「太ったー」と言うと「私は痩せた、20年前から食べても何キロ以上は超えられない」って聞かれてもいないのに言ってくるのが会話泥棒というのではないかな?
昨日から飲みだしたコーヒー、美味しいな。
何気にコーヒーの値段も凄い上がっていてどうにか踏ん張って欲しいと思っているところです。
コーヒーに合うチョコレートも高いので私の嗜好品が大変なことに。
お年玉、子どもたちにとっては楽しみなのはわかるけど、自分の実家に顔出そうとは思わないかな。
今行ったら時期的にお年玉はくれるとは思うけど、「してやった」という経験値を父に与えることになってしまうかも?と思うのがシンドイ。
特に弟たちよりも、私側にしてあげたことは強烈に「してあげた」という記憶になるらしい。
ちょっとした会話だけど、弟と父が食事をしたという話を聞いて、それを「いいな〜」なんて返したら、父が「あなたにもあの時はおごってあげた」とか言い出して、そういう意味で受け取られちゃった?と思ったことがある。私が発した「いいな〜」はもっと広義の意味を含んでいて、ご馳走してもらった弟にもいいな〜という意味もあるけれど、美味しいものを食べられていいなという意味が8割を占めているんですよね。
父にとって、私は弟よりも優遇されていてワガママというベースがあるらしいから、どんな会話でも着地点が「私が悪い」という枠に収まってしまうのです。
だから、「私」の子どもにお年玉をあげたら、父の本能的に「してあげた」と思うのでしょう。その、してあげたという気持ちが私だけに向くならいいけど、子どもたちに向くの絶対に嫌なので、貰わないほうがいいんです。
義理の両親のほうが遠くに住んでいるのに、帰省しなくとも用意をしてくれて、いつもありがたいとは思うけど、うちのほうはなんだかな⋯という微妙な気持ちに毎年なっています。
実家にはおせちや雑煮やその他の「しきたり」的な色々があって、それは絶対の正義なんだと思ってたし、なんか堅苦しいとも思ってた。
正月を自宅で過ごすようになっても何年かは実家のやり方を踏襲してたけど、だんだん食べたいものだけ食べたいように用意してたら、実家のやり方から離れて行きそのうち勝手にやってた色々なものが毎年恒例になっていった。
あ、なるほど、こうやってしきたりみたいになっていくのかと感じた。
実家のしきたりは何だか合わなかったんだけど、自分で作っていった恒例のものは心地いい。
ある程度決まってたら何も考えずに用意出来るしね。
しきたりみたいになってしまうと楽ちんだ。面白いもんだね。
今年も明けてました。ここ数年は寝るのが早いし、日付が変わるまでわざわざ起きているということはないですね。
いつも通り起きていつものように過ごせるのが一番負担にならないし、それが私の幸せに繋がるので自分を優先しています。
先月、あるライブに行きましたが、その時は日付が変わるまで起きてしまっていましたね。帰宅が23時頃でお風呂やらなにやらやってると就寝が0時すぎてました。それ以外は本当に日付を跨ぐまで起きていることがないですよね。
寝るって大事で、自分のペースで寝て起きるって本当に大事なんだと思います。早く寝たいけどライブがあったからしょうがないと納得出来るような理由なら睡眠を削るという無理も出来るんでしょうね。ただ、自分では寝ていたいのに日付が変わるからという理由だけで起きているのは納得出来ないからしないです。
今年も自分が納得出来る、自分のための無理なら時々していきたいと思います。
あけましておめでとうございます
昨日は4割引の小さなおせちセットを買えたので、ちょっと正月感が増したような気がします。
あと1時間もしたら
今年も終わる。
年女の1年間は
これといって
デカい出来事もなかったけど
元旦那の返済終わらせた
来年買い換えようと思ってた車壊れて
とりあえずのやっすい車買う羽目に。
まぁ健康に過ごせたことが一番ね。
来年はもっと穏やかに過ごせるいいな。
大みそかのテレビって疲れるから実は苦手です。
家族がいるとどうしてもテレビがついてるから疲れる。
ちょっと消すチャンスだったので消したら静かで良い。
「それ、わかるー私もこういうことがあって⋯」
これ、必ずしも会話泥棒じゃないですよ。物凄く共感して、相手に寄り沿ってるつもりで言っている人も多いですよ。
頷いているけど聞いていない人、そのタイプも結構いますよ。
結局のところ、私たちが矛盾を許せるかどうかは、その矛盾が「自分を飾るための武器」になっているか、それとも「自分の弱さから漏れ出たもの」なのか、という点にあるのかもしれません。