綿矢りさの「嫌いなら呼ぶなよ」を読んで
同タイトルの短編小説集の中にある、この話です。
今回読んだ小説は妻の友達の自宅に呼ばれて、妻の友達とその配偶者たちという家族ぐるみで自分のしでかした悪事、つまり不倫をホームパーティーという場所で家族ぐるみで弾圧されるという展開でした。
男性側の視点で妻の友達との付き合いを心の中では嫌がっているというのがまず新鮮でした。まあ、性別問わず苦手な状況、人っているもんだからなと考えると普通か。ある意味無理して来てるのに、突然、裁判が始まると。
この男性が悪いんですけど、やってることは全然共感出来ないですけど、誰も味方がいない状況、全員が妻側の人間で、しかもただのホームパーティーに付き合って来ただけなのに、唐突に始まる裁判⋯実際の裁判のほうが自分側にも弁護士もいて、日時も決まっていて、マシなんじゃないかと思われるほどでした。
不倫とか全然共感出来ないのに、この状況のせいで男性側の視点になっちゃうのが面白かったです。
やっぱり、配偶者や恋人の友達って、自分の友達じゃないよなーと。配偶者の友達に会う状況って、小説やドラマでよく出てくると思うんだけど、ぴったりハマらないパスルのような状態になるから物語として成立するんだろうなと。
長所も短所も繋がっているから、短所を直したら長所も自然と無くなるみたいな表現も、自分もそれは常に思っていることで、バランスの取り方が難しいなと感じている部分のひとつですね。だから不倫を止めたら今までの自分の良さも消える⋯そんなところかもしれません。
タイトル通り、「嫌いなら呼ぶなよ」なんですよね。大人になると嫌われてる、または好かれていないのに呼ばれてお互いに疲弊するってやっぱりあるんですよね。それなら仲間外れのほうがマシ、子どもがよくやる仲間外れのほうがわかりやすくて良いなんて思う感情も共感出来てしまった。
共感出来てしまった⋯なんて書かなきゃならないのは、やっぱり不倫してるし、ちょっとナルシストで自己愛が半端ないし、共感すると自分もそっち側の人間と思われてしまう?という不安から、そんな書き方になってしまう。表面に出ている悪事は共感出来ないけど、その内面は共感出来てしまったり、人間は難しいですよね。とりあえず嫌いなら呼ばないでって私も思う。そういうお呼ばれがないのが平和かも。