まあ、社交辞令も大事だなとは思うよ。
相手を無意識で傷つけても、私、社交辞令言わないようにしてるからって逃げてそう。
ホッコリ界隈の自称サバサバみたいな感じかな
私のことを好きじゃないのに、嫌いじゃないからという理由でやりとりしてもらっている。
不毛。
そのことに救われているのがなによりもつらい。
2Lのペットボトルに水入れて、ストレッチpoleの代用。
ガチガチだった肩がだいぶ楽になった。
ずっと乗っていたかったけど、15分以上は逆効果と聞いて慌てて降りる。
毎日ちょっとずつストレッチして、少しずつ整えていこう。
「心身ともに健康で、自立している時にこそ、人生の伴侶を選ぶべきだ」という言葉がある。それは確かに、一点の曇りもない正論だと思う。けれど、もし私が常に完璧に満たされ、自分の足だけでどこまでも歩いていけるほど元気だったなら、きっと誰のことも選ばずに生きていただろう。
人が誰かを切実に求めるのは、決まって心のどこかに穴が空いているときだ。荒れ狂う海で船から放り出されそうになり、懸命な思いで目の前の手を掴む。その瞬間、相手がこの世で一番魅力的な救世主に見えるのは、人間としてあまりに真っ当な反応だと思う。溺れているときに掴んだ手を「弱っていたから下した間違った判断だ」なんて、後から切り捨てることなんてできない。だって、あの時の私には、その手だけが生きるためのすべてだったのだから。
けれど、嵐はいつか過ぎ去ってしまう。海が凪ぎ、安全な航路を学んだ私たちは、もうかつてのように溺れることはない。そうなったときに初めて、私たちは残酷な現実に直面する。あの暗闇の中で輝いて見えた救いの手が、穏やかな日常の光の中でも、変わらずに愛おしいものかどうかという試練だ。
もし相手が「あの時助けてやったんだから、もういいだろう」と過去に依存してしまったら、二人の関係は「あの時だけ」の思い出で止まってしまう。結局、正論通りの決断なんて誰にもできなくて、私たちはいつだって不完全な状態で、その時々の精一杯の選択をしていくしかない。
嵐が去った後に残るものが、感謝という名の義務感なのか、それとも新しく育つ信頼なのか。正解なんてどこにもなくて、ただ、なるようにしかならない日々の積み重ねが、いつか「これで良かったのだ」という答えになっていくのかもしれない。
今からケーキを買いに行くためだけに電車に乗ってサクッと帰ってくる予定。
でも、その電車が止まってるというね⋯
テーブルのうえってどんどんモノ増えてくけどなんか呪われてるんですかね?卓上いっぱいになったからテーブル増やしたら2つの卓上がいっぱいになりました
ペット放し飼いだからあるく所はちゃんとあるんだけど、上が…
「可愛い」は正義だと言われるが、むしろ「可愛い」と口に出せることこそが真の正義ではないだろうか。たとえ内心で違和感を覚えたとしても、その言葉を処世術として投げかけてしまえば、大抵の場は丸く収まるものである。
会社の人と会社の話をするのはよくないね。
会社のイヤなとこの「答え合わせ」になってしまって、
気持ち消耗する。
会社なんて理不尽で、理不尽だらけで、
そこに目をつぶって仕事してるのに、
なんでわざわざ答え合わせして
イヤな会社認定して、自らしんどい思いしてるんだろ?
ネガティブな言葉はネガティブな感情しか生まない。
なーんも楽しくない!
人生にそんな楽しくない時間は必要ないのです!
蕎麦を多めに茹でてタッパにいれて冷凍しておくと、ちょっと物足りないときに電子レンジで温めてめんつゆかけて食べられます。美味しいです。
子どもの幼稚園の頃の撮った写真が出てきて、幼稚園の数々のイベントの写真があり、以下のようなことを思った私。
子どもの成長や当時にしかない可愛らしさに思いを馳せるのとは別に、あの頃のあの行事、面倒臭かったーという思い出が蘇ります。すごい無理してたなーと。なんで、ただの幼稚園のイベントなのにあんなに疲労して摩耗してたんだろうと思うのです。
あの保護者同士の結束感がどうにも苦手だったんですよね。小学校になると、見るもの見たら帰りたい保護者ばかりに見えて、あの幼稚園時代のアツアツ保護者はどこにいったのか?と疑問です。
親子遠足とか本当に嫌だった。動物園行ったけど、子どもが動物と触れ合っている間、保護者が飲み物やアイスを買って談笑する時間があったんですが、あれは苦痛だった。早く帰りたい。あの時間は無駄だ。
嫌な保護者ももちろんいたけど、それは数人のはずなのになぜあの場面があんなに嫌だったのか。楽しくないのに楽しいと思う仮面をつけて口角を上げ、瞳をいつもより見開く。早く帰りたいという気持ちを抑えながら、私もアツアツ保護者です。と偽って話す。本当にしんどかった。
イヤだったことでも、これは学びだったと言えるほど人間出来ていないのが私。
やっぱりあの頃のアレ、嫌だったなー面倒だったーやりたくないーって思うだけ。
働いていたわけではなかったので、保育園じゃなく幼稚園だったんですが、子どもと離れる時間もようやく持てて、幼稚園という第三者を交えて子どもの成長を見守る段階に来たと思ったら、自分が入園したかとのようなトラップ。あれは本当にすり減る。もう減るものもないのにすり減る。これを言うと子どもが可愛くないのか勢が来るようなきがする。あくまで、子どもへの気持ちと幼稚園で体感したことは別物。嫌なものは嫌なのです。