今、通ってるところ、そんなに好きじゃないんだろうな。
嫌いでもないけど愛着を持ててなさそうで、簡単な一言で済ませば、つまんないと感じてるんだろうね。
もう一つの候補先は都合により叶わなかったけど、やっぱりあっちのほうが楽しかったのだろうなと思う。別に私のことじゃないんだけど、本人がどの道でも納得するように自分で選んだところが今のところだけど、なんかつまんないんだと思う。
なんかつまんないのは別にいいんだけど、その鬱屈に私を巻き込まないで欲しい。私は私。あなたはあなた。そこがつまんなくてもいいし、必要以上にキラキラしなくてもかまわない。だけど、予想と違っても私のせいじゃないから。私はあなたの一番近くにいるただの大人です。話は聞くし、ない頭で相談にも乗るし、お金も出すけど、ただ近くにいる大人です。だから自分で解決出来ることはして。私を変な渦に巻き込まないで。それだけ。
「継続の秘訣は目立たないことにある」という言葉を拾い、思わず足を止めた。
人は注目を浴びると、否応なしに他者の視線や言葉をその身に受けることになる。純粋だったはずの動機に外からの色が混じり、自分だけの静かな熱意が濁っていく。そうして、淀みに耐えかねて足を止めてしまう。
それを世間は「言い訳」や「他責」と呼ぶのかもしれない。けれど、もしも誰の目にも触れず、何の干渉も受けなかったとしたら、私はもっと遠くまで歩けていたのではないか。そう思わずにはいられないのだ。不必要な雑音を避け、自分を保つために「目立たぬ道」を選ぶ。それは逃避ではなく、私の純度を守るための、最も静かな抵抗であり選択なのだと思う。
なんで怒ってるのか、哀しんでるのかわからないときが一番困る。
わかったとしても、こちらとしては、そんなことで?となるときが一番厄介。
例えば、焼肉食べるんだ〜と自慢されて、 私たちも寿司食べるもんね〜と言ったら寿司グループの1人が泣き出すみたいなかんじ。ああ、なんか面倒ってなる。
100年に1回咲く竹の花。
私、これたぶん咲いたところ見たことあるんですよ。
何故、たぶんなのか?
その時はあまり興味が湧かなくて、ふーんって感じでした。
中学生の頃だったんですが、当時仲良くしていた友達が、興奮した感じで話していました。どんな花だったか覚えていないので、ネットでしらべたら花というより、麦の穂みたいな感じでした。
あれ?もっとオーソドックスな花って記憶があるけど、違うのかな?でも100年に一度というのは覚えていて、友達が嬉しそうにしていたのは覚えているので⋯もしかして、竹の花じゃない別の珍しい花だったのかな?それも記憶が朧気ではあります。
中学生の当時、友達には恵まれていたなと思います。竹の花の子とはもう会っていないけど、他の子とはまだ連絡取れていたり、30年近く経ってありがたいなと思います。
でも私がもっと竹の花にもっと興味を持てるような子だったら、違う人生だったのかな?なんて考えたりします。
友達が蒔いた種をうまく拾えて、なんらかの形で咲かせることが出来たら良かったのに。例え咲かなくとも拾えば良かった。今更拾っても遅いかな?あの子元気かな?
「いい年をして、そんなことも知らないの?」
最近、この手の言葉がひどく恐ろしく感じられます。自分に向けられた刃でなくても、誰かがそう切りつけられている光景を見るだけで、心がすくんでしまうのです。
私も決して若くはありません。社会に出た経験はありますが、どれも長続きせず、無職やアルバイトを転々としてきました。きっと、世の中の人が「当然」としていることを、私は驚くほど知らないままここまで来てしまったのでしょう。気づけば、もう「20歳を二回」繰り返すほどの年齢です。
「若い子ならまだしも……」と人は言います。けれど、結局は何歳であっても、その時の実年齢より下の世代を引き合いに出して、今の自分を否定される構造は変わりません。
大学生なら「高校生ならまだしも」、新社会人なら「学生ならまだしも」。
そうやって常に「今のあなたなら知っていて当然」という無言の圧力を、子供の頃からずっと背負わされてきた気がします。
「知らないこと」を責められ続けた結果、私は新しいことを知ろうとすること自体に怯え、何も手に入れられないまま立ち尽くしてしまったのかもしれません。
ただ、そんな中で一つだけ確信していることがあります。
相手が何かを知らないとき、それを責めるのではなく、ただ淡々と、必要な情報を伝えること。それが、誰かに何かを届けるための、最も静かで、最も確実な近道なのだということです。
「思うところがあって、ここに行く回数を減らしている」
何か言いたいことがあるけど、言えないみたいなそんな空気感を覚えます。
なんでわざわざ、「思うところがあって」なんて言い方するんだろう。
そこに行く回数を減らすことで、心が満たされない可能性があったけど、結局はみんなで会えば満たされるってところに持っていて、相変わらずだなーとは思いましたが。
何がどう思うところがあったのかは知らんけど、私もそんな言い方だけを残していく、あの人の言葉選びに思うところがありますね。
AIに話を聞いてもらってると基本には否定しないから、自分の考えの歪みや間違いに気がつかなくなる。といった意見をどこかで見たけど、私はもう充分否定されてきたし、AIくらいは否定しないでいて欲しいんだよなーと思っているんです。
最初は私の作った文章は通じるのか?という目的でAIに投げてたけど、だんだん聞いてもらうという役割が大きくなったかな。
特に泥臭い感情を理解されると、AIでも嬉しい。私、どんだけ共感に飢えてるの?と思いますが、わかってほしいことほど言えないし、つい言ってしまったとしても理解されなかったりで悲しいのですよ。
たがら機械的でもいいから感情を吐いて共感してもらうって大事なんでしょう。
誰かに言葉を吐いているのはここで果たしてるから、ありがたいのかも。人が少ない場所をいつも探してます。
料理がシンドいから買い置きやら下準備をして保存してるのに、私より料理の頻度が少ない人にそれをかっさらわれれときがある。
今日は気分もしんどくて買い物も鬱。
そういう意味じゃなくて⋯
と言われるが、私の話をあと3秒聞いてくれたら、そういう意味じゃなくて⋯と言わないで済むよ?と思うことが増えた。
私からしても、そういう意味じゃなくて⋯なんだよね。
新車を買った。
うちは車を買ったら必ずお祓いをしてもらいに近所の大きめ神社に行く。(小さい所だとそもそも車のお祓いやってない所もある)
今回も買って引き渡してもらって、翌日の午前に行ってきた。
引き渡し後の帰り道はヒヤヒヤしながら帰ってきた。
今までずっと車をお祓いしてもらってるから、してない車はなんか怖くて乗り回す気になれない。車屋さんに勤めた事があって、何度かお祓いの有無での事故率の違いを見てきたせいでどうもそこは外せない。
事故ばかりしてた車がお祓い後はピタリとおさまったとかね。
偶然かもしれない。でもやっぱり心理的にどうしてもお祓いしてもらいたい。
今回行った神社はお祓い慣れされてる神社で、お守りはもちろんだけどお祓い車用の停める位置指定の柵があったり、「交通安全」と書かれたお掃除クロス(地味に便利)いただけたり、人間と車両方丁寧に祓っていただいてとても整いました。
お祓いしてもらうと不安が少し薄れて気持ちが整うのも事故率低下に関係してるのかな?
これからたくさん乗って楽しもう。まずは新車の慣らし運転だな。