た時のメイク姿だけど、あんまり違和感ないもん。
戦場のメリークリスマスの坂本教授がしてたメイクを彷彿させるノーズシャドーとアイメイクがまた良き。
これだけメイクして映えるのは女からしてもうらやましい。
そして、女性とのツーショット。
当時付き合ってたんだろう女性の横で、笑ってる父の顔を見てびっくり。
弟かと思った。
ほんと、瓜二つ。
叔母が父と弟を瓜二つだといつも言ってたけどなるほど。
笑顔が完全に弟で、一瞬時空がバグったのかと思ったくらい。
あー、すごい良い笑顔の写真なのに、隣の女性が母ではないのでなんだか複雑。
しかも母とタイプが真逆なのもね…。
母には見せないでおこう。一応。
ファザコンぽいけど、父のことを普通に母と話せるようになったのはこの1年ほどだから、見逃してほしい。
亡くなった父のことを母も祖母も話したがらず、撮る専だったのか写真もあまり残っておらず
ほとんど遺影の印象しかない父だった。
私もそんな父について聞くのをずっと遠慮してたのだから。
遺影のカメラをもらったり、墓じまいで遺骨を移動したりなどがあって、やっと話せる時が来た。
どんな人だったのだろう?と。
たった24歳で亡くなった父のことを40歳過ぎて少しずつ知ることができた。
記憶なんてなくても、自分のルーツだもん。
ずっと謎だったし、恋しかったけど、誰にも聞けなかったから、今その片鱗だけでも見れるのはすごくうれしい。
私は現代風のあっさり塩顔がタイプだけど、父は父でイケメンなのがうれしい。
生きてたら、自慢できたかもしれないのにな。
生きてるときの記憶がないのが、残念だわ。
今でも、すごく会ってみたいよ。
時間にルーズな人は嫌だ。
約束の時間を守れない、日程調整の返事をさっとしない、トロくて待たせる、等々。
まぁ、これ、私の周りでは家族だけなんですけどね。
家族だからって思うのかもしれないけど、そのルーズさで私の出発が遅れたら、予約していた店や待たせている人にも迷惑がかかることも想像できないのかなと、唖然とする。
社会人何年やってんの?
とはいえ、私も学生時代、超遅刻魔だった。
私の場合、時間を守る気は満々だったのに、いつもなぜか時間を間違える。
下手したら病名が付くレベルで間違えてた。
ファストフードのバイト先で、何度もきつく怒られたし、自分自身もすごい反省して何とか直そうと、最終的にはシフトの開始時間より1時間早く店に着くことを自分に課したりしたっけ。
私がその悪循環を断ち切れたのは、ネットの相談掲示板で言われた一言が大きい。
「時間を守れない人間は、信用に値しない」
その言葉が、ガンと頭に響いて、自分の目につくところに貼り出して、呪文のように自分に刷り込ませた結果、15分前行動が当たり前になり、遅刻もなくなったのだけど。
その反動か、人に厳しいかも。
たまの間違いで真摯に誤ってくれる分にはもちろん構わない。
ただ、常習犯は無理。
時間ってどの人にも平等に与えられた唯一のものだと思ってて、しかも、取り戻すことはできないものだ。
それを他人が奪っていいはずがない、と。
待たせる人のことを完全に蔑ろにしていると思う。
そして、そういう人と付き合う気はないので、友人や仕事仲間にそういう人はまずいないのだけど、家族がなー。
ほんっと、遅れてきたくせに、私の準備をせかす母親には子供のころから理不尽だと怒りを覚えてたし、遅れて謝りもしない弟のことは、「こいつ仕事できんのだろうな」と内心馬鹿にしてる。
母は私のことを自分の所有物だと思ってるんだろうし、弟は時間という概念のない世界で20年働き続けたことで、転職回数が多い私より上だとマウントをとってる。(正直、そんな会社にいても意味なくない?と思うけど)
もう、どうしようもない人たち。
イライラするだけばかばかしい。
ただ、今日は必要な約束があって母を待っているが「28日に来る」という連絡だけで、時間については一切触れられないまま今日が来た。
私は大事な引継ぎもあるから朝一で準備して、資料も作っておいたのに、いつまでたっても連絡持つかないままこの時間。
あ、いつも通り21時以降に来るつもりでしたか。
来なくていい時は真昼間にチャイム鳴らす癖に、必要な時はぎりぎりまで待たせる。
ほんと最悪。
早く今日が終わってくれればいいのに。
高校生活最後の生徒会選挙。
卒業していく3年生たちにとっては、後輩たちに託すための選挙。
会長に立候補したのは2年生の男子。
定数1に対して、立候補者1。
「信任」・「不信任」を問う投票となった。
結果、「不信任」
先生は怒った。「まじめにやれ」って。
しかも、うちのクラスの不信任票が多かったって。
おかしくね? と思ったけど、おかしさを言語にすることもできなくて。
中途半端に言語にしたら、大人の言葉に丸め込まれるだろうし。
なんか、もろもろめんどくさくて黙ってた。
でも、大人になって「おかしくね?」がどんどん膨らんでいった。
1.なんでうちのクラスの不信任票が多いってわかるの?
