はっきり言うと母がまだ生きていたら、母から電話が来て愚痴に付き合い、愚痴に付き合ってるのに、なぜか急にイラッとされたり、嫌味を言われたりしなきゃならないのがまだ続いていたんだと思うとゾッとする。
今年で母が亡くなってから10年経つけど、その間に自分のことや子どものことなど、それなりに変化もあった。
その変化を勝手に愚痴への材料にされていたんだろうなと思うと、もうしんどい。
特に子どもの進学については、そこを切り取りながら何らかの私の愚痴を私に言ってきてただろうなと。
子ども3人を公立高校に入れたことが自慢というか、嬉しいみたいだけど、そうしなきゃならなないように圧をかけてたのは自分なんだよね。それを持ち出して、私なら絶対受かるところを受けさせるけどねーとか言ってきただろう。
いくら気にしない、スルーする言っても、聞こえてきたものは心を煩わせる一部にどうしてもなってしまうから、ここで自分の家族だけの気持ちで自分の考えだけで子どもに接することが出来たのは良かった。それが正しいとは限らないけど。少なくとも母の雑音が入らなかったのは良かったといえる。
単純に学校行かせてもらってるのに、ご飯作ってもらってるのに、毒親と言うなんてという意見もネットを見てると散見されるけど、私の両親は毒親。それをしてやってるんだから何を言ってもいいという姿勢は毒親なんですよ。
数年前までは、毒親未満なんて表現をしてたけど、やっぱり毒親だと思う。そう考えを改めることで両親に接してきたときの時間が少しは救われるというか。あれは普通じゃなかったんだよ?とあの頃の私に言ってあげられることは今の幸せにも繋がるのです。
欲張ってはいけない。
昨日うれしいことがあった。
またあればいいな。
でも、欲張ってはいけません。
昨日はたまたまです。
好きってなんだろう。
好みじゃない指輪、私もいらないなー
サプライズって喜ばなきゃいけないから疲れるんだよね。
こんなことを思って言ってしまうのが冷たいと言われることもストレスになる。
現実を生きてるだけ
共通の敵を叩いて絆を確認し合う。負の連帯感は、時に愛よりも強固です。それが本能だとしても、あまりに虚しい仕組み。けれど、標的にされる経験が「察する力」を育てたのなら、それもまた、この不条理な世界を生き抜くための本能なのでしょう。
私が自分が丸顔なんだ、鼻が低いんだ、団子鼻なんだと自覚したのは両親に指摘されるから。
主に丸顔なのは母から指摘されてて、鼻は父から指摘されてた。
子どもにそんなこと言うのありえないと思うんだが、母は自分が頬がこけて見えることを気にしてたみたいだし、私の顔は父寄りの顔なので父は自分の鼻の形を自分で揶揄してるということになる。
母は私の顔を“濃い"とよく言っていた。まあ父寄りの顔だし、薄いか濃いかと言ったら濃いんだろうなと。濃いことがまるで悪いかのように言う。別に母の顔のことを薄顔とは思ったこともないけど、濃い顔ではないんだろうなと。
濃い顔じゃないことがコンプレックスだったんだろうか。そういう解釈をしてしまいたくなるほど、私は顔が丸くて濃い顔と言われきたとは思う。
私は父寄りの顔だから、当然父方の親戚にも似てるのかもしれない。父方の怖い伯母に顔が似てると感じて嫌だったのかも。
母が写真を撮ると頬がこけてみえると意地悪に指摘してきたのは伯母だったらしい。だから伯母に対して反論しない変わりに私の顔をからかったのかもしれない。意識してなくとも深い部分で疑似的な反撃なのかもしれない。父に鼻がーと揶揄されていても助けない、言われっぱなしに放置していたのも反撃なのかもしれない。
父は伯母のことが大好きだ。美人と思ってるらしい。だから、鼻が惜しいと私に言ってきたのは、私が伯母みたいになれなかったからかもしれない。別に私は伯母を美人だと思ったことはない。キツイ顔をしていて、私にもとても意地悪だった。伯母の言葉で泣いたこともある。でも、系統的には自分もあの顔なのかもしれない。嫌である。
伯母は母が痩せていることも皮肉めいたことを言っていた。それは伯母のコンプレックスなのかもしれない。伯母が痩せているところを見たことがない。私もどちらかというと痩せ型なので伯母を存在だけで刺激したのかもしれない。
色々書いて見ると、みんなそれぞれコンプレックスがあって、それを放ちやすい人に放って生きている。そう考えると人間はやっぱり怖い。私も年齢を重ねて以前より顔の丸みはなくなった。これはただの加齢だ。鼻は相変わらず低い。だからこそなのか、鼻腔拡張テープがフィットしないときがある。年がら年中、鼻は低く、詰まっているから空気も薄い。そんな毎日である。
「あぁ、私しかいない」そう気づいた瞬間の、あの胸がすくような感覚。結局、私は一人が好きなのだ。寂しさよりも自由が勝る。独りでいることを「強味」だなんて言い張って、自分を納得させている部分もあるけれど、あながち間違いじゃない。
「少人数でアットホーム」なんて言葉に騙されてはいけない。そこで合わない奴と二人きりになったら、それこそ地獄だ。ハモらないメロディを延々と聞かされるような、あのじっとりとした疲れ。それに比べれば、誰もいない静寂の中で自分を解き放つほうが、ずっとお得で、ずっと健全だ。
本当はもっと油断して、日向ぼっこでもするみたいに本音を広げたい。でも、不用意にさらした柔らかい部分は、すぐに誰かの獲物にされてしまう。だから、今のこの「少し壁を作った状態」がちょうどいい。私はこの静かな場所の、名もなき守護者でいようと思う。誰かを傷つけず、誰かの心を奪いもしない、そんな綺麗な本音にだけ会える日を心の隅で期待しながら。
ああ、昔こんな依存したことあったかもなと。
ある本を読んでそう思いました。
私の中で、その人や出来事は汚点と呼んで消化しているので、なんともないですが。
ただなんで、あんなに執着していたんだろうと思うと自分が気持ち悪いです。
ある小説、まだ読んでいる途中の感想だけど、家族との関係って結局は外との関係に影響を及ぼすんだなと感じてしまった。
家族との関係性をトラウマのように思っていたとしても、それを吐き出すと周りからは"終わったこと“とされてしまう無情さ。
以前、同じ作家の他の小説も読んだことがあるけれど、自分の苦しみを自分のペースで苦しむことを周りは認めない、それが結局は一番苦しいという表現が秀逸だったような。
病気になったことをいつまでも言ってるな、もう終わったことという表現だったかな?確か。一字一句正しく覚えているわけではないけど⋯
終わったことがどうかを他人が決めることの残酷さってありますよね。私も両親に対して思うことがたくさんあるし、年齢的には人生あと半分くらいのところまできたのに、まだ終わらないし、むしろ自分の年齢をかさねたからこそ本当の意味での答えが出ることがあって苦しいですよ。
きっと人間は自分で苦しみが終わったかどうかを自分できめられないことが一番苦しいんじゃないのかと感じます。
“終わったこと"なんて、ないのかもしれない。
食べ過ぎて腹痛に⋯
久しぶりに正露丸飲みました。
独自の匂いだ。
治った気がする。
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知らないうちに寝てしまった。
これが最高。
でも、一人で家にいたい。
なんか疲れた。
やることはあるけど、それはやりたくない