最近、全身の強張りと特に肩甲骨の間がずっと痛む感じで調子が良くない。
ちょっと体捻ってみてて、あれ?これ、いわゆるダンスで言うところのアイソレーションってやつなのでは?と思った。
動画で初心者のためのアイソレってのを見つけて、首、胸、腰のアイソレしてみた。
やってみたら、まあ出来ない。どうしても頭が付いて行っちゃうね。難しい。早くなんて無理。
でも全部終えたら肩甲骨間とか胸の真ん中の鈍痛が軽減してた!
やっぱり凝り固まってたんだな。
立ったままその場で出来るからラジオ体操より手軽だし、出来たらなんかカッコいい気もするし、しばらく続けてみようと思う。
生きてるのに生きてる感覚がなくなる。
日常は当たり前じゃない。
私の価値観に合わせてくれた周りの人達に感謝する。
年末に思い出すようにしている。
ありがとう。
私は平日の夜に都会の高いケーキセット食べるような多幸感を味わってないからなー
でも多幸感だけは味わいたい
母は娘に対する愚痴や気持ちやを娘に愚痴るタイプでした。
小言とは違うんですよね。例えば、友達とかに言うような言葉を子どもに直接言ってしまう。
だから色んなことがややこしく作用してしまい、私もややこしく傷ついてきたということになります。
それ、直接本人に言わないよね?ということを言われてきたのは、私を友達扱いも兼ねてたからなんだろうなと漸く理解出来ました。
ふと、交通事故で子どもが亡くなったニュースを見ていたとき「あなたがしんでも、お金では困らないのよね〜」とさらっと言うんですよね。本当に悪意もなく、雑談の一部のようにサラッとです。友達どうしで本音トークみたいな感じのニュアンスで言ってくるんで、その内容に衝撃を受けつつも、即効で傷つくことの出来ない複雑さがあったんです。
他にも、何でそれを直接私に言うんだろう?ということは、けっこうあって、それで私はえ?と理解しようとすると傷ついて⋯みたいなことは多くありました。
友達じゃない人を友達のように見ると、境目が曖昧になって関係がおかしくなっていく。娘という立場をやりながら、娘の愚痴を言いたい本音を聞いて欲しいという母の友達やカウンセラー役もやっていた私、偉いなと褒めておきます。
家族は家族として、友達は友達として、その立場から逸脱させないってことを意識しないと、私の育ってきた環境と遺伝子が思わぬ作用をしてしまうかもしれません。意識に意識を重ねるのは疲れるけど、そうしないと変なループを断ち切れないからやるしかないのでしょうね。
日頃は行かないおもちゃコーナーを通りかかった時、何となくジグソーパズルコーナー見てたら、トレーディングカードサイズパズルなるものがあって驚いた。
小さなサイズでパーツも小さいからそこそこの難易度はあるし(と言ってもライトユーザー程度の難易度だと思う)、出来上がったら固めて普通のカードみたいにカードケースに入るから場所も取らない。
ジグソーパズルにしてはプチプラで、トレーディングパズルなだけに中身は何が出るかお楽しみと言う、コレクション性まである。
今パズルってこんな事になってんの? 面白い。
他にも組み立てたらアクスタになるものなんかもあった。
すごいなー、めちゃ進化してて面白いな。
「殻に閉じ籠もる」という言葉は、時に後ろ向きに響くかもしれない。けれど、その殻こそが私を真に自由にしてくれる。それはまるでダチョウの卵のように、圧倒的な強固さで私を守り、静かな解放を与えてくれる場所なのだ。
嘘ついてもバレるのに、どうして嘘をつくのだろう。
嘘がバレるという想像力がないのかな?
バレていても構わないという開き直りなのかな?
何事もなければ「やり過ごした」と思えるんかな?
何事もないわけじゃない。
確実にあなたへの信用はなくなってるし、
こちらとて関わろうとも思わない。
大人になっていちいち指摘はしないよ。
それであなたは「乗り越えた」と勘違いしてるのかもしれないけれど乗り越えてないから笑
自分で自分を生きづらくしてることにいつになったら気がつくんだろうか?
まぁ、他人さんなんでこっちは知ったこっちゃないけどね。
今週は、ようやく少し体調が落ち着いてきただろうか。先週は大きなイベントがあったけれど、ちょうどいつもの不調のサイクルと重なってしまい、ずいぶん鎮痛剤に頼ることになった。
人混みの中で挨拶を交わしながら、ふと肌で感じる違和感があった。「この人は今、私と話しているところを誰かに見られたくないのだろうか」という、あの微かな壁。太古の昔から繰り返されてきた、集団特有の防衛本能のようなもの。共通の敵を作ることで結束を強めるという、残念ながら「好き」よりも強固で残酷なエネルギー。
それもまた、人間という生き物の本能なのだろう。標的になることに慣れてしまった自分は、いつの間にかそれらを察知する術を身につけてしまった。もし別の場所で出会っていたら、もっと素直に笑い合えたかもしれない人もいたけれど、私はあえて距離を置く。それが、私なりの静かな生き方だから。
たとえまた集団の中で疲弊し、頭痛や吐き気に襲われたとしても、薬を飲んで泥のように眠ればいい。目が覚めて、また「チョコやアイスが食べたい」と思えるなら、それで十分合格点なのだ。
「誰かと共に生きること」と「ひとりを愛すること」は、私の中で静かに、矛盾なく同居している。⠀⠀⠀ ⠀⠀ ⠀⠀
お菓子がどんどん小さくなっても「食べやすいサイズに改良しました」って言われると、私は食べにくいとか、そんな事言ってませんとなります。
でも、自分の都合を押し通すために、相手のことを慮るように見える言葉を持っておくのは生きるスキルなのかもしれません。