投票は無記名式。学年もクラスも書かない。
信任と不信任どちらかに〇をつける方式。筆跡でわかるもんでもない。
え、投票用紙に何か細工でもしてたの?
2.いや、まじめにやったから「不信任」に入れたんだけど。
だって、演説の内容も態度も全然「よし、卒業後は任せたぜ!」と思えるような候補者じゃなかったんだもの。彼のことはよく知らないから、演説で判断するしかないじゃない。
3.なんで「不信任」になったことを怒られなきゃいけないの?
定数より候補者が少なかったり、同数であったりしたら、無投票当選という方法だってある。
けれど、うちの高校の生徒会選挙は「信任・不信任を問う」という方法を採用していたんだもの。当然、「不信任」という結果になることだってある。
それを教員が許さないっておかしくない?
それって、「教員が望む結果への誘導」になるんじゃないの?それってありなの?
そして、再投票となった。
私はひねくれものなので、先生に怒られたとしても、彼が同じような演説をしたら「不信任」に入れようと思っていた。
けど、改めてやった演説はなかなかよかった。一回目は下を向いて声も小さかったのに、ちゃんと前を向いて声もしっかり出していた。
「信任」に入れた。結果も「信任」だった。
ど田舎高校で、だからこそ先生方が熱心で。悪くない学校だったと思うけど。
これだけはいただけないよあー。
あの頃の先生たちの一人でも「そういえばあれはあんま良くなかったな」って思ってくれてればいいなー。まぁ、もう忘れてるだろうな。公立だし。異動すりゃ全部なかったことになるもんね。
いつもだったら「スマホ鳴ってましたよ?」って伝えるんですけど、昨日はしませんした。
電話の相手に心当たりがあるからです。その電話に出られたら電話の相手の要求を私が聞かないといけないからです。
仕事の電話なら仕事場に直接かけてくればいいのですが、それをしないでクッションとなる相手に伝言を頼む。それがパターン化してるので疲れたのです。
クッションとなっている相手の方はお気の毒ではあるのですが、電話の相手の要求をそれが正しいか正しくないかは二の次で、私にやらせようとするんですよね。それが必要のないことやしないほうがいい事だと私も意見するんですが、とにかく頼まれたからやっておいてと強引なんです。
そういうことがあるので、スマホが鳴っていたことは言いませんでした。もしかしたら他の人かもしれないですけどね。
負のパターン化は誰かの気遣いや優しさを奪っていく。私が優しいとか言いたいわけじゃないですが、「スマホ鳴ってましたよ?」くらいの声かけさえ奪っていくのは間違いなく負のパターン化と負の連鎖です。
自分の恋人や配偶者を自分の友達グループやその他自分のコミュニティに連れていく展開。あれって何でそんなことするのでしょうか。
私も昔そんなことありました。で、それをやられると高確率で上手くいかなくなると‥
ドラマや小説でもありますよね。恋人の友達の輪に馴染めなくてなんだか嫌な方向に進む展開。上手くいかなくなるのがわかってるから使われるんだろうなその設定って思いますね。
でも不思議ですよね。恋人や家族の親密さをその人とは築けるのに、その人の友達とはまるで合わない。むしろちょっと苦手なタイプとかありますよね。あれ不思議です。
友達の恋人は他人。恋人の友達は他人。そういう線引が出来るかどうかも価値観が合う合わないなんでしょうね。
これはベッドでぼんやりネット見ながらふと思ったことなんだけどね。
推し文化の発展と、恋愛する人が減ったことって関係があって、それは完璧主義的原点方式の教育と、それを心を無視して突っ走って目指しすぎたことによるものなんじゃないかなあって。
推し文化は完璧性以外許されない風潮をしめし、恋愛する人が減ったのは傷を負うことで完璧じゃない自分がなおのことダメになっていくというか、傷をこれ以上負ってはいけないみたいな・・・。みんな傷だらけなんじゃないかなあと思う。
だから推し文化の発展と恋愛する人の減少はある意味、互いに便利な点もあって、完璧性は求められるし傷も負わないしなんとなく寂しさもないもののように扱える。推し文化を扇動するように大人はお金をじゃんじゃんだすし。
完璧に毎日、全く傷も負わずに生きるのなんて無理なんだよ。鈍感だから、繊細だからで傷の大きさに差はあれど、傷は負ってる。負ってく。
誰かからの「そのままのあなたが大好きだよ」を待ってる気がなんとなくした。でも今それが言える人がもしかしたら少ないのかもしれない。
某タワーのジェンダーレストイレ問題を聞いて思い出すのが、海外ドラマのアリーmy love.
