私、もうすぐ9歳なんです。
え?と思われるかもしれませんが、母が亡くなってからもうすぐ9年経つので、私は9歳ということになります。
亡くなってから色々なことに気が付きました。これが、私が自分を9歳だと言いたくなる理由です。今までは私の体を纏った母がいたんですが、徐々にそれは抜け私は私だけの人格という意味では9歳、小学3年生相当ですね。
時々、まだ自分の中に両親の遺伝子や育った環境が自分の中にいて、それが悪さをして、今の家族とトラブルを起こすこともあります。つい先日もそんなことがありました。父みたいに意味不明なことでキレたように他の人には見えたでしょう。私にとっては理由があるんですが⋯だから父も意味不明に見えても意味のあることで怒鳴ってたんだな⋯とは思えません。あれは意味不明で理不尽です。
母の話でしたね。1人になりたい、1人になりたいって思うのは母に似たのかな?私の中の父が出てきたのも、この1人になりたいという感情を制御出来なくて起こったことでもあるので。
でも、私はもう9歳、でもまだ9歳。1人になりたいがゆえに家族に嫌味を言うようにはなりたくないし、ならないと意気込んでいた部分があって、それが精神を摩耗したのかなとも思います。9歳だからしょうがないのですが、もうちょっとどうにかしたい部分もあります。
書類上の年齢は9歳の約4倍なんですが、書類上の年齢と一致するようになりたかった。親から離れてからじゃないと本当の自分が生まれない。書類上の年齢と実際の年齢が一致する人が羨ましい。きちんと親に与えられてきた人だと思うからです。理不尽さもなく、嫌味もなく、ケチられない。それだけで書類上の年齢と実際の年齢が比例しやすいですね。
私は30年くらい差があるので、本当はまだランドセルを背負っていなきゃならないのですが、またあの時代に戻ってやり直すのもシンドイですね。でも、私は自分が9歳になれることが嬉しいのです。9歳にすらなれなかった可能性もあると考える恐ろしいです。
表面だけで色々判断しすぎてもいけないけれど、表面だけ取り繕えばちゃんと見えたりもするし、そういう使い分けを上手くやっていけるようになりたい。
クローゼットの奥から、湿気を吸ってゼリー状になるフック付きシートを取り出す。あれは便利といえば便利だが、どうにもすぐに役目を終えてしまう。まだわずかに透明な部分を残しながらも、大部分がぷるんとした塊に変わっている。それでも、もったいないからとそのままにして、新しいシートをその上に吊るした。それだけではない。太陽の光を浴びればまた使えるという、フック付きの除湿シートも使っているし、足元には置き型の除湿剤も鎮座している。
昨日ふと、クローゼットの扉を開けた時、奇妙な感覚に襲われた。「もしかして、服よりも除湿剤のほうが、この空間の主役なのではないか?」と。
もちろん、大切な服を守るためには湿気は大敵だ。そのための対策は必要不可欠。だが、ここまで来ると、まるで除湿剤をメインに収納しているような、本末転倒な光景に見える。
考えてみれば、こういうことは世の中に溢れている。本当に守りたいもの、大切なものを守るために、それ自体はさほど重要ではない「何か」を、やたらとたくさん配置しなければならない。今話しているのは、除湿剤のことだけれど、その役割自体はありがたいものだ。大切じゃないなどと口走ってしまったのは、訂正しよう。
クローゼットの中だけではない。まるで湿気のような、とめどなく押し寄せる「何か」と、それに抗うための「除湿剤」のような存在に囲まれて、どうにか日々をやり過ごすことに、自分は少し疲れているのかもしれない。ゼリー状になるのも早いし、天日干しのサインが出るのもあっという間だ。本当にキリがない。そんなことばかりが、自分の日常を占めている。
毎日予期せぬイレギュラーな出来事がたくさんあって、心身ともに本当に疲弊してしまいます。ただただ決まったルーティンをこなす、そんな穏やかな日々を送りたいと切に願っています。
自分には、とっさの機転が利く才能も、話術も、特別なスキルもありません。だから、自分に合っているのは、ただ単純な作業を黙々とこなすことだと感じています。しかし、人それぞれに言うことや感じ方が違うので、自分はただひたすら目の前の仕事に集中するしかありません。
それなのに、ふと頭をよぎるのは、頭の回転が速く、人を惹きつけ、あるいは突出した才能を持つ人が、いとも簡単にすべての良いところを持っていくことへの虚しさです。この胸の中に渦巻く澱(おり)のような感情は、せめて自分で水と石鹸で洗い流しながら前に進むしかないと、自分に言い聞かせています。
まるで毎日お風呂に浸かって、心ゆくまで体をきれいにするように。違う香りの石鹸や、趣の異なる入浴剤を使うたびに、このわだかまりも少しずつ変わっていくのかもしれません。
