なんか色々と不調というか、みなぎる気力みたいなのが最近ないなと思ったら、年齢が7の倍数に当てはまってる。
楽しいことも無理矢理に組み込まないと何もしたくない
中途半端に自立させようとすると失敗するような気がする。
実家に住んでいるのに洗濯物をやらせるとか。料理をつくらせるとか。もちろん、出来る範囲で家族の一員としてやっていくことは大事なんですが、同じ家に住みながら1つの世帯のような自立を求められるとうまくいかないよね。
友達の子どもが寮に入って洗濯もなど自分でやるようになって、家事の細かいことを自分で学んでるみたいで、自立の過程ってこういうことだよねと感じたんですよね。
寮だから全部自分のペースとはいかなくとも、自分で今までやってもらっていたことに自分で触れていくって大事だなと。
自分のことを思い出すと、実家にいたころは中途半端に自立をさせようとしていた空気感があって、何かやると失敗したり、わからなかったりすると、それをあげつらわれて心が疲弊したりあったなと。失敗してもわからなくても、そこに自分だけの気持ちで向きあって解決していくことが経験値になって、力となり知識となるのかなと。
実家でもそれ、出来るじゃん?と思う方もいるかもしれないけど、それが一番難しい。誰かの家事のペースに合わせながら自立していく、させていくって大変ですよ。親という立場なら、子どもに教えていくことは大事だとも思いますが、日常を敢えて教えるって簡単なような難しい。だから母はよく私に「私は教えてもらったことない、男の子たち(私の下のきょうだい)には教えたことないとか言いたくなるのかなと。まあ、私の母の場合は本人の人格の問題もかなりありますが、こんなにわかりやすくなくとも衝突ってやっぱりおきますよね。どうしても。
だから、本当の意味で自立させるなら自宅から出したほうが一番効率が良くて、平和だと思う。ある程度子どもも大きくなったらお互いの目が触れないほうが成長出来るって最近よく感じます。自分のときみたいにはならないようにとりあえず意識はしてますが、実家にいる旨味みたいのはないのに、親の目線があるって一番ツライですよね。
コミュニティには、必ず「賞味期限」のようなものがある。昨日まであんなに馴染んでいた空間が、ある日突然、異物のように自分を弾き出す。そんな時、私は迷わずそこを去ることにしている。
世の中には、誰かを「調子に乗っている」と決めつけ、標的を探すことに腐心する人々がいる。悲劇のヒロインのように「美しすぎて嫉妬される」なんて華やかな理由じゃない。現実はもっと泥臭く、残酷だ。「こいつなら反撃しないだろう」「消えても誰も困らないだろう」という、加害者側の身勝手な計算によって、私はターゲットに選ばれる。排除される側のプロとして、その冷徹な視線には嫌というほど敏感になってしまった。
アイシャドウに色があると 老けて見える気がする。
そんな40代。
サッと色のない?(ベージュ?オフホワイト?)明るめのアイシャドウをサッと塗るだけで充分になってきた。
ピンクとかブラウンとか好きなのになー。
残念である。
健康的に見せたいから アイメイクは控えめにしよう。
年齢を重ねても メイクがとっても似合って素敵な人いるよね。うらやましい。
人と会ったらその次の日は休みたい。
つまり、社会的に生きるのが向いていないということかな。
生きるって大変。
「ありがとう」にやたらこだわる人って面倒。
それを言われたがるから、その仕掛けをそのへんに張り巡らせている。
誰かが誰かに「ありがとう」を言ってるのを見るだけでも、しみじみしちやって「ありがとうって言うのって大事だよね」と悦に入っていた人もいた。
この人が言うように、確かにありがとうを伝えることは大事なんですが、そこに拘りすぎて執着してる人に、ありがとうと素直に言えなくなってしまうような気がするんですよね。
こういうタイプの人に、ありがとうを言っているところも見られたくない。当たり前のことを言っているだけなのに、急にほめられたり、しみじみモードに入られるとシンドイ。
子どものころ、父がお土産を買ってきて、厳しめに「ありがとうは?」と言っていた。ありがとうの強要をされてきて、自分で勝手にしたことに「ありがとう」を求める行為がどうも受け付けない。教育だ!と言われておしまいだろうけど、大人になっても違和感しか残っていないのが答えなのかなと。
「ありがとうとごめんなさいが言えればそれでいいと思う」昔付き合いがあった友達もそんなことをしょっちゅうSNSにて主張してましたね。でも、これって言っとけばいいと思うとも取れてしまったんです。元友人、この言葉で人を支配してたから。
感謝を述べる言葉に変なしがらみがつくと、自然な"ありがとう“が淘汰されてしまう気がします。ああいうタイプの人たちは自分たちが良いことを主張してると思って発言されてると思うのですが、その主張、しなくてもいいんじゃない?って思ってます。
最後に⋯ありがとうは?
