辛いラーメン食べてアイスを食べるという無意味なことをしてしまうが、この無意味感が逆に良いのだ!ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
大は小を兼ねる精神で大き目の棚を買ってましたが、実際置くとその大きさである意味がないくらいスカスカでただ圧迫感が出るだけでした。そんな棚をリビングからどかしたらリビングが広々に感じました。幅はそんなでもない棚でしたがやはり高さがあると狭く見えるんだなと…
何事もベストサイズが一番ですね…
ネットをうろついていたら、家族がお世話になっているところへ差し入れしたけど、しなかったほうが良かったかな?ということでした。その人は差し入れをした行動じゃなくて、差し入れた内容についてこっちの品のほうがよかったかな?だったんですよね。
ああ、こういう人たちって悩みの次元が私とは違うなって思いました。差し入れが迷惑だったかな?と思う出来事があったから悩んでいるけど、その行動自体しなければよかったとは思わないんですもん。気を使わせたかな?とかも、自分がやりたくてやっているから!ということで自己解決しちゃう。他の周りの人が差し入れをしていないのに、自分が差し入れという行動を始めたら、周りの人のプレッシャーになるというところに辿り着かないんですよね。私がやりたくてやっているからということでやっぱり落ち着いちゃう。
こういうのってけっこう罪だと私は思ってしまうんですよね。じゃあ、ウチもウチもとなっていくうちに慣習化してしまう。元祖の差し入れ者は自分がこの流れを作ってしまって申し訳ないとは思っていなくて、むしろ流れを作った自分に誇らしげになっているような⋯そんな雰囲気を感じてしまいます。
そういうことないですかね?これって自分も次回からはやらなきゃなと思わせられることが変に心に重くのしかかること。気を利かせたい時や、やってあげたいって気持ちってやってあげる立場の人が自分しかいない場合にしたほうが安全だなと思うのです。
基本的に気を利かせて新たな慣習を作り出さないところは自分の良いところなのかもしれません。一部からは気が利かない!と思われているかもしれませんが⋯
オジー・オズボーンが亡くなったのか。
自分の好きなバンドが影響を受けてたりするので、祖父のような気持ちです。
ブラックサバス時代のアルバムPARANOIDはやっぱり好きですね。あのどんよりと怪しい感じ、落ちてる時に聴くと逆に元気になる不思議な音だと思います。
とはいえ、今日はそんな音も悲しいですね。
「大したことない波」に見えても、その乗り方が独特すぎて、毎回困惑してしまうんです。例えるなら、「波が来たら、みんなで手をつないで『ぴょんぴょん!』って言いながら乗り越えようね♪♪」といったノリでしょうか。
言われた通り「ぴょんぴょん」とやってはみるものの、どうにも拭えない違和感が残ります。結局、波の大小ではなく自分の本意ではないやり方で対処しなければならないことが、一番の難しさなのかもしれません。
もう、無理せず「丘サーファー」でいるのも悪くないかな、なんて思い始めています。雰囲気だけ味わえれば、それで十分なのかもしれません。
結局誰かといても会話になっていないなーと思う日々。
こちらには話かけてくるけど、こちらの返す言葉にはあまり興味がないのか、次から次へと進行するラジオのような⋯
私はリスナーとしては置いてけぼりなんですが、そのラジオを止めるわけにもいかず、どっと疲れることがあります。
だからといって、こちらの言いたいことを言い切ってもスッキリしないというか会話が続かないので、それはそれで後味悪かったりするんですよね。
これってつまり、1人になることでしか解決出来ないんです。私は1人で自分と会話してるのが一番好きなんだろう。自分は自分の都合の良さを知っていて、いい塩梅で接してくれるからね。自分でしかどうにかならないのに、どうにかしてくれる側の自分を出す時間が、ホントに、ない。
この時期は、束の間の休息がないから疲れる。
毎年、毎年、気を確かにするだけで精一杯ですね。
今日も暑いのか。
外国人に道聞かれて対応したら英会話の勧誘されてモヤモヤした。
人の善意に付け込んだ押し売りみたいで嫌だなあれ。
調べたらわりとある手口らしいことを知った。
真面目に最短でわかりやすい道順考えて英語に置き換えるために脳のリソース割いたのに、本質はそこじゃなかった。
無駄なことさせたうえに勧誘ってどういう神経?
こういうことされると次回から要らん警戒心や猜疑心持って対応することになるからやめてほしい。
なんか、善意を無駄にされたのが本当キツい。
今日は豆腐料理ということだけは決まっているのですが、私の中では9割麻婆豆腐だなと思っております。ひき肉を手に入れるためだけにスーパーに行くのが⋯暑くて⋯どうしよう。
ネットを徘徊していたら、大学生からの相談で、母や他のきょうだいから夕飯を作っておいて欲しいオーラがしんどいという投稿を見ました。自分としては意外だったのが周りの反応で、大学生ならそれくらいやって当たり前って意見が飛び交っていたんですよね。
でも、私はこれって大変だよなーと思ったわけです。大学が早く終わったから楽とか、バイトがない日は出来るだろ?とかじゃないんですよね。
私も大学生のとき、ちょっとした習い事のお金を親が払ってあげるけど、家で料理してという条件を出してきたんです。最初はその条件を飲むために、自分なりにやってみてたのですが、上手くサラッと出来なくて。当たり前なんですけどね。普段やっていないのだから。出来ないことをなじられる感じありましたね。それが嫌で自然とやらなくなったんですけど、母も自分がやったほうが早いって思ってたんじゃないですかね?条件はクリア出来なかったので、私もネットの大学生のように叩かれていたこと間違いナシです。
親が作ったペースの家に自分がいるという感じだと、例え親から頼まれても、少しでも変なことをするとそこを突かれるので、そういうのがあるのがわかっているから総合的にシンドイのかな?とネットの大学生へ勝手に思いを重ねてました。
書いていないことを想像して勝手にに寄り添ってしまったけど、書いていないことをがあるからこそ、一方的に批判するのも出来ないなと感じたのです。書いていないことを付け足されて勝手に怒っているなという場面にも遭遇してしまう世の中です。基本的に書いていないことは想像して寄り添うけど、書いていないことを付け足して怒らないというのはなんとなく心に入れてます。
今思えば、自分のペースで料理出来て、勝手に失敗して成功して、手抜きするって幸せだなと感じます。
きっとあの大学生もウチと同じなのかな?とここで勝手に想像して感情移入させてもらいました。