土曜日出勤。1日8時間労働を6日間拘束する会社で利益上がってないのはもうつぶれていいんじゃないかと思う。
同業他社があるんだし、会社の存在意義なんてないよ。
タイミングに恵まれたいと改めて思うのです。
自分のタイミングと周りのタイミングが合わないことが多くて疲れるけど、だからこそ一致したときの嬉しさが2倍かも?
1人で家で過ごすしか得られない栄養ってあると思うんだよねー
それがなかなか得られないからちょっと栄養不足かもー
たびたび思うことなんですが、本当に単語に反応する人増えたよなという印象。内容じゃなくて単語だから、そんなこと言っていないよね?と思う場面が増えました。
最近だと、某リーダーの「ライフワークバランスを捨てて働きます」がそうだなと思うんですよね。
某リーダーは“自分"がソレを捨てて働きますと言っているだけで、あなたもソレを捨てて働いてください。なんて一言も言っていないんですよね。
それなのに、自分も働いて働いて働いてと言われているように解釈して憤っている。その解釈は拡大すぎて、もう何も話せないよなーなんて感じます。
ヒッシに働きますという意味で、言葉通りにライフワークバランスをすべて捨てたら心身ともに保たないですから⋯
しに物狂いなんて言葉もありますけど、本当にしぬわけではない。ただの比喩です。慣用句です。
それをわからない人が多すぎると感じます。わからないというか自分が被害者という意識が強めなのかなと。だから単語に反応して内容を咀嚼しないまま単語が出た時点で反論しないとやられると思っているのかもと。
私も色々人生うまくいかないことばかりだし、綺麗事無しで言うと周りのせいで自分のせいだけじゃないと思うことたくさんありますけど、単語にだけ反応して意味不明な反発だけはしないようにしたいなとこんな状況に遭遇するたびに思うのです。
3回目の昼寝をしそうだったけど、なんとか堪えた⋯
なぜこんなに寝れるのかわからない、とりあえずコーヒーに相談しよう。
私から見ると偏差値60はスゴイのだが、あまりすごくないみたいに言うのは家族だから謙遜入っていたとしても、まあ厳しい世界だなと感じたわけです。
おそらく、進路も自分で決めさせたように見えて、そう決めるように促しているよなという印象。
まあ、私がとやかく言う事じゃないけど、ウンウンと聞いてることもなかなか難しいから、ちょっとここに気持ちを置いておくと。
偏差値60あれば入れても、偏差値70の人がうじゃうじゃいる学校なら、そりゃついていくの大変だよなとしか言いようがない。
個人的には地元のあの学校が良かったんじゃ?と思っているけど、ケチョンケチョンに言ってるから、それ以上は言えない。
偏差値も60あれば合格出来ただろうし、同じくらいの学力で学べて良かったとは思うんだが⋯
人のことだからとやかく言わないとは思っても、色々聞かされたら、やっぱり自分の意見は出てきてしまうものですよね。
それを押さえ込みなが会話するって難しい。
基準って人それぞれだよなと。
漫画を読むのがしんどくなっている。
暇な時にアプリで読んでいたが、それが苦痛になってきた。
気になる作品はある。
でも読めなくなってきている。
大丈夫か?わたし。
期待するのはやめよう。
イライラするだけだし。
こんな会社なくなってしまえばいいんだし、
知らん顔して給与だけもらっておこう。
弁当を作らないのは楽だし、雨だから洗濯ものを乾燥モードで乾かしちゃうの楽。
楽の積み重ねで生きていきたい。
現在の郵便のシステムの礎を作ったのが、前島密という人物で江戸から明治に変わったその時期に日本の仕組み作りに奔走していた人物の1人ということを知りました。
そして郵便以外にも行ったことがあって、それは「漢字を廃止する」ということなんですよね。え?廃止なんでよ?なんて思っていましたが、漢字を覚えている時間によって他の事を修得する時間を奪われているといった考え方によるものだったそうです。
他の言語のようにアルファベッドを覚えて、それを駆使して他の学問を学ぶ時間に割くという考え方もアリだったかもしれません。
でも、私はひらがな、カタカナ、漢字がある今の状態の日本語を気に入っているので、その案が通らなくて良かったかなと思っています。ひらがなだけだと幼さを表現出来るし、カタカナだけだと幼さとは違うカタコト感を表すことが出来る。そして、そこに漢字が混ざると表現がもっと複雑で豊かなものになるような⋯そんな使いわけが出来るような気がするのです。
以前、私が読んだ「アルジャーノンに花束を」という小説は、原文は英語だけど、日本語のひらがな、カタカナ、漢字があったからこそ、より緻密に翻訳出来て伝わった部分があったんじゃないかな?とずっと思っているのです。
内容は知的障害がある主人公が医者の施しによってどんどん知性を持ち博識になっていくんですが、その状態はいつまでも続かない⋯というものです。
この一連の流れを、主人公が日記をつけるというの様式で話は進んで行きますが、最初はひらがなばかり、漢字も間違ってるし、読み辛いけど、主人公の置かれている状態がすぐに理解出来たんですよね。そして、知性が備わってくると文章も漢字が多くなり理路整然としたものになってくる。そして、そこからの凋落もまた漢字が減り、ひらがなばかりになりボキャブラリーが減っていることをまざまざと理解させられたものです。
なのでやっぱり今のスタイルがあったからこそ、得られたもの、表現出来たものって沢山あるんだと感じます。
漢字を学ぶ時間を他のことに充てるというのも、日本のことを考えてる故の提案だった思うので、否定し過ぎることはしませんが、効率の良さを考えると無くしていかなきゃならないものもあるし、その1つ1つの判断の積み重ねで今持っているものが私たちの中にあるんだと実感しました。
ところで次回の漢字検定、受けるかどうか迷っています。前回はダメだったので⋯でも、このまま放置してるのも覚えたことごもったいないから悩んでいます。
漢字がなかったら、漢字検定もなかったのか⋯