とある検定の勉強をまた始めてますが、もう忘れちゃっただろうなと諦めモードでいたのに、思ったより覚えていて自分でも驚いた。それならば、もう一度チャレンジしてみようか?となったわけです。
この検定を合格したある人の話を動画で見ていますが、勉強をすることで筋肉をつけることが出来るという話です。何かに取り組むときの資本となる姿勢や精神的なものを筋肉に例えて話されていたのが印象的でした。
私も以前合格は出来なくとも、その時に培った筋肉があって、それをまだ使えるのであればやってみたほうがいいかなと思った次第です。
別に、この検定に合格したからといって、仕事に直結するとかはないんです。でも、大人になると、役に立たないけど自分が取組たいものに取り組むことが出来るのが嬉しいですよね。
私を構成しているものって、一般的には役に立たないものばかりなのかもしれませんが、私を生かしてくれているとは思うのです。無駄なものって長い目で見たら無駄じゃないんですよね。そんな、誰かから見たら、どうでもいいものだけど自分にとっては大事なものを揃えてこの先は生きていけたらいいてすね。
鬼滅の刃の話になったときに、
私は 胡蝶しのぶ の話をしたかった。
なのに、あなたは、煉獄さんの素晴らしさを被せて嬉々と話したね。
私の話は誰が聞いてくれるのだろう。
話すのが下手くそなのがいけないのかな。
どう頑張ればいいのだろう。
わたし、ずっと泣いてるよ。
あなたは、妻がずっと泣いていることを知っていますか。
半年前から予定していたこどもの手術、旦那は海外出張、父は入院中&コロナ、毎日お見舞いに行っていた母もコロナ。
びっくりするほど全てが重なった。
仕事のすきをみてできる限りの対応した。
全て無事終了した。
わたし頑張った。
病めるときも健やかなるときもっていうのは嘘で、病めるときは逃げられますよ。だから全力で健やかでいられる方法を見つけたほうがよい。
明日、ライブ行きますが、ライブも楽しみですが、何か食べようかなと思っていて、とんかつかうどんか悩んでます。
あの人、付き合って3ヶ月で結婚したらしい。聞いてないのに勝手にしゃべってきたから。
まあ、要するに出来たかららしいけど、意図的なのかなとは思ってます。
「大袈裟だと思われるかもしれませんが⋯」
「こんな表現、大袈裟かもしれませんが」
自分が何が伝えたいときってこの「大袈裟かもしれませんが」をつけることが多いことに気がつきました。
これは父の影響が大きいです。私が何か説明したり、嫌がっていたりすると、「大袈裟〜」「話、盛ってない?」とか言われてきたからだと思います。
だから自分の感情に深いところで自信を持てず、否定されるかもしれないと心の底で思ってしまっているのでしょう。
だから、「大袈裟かもしれない」と最初に自分で保険をかけて、話してしまうクセみたいなものが染み付いているのでしょうね。
「大袈裟かもしれませんが」と付けているのに、自分では本当は大袈裟だと思っていなくて、言葉に出すからには感情や状況を理解して欲しいと思っているのに、それが子どものときからずっとされてこなかった。だから、最初に言うしかなくなって、父以外と話しているのに、大袈裟〜とつけないと会話や文章が作り出せないのかもと。ここでも色々残してきましたが、振り返ると使っているんですよね。"大袈裟かもしれない“という枕詞を。
きっと、これを父が読んだら「大袈裟〜」と言い、怒鳴るでしょうね。だけど、これが大袈裟ではなく、私の真の気持ちなんです。なるべく、「大袈裟かもしれませんが」を意識して減らしていこうと思います。大袈裟かもしれませんが。
とにかくお金がかかることが許せない親だったな。要するにケチ。実際、余裕があったわけじゃないと思うけど、子どもにお金かけるのが嫌だったんだろうなと思う。お金に余裕あったとしてもケチってただろうな、あの様子じゃ。
今日は焼きそば(マルちゃん)を作った。焼きそばって言いながら、あの麺はすでに蒸されており、ほぼ焼いてない。フライパンに水も入れるし。ペヤングのこと焼きそばじゃないと思ってたけど、マルちゃんの焼きそばも焼きそばじゃないことに気づいた。
成就しなかった関係、あるいは言葉を交わしきれなかった空白。その「未完成」こそが、誰かを一生、心の中に住まわせるための余白になるのかもしれません。
誰かの記憶に自分が残っているかを問えば、きっと答えは心許ないものです。記号としての「知人」ではなく、体温を感じるような記憶として誰かの中に存在し続けるのは、容易なことではありません。けれど、それでいいのだとも思います。
記憶の温度を誰にも邪魔されず、自分だけの適温に保つこと。時折それを取り出しそっとなでるように思い返す。そんなふうに誰かを自分の一部として保存しておくことは、何にも代えがたい贅沢な孤独なのかもしれません。