これ、やっぱり良くないよね。頼んでないしって誰もってなりますね。ありがとうって言われたい。ありがとうって大事だよね。⋯⋯
やっぱり違和感。最後まで読んでいただきありがとうございました。
今日はランチに行きますが、何を食べるか決めるのが地味に面倒なのわかりますか?
一緒に行く人が嫌いなんじゃなくて、むしろ好きだからランチ行くのにもう決めるのが本当に本当にめんどくさい
高校生の頃、身近だったミュージシャンの話題を見て、あの子元気かなとは思いました。その話題って悲しいことなんで、まだ仲良かったら一緒にわかちあっていたのかな?なんて思いますが、どうでしょう?
私から連絡をしなくなったのは同じグループのもう1人の友達が嫌になったからなんですよね。もう遊びたくないから連絡しないと決めたらあっちからも連絡来なくなって10年以上経ちました。
嫌になっていない友達からも連絡来ていないので、結果的にみんな何かが嫌になって消滅した関係なんでしょうね。もしかしたら2人だけで続いているのかもしれないけど、だとしてももう私はその輪の中には入らないから。
1人が嫌いなら、嫌いじゃないほうに連絡すればいいのに⋯なんて意見もあるかもしれないけど、そうすると嫌いな方とも結局は繋がるよね?なんて思います。私なりの理由があって嫌いなのに仲間外れにしたみたいになるのが嫌だったので。
嫌いじゃないけど、やっぱり高校生の全盛期の仲の良さってのはなくなっていて、ちょっと噛み合わない??みたいなこともあったので、今のこの感じで良かったんだと思うのです。
ただ、そのミュージシャンのことを楽しく語っていて、なんか意味不明に笑っていたあの頃を思い出したので書いてみました。
もう二度と会わなくていい人のほうが多いななんて思います。それなのに出会って関係を築いて、離れていくパターンが多すぎて、イマドキの言い方をするとコスパ悪いなんて感じますね。
前にも書いたかもしれないけれど、時々 波がやってくる。
結婚して子なし。
私は欲しいと思わなかった。
あちらが欲しいと思っているのなら、授かれるのなら産んでも良いと思っていた。
あちらも積極的には欲しいとは思っていなかった。
なので、子どもはいない。
そこに何の後悔もないし、子どもが欲しいとは思わないけれど、
日常のこどもの笑顔(映えとかではなくほんとの日常)の動画や写真がSNSで流れてくると、
ぎゅっと苦しくなるときがある。
ないものねだりだし、欲しくはないの。
ただ、私が今世では手に入らないしあわせがそこにあるのだなとおもって、ぎゅっとなる。
しあわせ気持ちになるから、日常のしあわせはSNSに載っけてほしい。
わたしのしあわせってなんだろう。
思えば、幼い頃から「係」や「委員会」という枠組みに自分を当てはめるのが苦手だった。大人は協力や責任を教えたかったのだろうが、私にとっては「面倒だ」という感覚が、いつも教訓より先に立っていた。
勉強であれば、怠ったツケを払うのは自分だけで済む。しかし、集団の役割はそうはいかない。その「他者を巻き込む」という構造自体が、どこか馴染めなかったのだ。この感覚は、大人になった今も私の根底に静かに横たわっている。
世の中は、いつからこんなに「余計なオプション」で溢れてしまったのだろう。不要なものに埋もれて、真に大切なものが見えなくなっている気がしてならない。だからこそ、せめて自分の心の中だけは、不純物を取り除き、必要なものだけを広げていたい。今日という日が、ただ静かに、無事に過ぎていくことを願っている。