法律事務所を舞台にしたコメディドラマ。
事務所内のトイレはジェンダーレス。
そのトイレの個室のドア、上下が開いてて、よくトイレで密談するシーンでは、トレイのドアの下から足がのぞいていないかチェック。
誰も使用中でないことを確認して密談を始めたり
(実はトイレの個室内にいる人が足を上げていないふりをしながら、密談を聞くシーンも多数)
トイレの上から顔を出して、横の個室にいる人に話しかけたり(一応男性の友人同士だったが)、
ご夫婦やカップルで個室に入るシーンもあったり・・・
仲良しのメンバーがトイレ内でわちゃわちゃしてるのを見たり、そのトイレの中でみんなで歌って踊ったりするシーンがあったりするのが好きだったけど、冷静に考えれば背筋が凍る。
トイレのドアの下からひざ下が全見えなつくりなのも、ゾッとするよね。
海外はそんなものかな、と思ってたけど、実際に海外に行ってドアが上から下まできっちりおおわれてるのを見て「あれ?」と感じたし。
欧米では何年も前からジェンダーレストイレ問題は言われていたらしいけど、大手メディア(BBCなど)では一切批判的な報道はされていないとのこと。
でも巷では非難轟々らしい。当然だけど。
私は女性なので、男性の気持ちは分からないけど、女性にとってお手洗いは用を足すだけでなくお化粧直しをしたり、時に世間話で盛り上がったりする寛ぎの場。
新入社員時代、叱られてトイレにこもってコッソリ泣いた、という人もきっと多いはず。
そんな場所を壊されるのは嫌だな。
アリーmy loveは人種やジェンダーのマイノリティ、社会に溶け込みにくい変わり者も、優しく包み込む素敵なドラマだと思ってたけど、いざ、今のご時世、改めて見直すと、心も体も女性の気持ちをかなり無碍にしてるのかも、と感じて悲しくなった。
そもそも、女優さんみんな雪が積もってるシーンでも極短スカートで演じてる時点で、男性優位なドラマだったのかも、と思わずにいられない。
ヒロインが恋愛至上主義なのも、今思うと、あれれ?となったり。
それが悪いわけじゃないけどさ。
新卒の就活中に見て、社会人生活に夢を抱かせてたドラマが、社会経験を十二分に積んだ今見ると、全く違って見えるんだ。
面白いけど、ありえないでしょ、と。
20代前半、人に「どうなりたいか」と尋ねられて
「強くなりたい」と、こたえた。
この度、長くご無沙汰した故郷の高齢の母と、闘病中の姉と会って来た。
夫はここ何ヶ月か不調が続いている。
さまざまな事が短い間に起きた。
思いがけない事もあった。
色んな事を感じ、考えた。
およそ半世紀、葛藤と執着の相手であった姉が、痩せさらばえた体からか細い声を絞り出し、私に
「げんきでね」と言った。
今、薄暗くなりかけた部屋で腰掛けながら思う。
わたし、多分強くなれた、と。
からだは強くないが、心は強くなれた、と。