「ありがとう」にやたらこだわる人って面倒。
それを言われたがるから、その仕掛けをそのへんに張り巡らせている。
誰かが誰かに「ありがとう」を言ってるのを見るだけでも、しみじみしちやって「ありがとうって言うのって大事だよね」と悦に入っていた人もいた。
この人が言うように、確かにありがとうを伝えることは大事なんですが、そこに拘りすぎて執着してる人に、ありがとうと素直に言えなくなってしまうような気がするんですよね。
こういうタイプの人に、ありがとうを言っているところも見られたくない。当たり前のことを言っているだけなのに、急にほめられたり、しみじみモードに入られるとシンドイ。
子どものころ、父がお土産を買ってきて、厳しめに「ありがとうは?」と言っていた。ありがとうの強要をされてきて、自分で勝手にしたことに「ありがとう」を求める行為がどうも受け付けない。教育だ!と言われておしまいだろうけど、大人になっても違和感しか残っていないのが答えなのかなと。
「ありがとうとごめんなさいが言えればそれでいいと思う」昔付き合いがあった友達もそんなことをしょっちゅうSNSにて主張してましたね。でも、これって言っとけばいいと思うとも取れてしまったんです。元友人、この言葉で人を支配してたから。
感謝を述べる言葉に変なしがらみがつくと、自然な"ありがとう“が淘汰されてしまう気がします。ああいうタイプの人たちは自分たちが良いことを主張してると思って発言されてると思うのですが、その主張、しなくてもいいんじゃない?って思ってます。
最後に⋯ありがとうは?
これ、やっぱり良くないよね。頼んでないしって誰もってなりますね。ありがとうって言われたい。ありがとうって大事だよね。⋯⋯
やっぱり違和感。最後まで読んでいただきありがとうございました。
今日はランチに行きますが、何を食べるか決めるのが地味に面倒なのわかりますか?
一緒に行く人が嫌いなんじゃなくて、むしろ好きだからランチ行くのにもう決めるのが本当に本当にめんどくさい
高校生の頃、身近だったミュージシャンの話題を見て、あの子元気かなとは思いました。その話題って悲しいことなんで、まだ仲良かったら一緒にわかちあっていたのかな?なんて思いますが、どうでしょう?
私から連絡をしなくなったのは同じグループのもう1人の友達が嫌になったからなんですよね。もう遊びたくないから連絡しないと決めたらあっちからも連絡来なくなって10年以上経ちました。
嫌になっていない友達からも連絡来ていないので、結果的にみんな何かが嫌になって消滅した関係なんでしょうね。もしかしたら2人だけで続いているのかもしれないけど、だとしてももう私はその輪の中には入らないから。
1人が嫌いなら、嫌いじゃないほうに連絡すればいいのに⋯なんて意見もあるかもしれないけど、そうすると嫌いな方とも結局は繋がるよね?なんて思います。私なりの理由があって嫌いなのに仲間外れにしたみたいになるのが嫌だったので。
嫌いじゃないけど、やっぱり高校生の全盛期の仲の良さってのはなくなっていて、ちょっと噛み合わない??みたいなこともあったので、今のこの感じで良かったんだと思うのです。
ただ、そのミュージシャンのことを楽しく語っていて、なんか意味不明に笑っていたあの頃を思い出したので書いてみました。
もう二度と会わなくていい人のほうが多いななんて思います。それなのに出会って関係を築いて、離れていくパターンが多すぎて、イマドキの言い方をするとコスパ悪いなんて感じますね。
前にも書いたかもしれないけれど、時々 波がやってくる。
結婚して子なし。
私は欲しいと思わなかった。
あちらが欲しいと思っているのなら、授かれるのなら産んでも良いと思っていた。
あちらも積極的には欲しいとは思っていなかった。
なので、子どもはいない。
そこに何の後悔もないし、子どもが欲しいとは思わないけれど、
日常のこどもの笑顔(映えとかではなくほんとの日常)の動画や写真がSNSで流れてくると、
ぎゅっと苦しくなるときがある。
ないものねだりだし、欲しくはないの。
