誰もいないと思って油断していると、どこからか学級委員のふりした宇宙人が来るから油断出来ないけど、本当はめちゃくちゃ油断したいです。
「そうこうしているうちに⋯」のそうこうって漢字で書くと、倉皇なのを知って驚愕しています。
"そう"したり、“こう"したりしているうちにみたいに、アレコレしているうちにと同じ類だと思っていました。
慌てふためく事という意味らしいですが、倉にも皇にも、慌てるという意味があるらしいです。
近くにいるからわかるとか、ない。
その人がサボってると思い込んだら、どんなに頑張っても、サボってると言われます。
つまり人は見たいようにしか人を見ない
マジメにやろうとすると横槍が入るのはなんなんだろうね。
あれがなければけっこう継続出来たこと、たくさんあるんだよな。
でも言い訳だと思われるか
それ、私も昨日同じようなの作ったんよ〜
前の日と被らないように献立考えるのも料理の一部だよ〜
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「青春とは不仕合せの驕り」
これは私が好きなバンドの曲の歌詞の一部なんですが、何かにつけてこれを実感している不惑を過ぎた日々です。
あの頃、楽しかったーーという感情って、なんというか若さゆえに感じてた無防備過ぎる変なものだと思ってます。
確かに楽しかったという感情が私の中に残存しているし、それは事実なんだけど、あの頃にいた自分も含めて人物や事柄が今はもう存在していないんですよね。なかったかのように現在が成立している。
これが不仕合せの驕りなのか?なんて思ってしまいます。その場しのぎのような時間。それなのに濃く感じられてしまう。だからこそ、もう現在は誰もいないし何もいないのに、あれはなんだったの?というタイプの執着をしてしまうのでしょうね。
なんだかよくわからない時間だったけど、あの頃に執着し過ぎていない関係や自分1人で温めてきたものばかりが現在も残っているのです。最高潮まで辿り着かないほうが、ほそぼそと長く自分の中に良い形で残ってくれるんでしょうね。
以前は親しくない人にだけ必要以上に自分のことを知られたくないと思っていて、ある程度親しい人には知ってもらいたい、知られても大丈夫だったけど、今は親しい人にも必要以上に知られたくないかな?そこまで知り合わなくても仲良くしてくれる人と仲良くしたいし、そもそも知り過ぎないほうが仲良く出来るとも思うのです。
キーリングに鍵やキーホルダーをつけたり外したりするって、地味に力がいるような気がします。ですがYouTubeにて、簡単に出来る方法をいくつか紹介されていたので助かりました。
ストローをリング部分に通す方法が私には良かったです。
昔の鍵を捨てました。
キーリングに食い込んでいたからそのまま使っていたけど、あの家で過ごした時間は幸せという普通を纏った不幸な家だったので捨てて良かった。
もう鍵の効力もとっくの昔になくなっているし、ただ外すのが億劫というだけで何年もくっついていただけ。
しがらみからまた一歩抜け出したような、そんな気分なのです。
「私はいいんですよ?でも、他の人が困ると思って」
これを言う人の周りにいる、"他の人"って、全然困ってないんですよね。
結局、自分かその意見を通したいだけなのに、暗雲が立ち込めてきたら、このセリフを言うんですよ。
数年前に所属していた某所で、これを言う人がいたんですよね。
仕事でもなく、どっちかというとボランティアに近い集まりだか、シンドく感じました。
ボランティアと言っても、やむを得ずやっていることでもあったので、やることばかり増やそうとされるのはホントにキツイ。
周りのためと言えば聞こえはいいけど、本当にそう思っているなら、「私はいいんですよ?」って言葉、出ないと思う。
もっと具体的に何が周りの人が困るのかを即座に説明出来るはずなのに、「他の人が困る」しか言えないし、言わない。
感情論で、自分がやりたいことを押し通すために周りを出汁に使う。策略かもしれないし、本能的かもしれないし、どっちだとしても、私はこの手のタイプと手法は受け付けないですね。こういった様式には毅然としていたいです。