1人でご飯食べるのって美味しいし、自分のペースしかないから私には最適なんだなと改めて感じてしまった。
昨日は外食に行ったけれど、一緒に行った家族の言ってることが私が理解出来なくて、よくわからなくてイライラさせたらしいのをを見たのが、あー残念と思ってしまった。メニューがどうのうこうのみたいなことを言ってたけど、よくわからない。
外食しなければこの一瞬のイライラ空気に私がガッカリすることもなかったのになーと。
ただ、楽しく美味しく食べるための時間を買っているので、ピリッとした瞬間的風速を感じたことは損した気分。まあ、私偉いのでなんとかやり過ごしましたが。偉い偉い、褒めよう自分。
まあ、でも、こっちが言っていることを理解されないときってありますよね。そして、相手の説明が理解出来ない時もやっぱり昨日みたいにある。
そういったときに、私この話題もういいや〜って思ってしまうんですよね。自分が説明した言葉で理解がされなかったとき、もうこの話題やめたいと思うんですけど、そのフェードアウトの仕方がよくわからない。自分の説明が悪いのかもしれないし、相手の理解力の問題かもしれない。どっちが悪いとか置いておいて、もうこの話はしなくていいや〜のときの、「あーじゃあいいやっ」って言っちゃうと感じ悪いし、自分が言われた場合は嫌だし⋯難しいですよね。だからといって根気よく説明してもこういうときって理解されることって少ないですよね。ちょっと時が経てば、あーそういうことか!と理解出来たり、こんなふうに説明したほうがわかりやすかったなとか、どっちの立場でも思うことは出来るんですけどね。もう今は不毛だなってときの終わらせ方が難しいですね。
昨日はどうしたんだっけかな?向こうが強めに説明してきたから、なんとか理解したんだっけかな?そういう意味だったら私もちょっとわからないなーなんて変な答え方したような気がする。おどけた感じですいませんッッなんて言ったような気もする。その態度が正解だったかわからないけど、その後どうにか何事もなかったように過ごせたからまあ合格点だったのかな。しばらく、あの店は行かないかな?あの店に起因してることだからね。その店が悪いわけじゃないんだけど。原因となる何かからは離れたいタイプなのです。それも、まあギリギリ合格点もらえるかな?という対応かな?
この暑さを使ってコートとかガンガン自分で洗ってます。
干支2周目に入ったトレンチコート、気に入っていますが、最近着る機会があんまりないよなーと思いながら洗いました。
春とか秋が短いという気候的な理由と、トレンチコートを着るような場所に出向かないっていうのも大きいかなー?
だけどとりあえず洗いました。そろそろ取り込むか。
とにかく知られたくないって気持ちは子どもの頃から強かったのです。
そんな私に酷だったのはやっぱり自由研究ですかね。まず、親に何をテーマにするのかを知られたくなかった。そして、その完成品も見せたくなかった。
それは学校に提出するときも一緒。先生に知られたくない、クラスメートに知られたくない⋯
なぜこんなに知られたくないんだろうと。やっぱりバカにされるのがもうわかっているからですね。工作にしても不器用だし、一生懸命やったとしても変なものしか出来上がらないから、それを見た親にまずバカにされてしまう。親にバカにされたという第1波を浴びたソレを学校に持っていく。そして微妙な先生の表情やクラスメートの視線を浴びる第2波⋯
じゃあ工作じゃなくて何か調べたりしても、それは同じ。この場合、出来不出来ではなくて、私がこういうことに興味を持って調べたんだ〜というタイプの視線が嫌で嫌でたまらなかった。
これ、単純に宿題が面倒というのもありましたが、面倒という気持ちプラスこの知られたくない感。すごくあったなーと。何に興味を持ってどんなふうに表現したのかを自分の意思とは関係なく、宿題だからというだけで見せないといけない。この感覚、シンドくないですかね?みんな自分の選んだ何かを知られるのを嫌じゃなかったのかな?単純に面倒という範囲をこえて、嫌だったのはこの感覚なんですよね。でも、この感覚、ずっと大人になっても何かしら付き纏いますね。知られたくないことをみんなに言わなきゃならなくて、こちらから言っていることはスルーされる。これは、私が生きている限り味わうのだろうなという研究の途中経過です。