ただ、私が今世では手に入らないしあわせがそこにあるのだなとおもって、ぎゅっとなる。
しあわせ気持ちになるから、日常のしあわせはSNSに載っけてほしい。
わたしのしあわせってなんだろう。
思えば、幼い頃から「係」や「委員会」という枠組みに自分を当てはめるのが苦手だった。大人は協力や責任を教えたかったのだろうが、私にとっては「面倒だ」という感覚が、いつも教訓より先に立っていた。
勉強であれば、怠ったツケを払うのは自分だけで済む。しかし、集団の役割はそうはいかない。その「他者を巻き込む」という構造自体が、どこか馴染めなかったのだ。この感覚は、大人になった今も私の根底に静かに横たわっている。
世の中は、いつからこんなに「余計なオプション」で溢れてしまったのだろう。不要なものに埋もれて、真に大切なものが見えなくなっている気がしてならない。だからこそ、せめて自分の心の中だけは、不純物を取り除き、必要なものだけを広げていたい。今日という日が、ただ静かに、無事に過ぎていくことを願っている。
そーね〜
努力って基本的に自分のために使うもので、私は努力してきたのに、それが出来ないあなたが悪い!と他人に圧力をかけるためのものではないよね〜
わかるわ〜
すごく頑張って、みんなが納得出来るように奔走していたときって、その頑張りに誰も気がついてないんですよね。
「みんなが納得出来るように」と言いつつも、私が一番納得していないという結果になっていたのも滑稽で、もう二度とあんな奔走はやめよう思った次第です。
冷静に提案しても、冷静だから大丈夫だと思われてたんです。自分はいつも通りの生活だから関係ないって感じで。
「みんなが楽しめるように」色々調整しましょうって提案なんですけど、調整するなんてまっぴらごめん、そっちが暇なんだからいくらでもどうにかなるでしょう?っていう心の中の声が聞こえてきた気がしました。
だから、もう一段階あげた言い方にしたんですよね。「こっちは大変だからもうやめてほしい」と。一段階以上上がってますが⋯
相手、びっくりしてましたけど、これで良かったと思っています。
そうしたら、相手、全然何も企画しないし行動しませんね。でも、私からしたらそれでいいかなと思う気持ちもあります。何も起こらないで楽になった。そもそも、相手側の家族の関係なんだから、私があたふたするのがおかしかったんです。
これからも何もしないで終わるんでしょうね。自分側のことなんだから自分だけでどうにかすれば良いし、私は関係ないのです。
ただ、すごく頑張っていた頃に、本当の寄り添いかあればまた現在が違ったのかな?なんて考えたりはします。
先週はなかなかややこしいことをやり残業などもしたので、金曜を休みにして良かったなと思った。が、金曜日からいろいろやり過ぎて連休最後の月曜日の夜にガス欠になり、何もしたくなくなったので、ただ音楽を聴いて過ごした。
私は常に音楽を聴いていたいという人間ではないが、疲れている時などにいい音で音楽を聴きたくなる。良いヘッドホンを買った時に、いい音で音楽を聴くとストレス解消になったり気持ちがあがることに気がついた。
今週いっぱい仕事は忙しいはずで、次の週末も予定が入りそうで、もしかしたら難しい決断をしなければいけなくなるかもしれない。しばらくは音楽を聴きたくなる日が続くのかもしれない。
たくさん食べてしまうこと、たくさんお酒を飲んでしまうこと、
今で止める。
今日もたくさん食べたし、たくさん飲んだ。
それで泣いているのだから、もう止めるしかない。
今日食べたもの飲んだものはどうしようもない。
今から止める。
くるしい。
スーパーで小学生くらいの男児が「おかーさん、これ買って!」と野菜コーナー辺りにいた。
「買わないよ! それ置いてこっちに来なさい」というよくある応酬を何回かしていた。
男児の持ってたものがぱっと見赤かったからいちごかな?と思ってよく見たら
ドラゴンフルーツだった。
しかも当日価格でいちごより高かった。
少年…趣味が渋いな。それは結構人選ぶと思うぞ。
結局買ってもらえたのかどうかは定かではない。