冷凍のサーモン丼美味しかったです。
丸形にラッピングされているので、そのまま、丸形のサーモンがご飯に乗っかりました。
すきヤのまぐろのたたき丼もこんな形で、フリスビー丼なんて言われているそうです。
あの頃、自分では一生懸命片付け掃除をしていたんだけど、運が全然良くなくて。よく整理整頓や掃除をすると運が巡ってくるみたいな定説ってあるじゃないですか。片付けとか苦手なので一般的な基準には達していなかったとしても、自分になりにやっていたし、やろうとしていたんですよね。
子どもも小さかったんで、昼寝しているうちにフローリングモップかけたりとか、無理してたんですよ。だけど、私は配偶者からは冷たくされていて、私とは行かないオシャレで高いケーキ屋に平日の夜に出向かれたりしてました。もちろん、配偶者1人じゃないですよ。誰かと一緒だったんですよ。私も平日の夜にオシャレで高いケーキ屋行って誰かに話を聞いて欲しいなんて思っていました。
悲しかったです。自分の時間もないのに苦手な掃除もしたり、合間を縫って料理したり買い物に行ったりお風呂に入れてあげたり⋯すごくすごく頑張ってたんですけど、私には平日の夜にオシャレで高い店でケーキを食べるご褒美は与えられていません。もう、あれから10年以上経ってますが⋯
そのケーキ屋で楽しく、愚痴も言い合いながらリフレッシュして、私に優しければまだ救われたんですけど、すごく冷たかったです。一緒にケーキを食べた相手と先に出会いたかった⋯と直接は言われていないけど、それを言われていたのと同等な態度だとは思うのです。
だから片付けても掃除しても悪いことは起こるんですよね。だから一生懸命やるのは今辞めてます。というか、もう一生懸命出来ないんじゃないですかね?あの頃の私、本当に無理をしていて頑張っていました。適当に掃除機かけて、自分で勝手にケーキを買って食べる。そっちのほうが絶対、いいですよね。例え良いことが起こらなくとも、悪いことが起ころうとも、掃除のせいじゃないなら適当にしていたほうがお得なんです。気が向いたら、あの部分掃除しようかな?片付けようかな?と思っているけど、思っている期間が長いですね。夏休みより長いな。
ひとりになりたいな、なんとなく気持ちが限界かも?と思っていたらやっぱり爆発してしまった。
ひとりになりたいときにひとりになれることって大事だよね。
最寄り駅から電車で10分のところが求人が出ていたので、応募したら「家から近い人を採用したいので⋯」と電話がかかってきたことがあります。「面接は出来るけど、自転車で来れる人を採用する方針で⋯」とそこまでは言うけど、そこから何も言わないのです。
ああ、これ、私から辞退して欲しいんだなと思い辞退した思い出がありますが、それなら自転車の人優先って書いて欲しかったなーと。まあ、年齢とか他の情報で断りたかったのかもしれませんが⋯職探しって大変です。
私も何を食べるか、作るか「考える」のが嫌なのよ。
だから、あなたが嫌なことは私も嫌なんだから、自分が好きな時間に起きてきて、食べる食べ物くらいは自分で考えてくださいませ
いい事を言ったと思われたくて発言したのに、実際は非難されたり相手にされなかったりした場合。思わぬ反応が返ってくると、黙るか、「私はいいけど〇〇が可哀想」とか言ってくるんですよね。
昔、子どもが通っていた幼稚園の行事を、手伝いの保護者の負担が大きいという意見が多数あったらしく、幼稚園側が簡素化をしたんですよね。私もその簡素化には賛成でした。
ただ、1人の保護者がそれを簡素化するのはおかしいと発言したのです。私は簡素化に賛成でしたが、この保護者はずっと簡素化したことに対して不満を言ってて、みんなもそう思ってるのに!といった体で意見を言ってきてたのですが、少なくとも私は全然そう思ってなかったので、みんなではないんですよね。
みんなが思っているから、私が幼稚園に堂々と意見します!と言わんばかりに、ある程度"みんな“がいる場で幼稚園側に意見していたのですが、幼稚園側からはあまり受け止められておらず、他の保護者も賛同する人もおらず⋯妙な雰囲気になったんです。
そうしたら、最初の「私はいいけど⋯みんなが⋯」と弱々しく呟き寸前の声になっていたけど喋っていました。
その人、自分がその行事を復活させたかっただけなのに、みんながそう思っているとなぜか信じて、自分が言わなきゃ誰が言うの?というある意味正義感を持って発言したのに、実際は何かが違った⋯そんな感じだと思います。
否定されないから肯定されていると思い込んでしまうものなのかもしれません。そして、正義感によって誰かから称賛されたいという欲も持っていたら、自分が正しい!と暴走してしまうものなのかなと。
正義感に見える意見は否定しにくいだけで、肯定はされていない。そんなことはそこら中に溢れているのかもしれません。