大人から見れば子どもが泣いてるだけだから作戦には見えないだろうけど、逆に同じ子どもの目線から見るとそれは作戦だってわかるというか。だからあの人のことは好きじゃなかった。
驚くほど生まれたばかりの甥っ子がかわいくなくて驚く
遠いわけじゃないのに年1か2しか会わないんだけれど
興味がないのかもしれないな
うん、仕方ないよねかわいくないものは、かわいくない
血が繋がっていても
ああ、義妹が嫌なのかもしれない
安くなってたので買ったドリップコーヒーがフレーバーコーヒーだったのです。コーヒーはコーヒーの香りを味わいたいのに、甘い香りがついてて、あーコレジャナイって思ってます。セールになっているのは、つまりコーヒーはコーヒーのままでいて欲しい人が多いんですよね、きっと⋯
この時期になると思い出すんですけど、昔、親密な関係だった人の弟の野球の試合があるから、観に行ったことがあったのです。
その人も野球をやっていて、同じように高校球児だったので、野球に対する思い入れは深いんでしょう。ただ、私は特に野球に対する思い入れっていうのはなかったんですよね。
当時、今よりは暑くないとはいえ、夏ですから暑いですよ。それなのに興味も愛着もない野球を観に行くことは、私の気分転換にはならなかったんです。
次の年もまた野球を観に行かないといけない雰囲気になり⋯
その時、私は進路のことで上手く行かなくて心身ともに疲労が最大級の状態だったんですよね。だから、断りました。
そうすると、「弟の最後の試合なんだよ?」と言われて、は?となったのをよく覚えています。
なんで、あなたの弟の最後の試合という特別感に私は付き合わされているのだろう?そもそも、私は野球は興味はない。誰かが熱心に好きなものを貶していないだけで、私は野球は好きでは無いのです。
相手と親密だったたら、相手の好きなものや大事にしているものも同じような温度で好きにならなくてはいけないのか?と問われたら、私はNO!だと思うんです。相手が格別な思いを持っていることは尊重するべきですが、その尊重の中に私が同じような温度で好きになるというのは入っていないんです。
好きなものや思い入れは自分の範囲で解決する。それが尊重して尊重されることだと思うので、私はあの時野球を観に行くことを断ってよかったと思っています。
暑い中、懸命に練習に打ち込み、勝利を手しようとする姿は尊いとは思います。だけど、尊いものは人それぞれ違うんですよね。私にとってあの時、尊かったものは、ひたすら寝て休んで何も考えないことだったので、それが尊重されなかったのは悲しかったです。自分が大切にしたいものをほっといてくれるほうが幸せで、尊いのです。
最近こねないパンをよく焼くんだけど、いつものとは違うレシピを目にして焼いてみたくなった。
パンと言いつつ、どちらもフォカッチャで、今日の方が時間がかかったけど材料少なめだった。
味は今日の方がフォカッチャっぽい感じだったけど、いつものフカフカフォカッチャの方が美味しいと家族は言ってた。
私は適材適所じゃないかな?と思う。
シチュー系に合わせるなら今日のフォカッチャでもいい気がする。
ただ、ホントに時間がかかるからまた今度やるかどうかは怪しい。
動画を徘徊していたら、みさきまぐろきっぷなるものがあることを知りました。
品川とか横浜からとかで金額は違うけど、4250円だったかな?それで往復の電車運賃とバスのフリー切符とまぐろのお食事とお土産かアクティビティに充てられる券がついてるなんてお得だなーと。
大間のマグロ食べてみたいと思ってたけど、自分の家からだと大間はハードルが高いので、みさきまぐろきっぷならまだ自分の家からは現実的だなーと。チャレンジしたい!マグロ〜