喧嘩腰のところには喧嘩腰の言葉が集まる。
柔らかい言葉でも喧嘩腰で来られることもまあまああるけれど⋯素直に味方してあげれらないのは、あなたが喧嘩腰だからだよーって思うからです。まあ、本人は気がついていないだろうけど、一生気がつかないだろう、おそらく。
先日、「完璧な防犯リュック」という記事を別媒体で書いた。
高価なブランドバッグの自慢ではない。むしろ逆である。試行錯誤しながら、自分なりに工夫を重ねて育ててきた、ただのリュックの話だ。
ところが、挨拶もなく現れたコメントが、真っ向からそのリュックを否定してきた。
「もっと防犯性の高いリュックがありますよ。」
そういう提案なら何も気にならなかっただろう。「そんな商品もあるのか」と思って終わりである。
しかし、そのコメントは私の記事の文脈を読んでいるようには見えなかった。積み重ねてきた工夫も、使い方も、用途も関係なく、「それよりこちらの方が完璧」と言われた。
妙に後味が悪かった。
そのせいか、「新しいリュックを買おうかな」と思い始めた。
私はバッグ選びにはかなりうるさい。
軽さ、肩紐の太さ、大きさ、防犯性、デザイン。条件が多いため、探すだけでもかなりの労力を要する。
実際、何時間も探した。
「これはいいかも」という候補も見つかった。
しかし、そこでふと立ち止まった。
今使っているリュックを手放してまで欲しいほど、ときめくだろうか。
答えは、そこまでではなかった。
私はミニマリスト思考なので、買い替えるならワンイン・ワンアウトが基本である。
メルカリで売るか、リサイクルショップへ持ち込むか。
そこまで考えたとき、「そこまでして入れ替える理由はあるのか」と思った。
改めて今のリュックを眺めてみる。
すると、本当の違和感はリュックそのものではなかった。
私はサイドポケットから物が落ちないよう、ストラップを垂らして工夫していた。
便利ではある。
しかし、そのストラップがせっかくのシンプルなデザインを少し崩していることに、朝になって気づいた。
そこで考えた。
ポケットの内側にリール付きカラビナを安全ピンで固定し、スマホや鍵をつなげばいい。
落下防止の機能はそのまま。
見た目はすっきり。
これで十分ではないか。
その瞬間、「買い替えたい」という気持ちは消えた。
結局、私が欲しかったのは新しいリュックではなく、嫌な記憶を上書きすることだったのである。
このリュックは一生物ではない。
いつかもっと気に入るものが見つかれば買い替えるだろう。
だが、それは「コメントにケチをつけられたから」ではない。
自分で納得して、「今度はこちらを使いたい」と思えたときでいい。
今回は、今のリュックを改めて選び直した。
そして少しだけ手を加えて、また使い続ける。
それで十分なのである。
6年間同じ小学校に通うってどういう感覚なんだろう?と転校が多かった私は何十年経っても考えてしまうことがある。
大人になったら関係ないとは言われつつも、どうだったんだろう?と思うことはやめられない。
小学校のとき、転校先の学校ですぐに修学旅行があったので、私も参加した。
そこで出た食事。残さず食べた。嫌いなものが出なかったし、残す理由がなかったから食べた。
でも、私に向けられた視線は、全部食べたんだ⋯みたいな冷たい視線⋯
この学校ではガツガツ食べるのカッコ悪くて、不味い!とまで言えないものも、ちょっと美味しくないよねぇ?残すわ。というスタンスがカッコいいとされていて、トレンドだったみたい。
私がその流れを無視して全部食べてしまったから6年近くかけて積み重ねてきた微妙な空気の変化を無視するスタイルになってしまったらしい。
それなりに友達も出来たは出来たけど、あの微妙な空気感に慣れないまま卒業した。
小学校6年っていう絶妙な時期に引っ越してきて、6年間築き上げてきた空気を壊す存在が私だったんだと思う。
相手の視点から見たら後から来た変なヤツだったのかもしれないが、私も私で馴染むのに懸命だった。でも馴染めなかった。中学校もそれほどメンバーは変わらないけど、そこでリセットされたの良かった。今も残さず食べられるなら食べると思う。空気は読まない。もう大昔の話だもの。
あーわかった、わかった、はいはいはいはい
って言わないほうが話早く終わるのになー
何もわかってないし腹立つわー
距離必要だな
もう20年以上前に参考にしてた、とある音楽ジャンルの口コミサイト。まだ辛うじて閲覧出来たから見てきました。
フォルムは当たり前に古のネットなんだけど、それぞれが好き好きにアルバムや曲やアーティストの良さを語っていて、それを誰も邪魔しないところが新鮮でした。
音楽やジャンルに限らず、昨今はネットで誰かが何かを言うと、共感か反論がセットなので疲れます。共感ならいいんじゃん?って一瞬思うし自分だったら嬉しいけど、だけど反論もされる可能性も同じくらいあって落ち着かないんですよね。
あれくらいのシンプルさが尊い。ここもそんな貴重な空気感ありますよね。ありがたい。
褒めるって難しい。
褒めてるつもりでも、相手がそう受け取らないときもあるし、その齟齬が生じたときに、物凄く疲労を感じる。
私、親から褒められたことないんだよなー。根本的にそれがあるから人に対して自然な褒め方が出来ないんだと思う。
褒めるところがないから褒めないのはしょうがなかったとしても、よく貶されてた。だから、褒められなくとも貶されてないなら御の字じゃない?と思ってしまう。だけど、それじゃダメみたいで疲れるなー
ゴール目前じゃない余裕のある中で、フルモードじゃない力なのに良い結果をだせてたら、「この時点で余裕あるからまだまだやれるね!」と言うと、褒めてることにならないらしい。
すごいねー頑張ったねーと付けないと褒めたことにはならないのか。「この時点で余裕ある」って言うのは私からしたら褒め言葉だけど、相手は違うみたい。なんか疲れた。貶してないのに相手が私の言葉に隠された賞賛を受け取ってくれないのに。
自分が思った言葉を言ってくれないと納得しない出来ないって疲れないのかな?例えだけど、美人と言われたいと思ったら、「カワイイね、まだ大人になったらもっと綺麗になりそう〜って言われてもダメなんだろうな。貶す要素もにないし褒めてるけど、本人が言われたい言葉じゃないからダメ。なんかこういうの多い世の中だなと思う。欲しがりすぎだと思う。頭も容姿も貶されてた私からすると、相手が何を言ってるかじゃなくて、自分の言われたい言葉だけに固執されるのをみるとワガママじゃない?と感じてしまうのです。だから褒めたくもない。でも貶さないし。頑張ったねー偉いねーだけでいいならそれが一番楽。だけど、それは私の言葉じゃないのです。
humblebragという単語を始めて知りました。
意味は謙虚なふりをしながら結局は自慢することみたいです。
それって日本人特有かな?と思ってたので、英語圏でもそんな人いるんですね。世界共通なんですね。謙虚なふりして自慢してくる人⋯自虐風自慢よりも苦手かも。
曖昧な関係のまま
ただ何となく過ぎていく時間
いつまでも引きずるのはもう終わり
これからの自分のために
どこかでちゃんと線を引かなくちゃいけない
過去の執着をそっと手放したその先に
新しい出会いや
心地いい繋がりが待っていると信じて
月曜日の夜から仕事終わりに待ち合わせて、姉と母とで食事に行った。
帰り路、わたしの運転する車のカーステレオから、ちあきなおみの『喝采』が流れてきて、「渋っ」と笑いが起きた。
「わたしこの歌好きなんだよね」と言うと、ほかの2人もわたしも。と返ってきた。
「渋すぎだよね」「この歌のストーリーがいいんじゃん。光と影の対比が好き」などと言いながら、みんな声を揃えて歌った。
最近歌謡曲が若い人たちの間で流行ってると聞くけれど、世代が別でも楽しめる、こんな機会があるっていいなって思った。カラオケ行くまでもないけれど、車のなかのカラオケはこれからももっと楽しみたい。