一昨日と昨日、楽しかったの。
あの人の空気感めっちゃいいなー。
ずっとこのまま会えたらいいな。
なにもないから心地よい。
ずっと好きだと思う。
母が亡くなって6年経った後に書いてた手記では、控えめに柔らかく、会わなくなったことで新しい自分になったとは書いていました。感謝もしている、毒親とはハッキリ言えないとか。
亡くなって会わなくなって気がついたことがある、母の価値観が自然に染み込んでいた自分に気がついたということも書いていましたが、母が亡くなって6年、そしてそれから3年後の今でも強く思っていることです。
いなくなって寂しいと単純に思えないことに複雑さを3年前は抱いていたようですが、今は寂しいというよりも自分の人生、考えがくっきりと浮かんできたことにホッとしているんですよね。
以前、ここで私はもうすぐ9歳になります。と書いたのですが、自分の純粋な価値観を獲得という意味では本当に9歳でそこは祝うべきなのかなと。
人が亡くなっているのに祝う?と思われてしまうし、他の家族や周りの人には言えませんが、亡くなったことに対する祝いではなく、あくまで、新しい自分の誕生としての祝いです。
誰かが亡くなる日もあれば、同じ日に誰かが生まれることもある。それと一緒です。私は私としてはまだ9歳なので未熟なのです。実際の年齢と追いつかないままかもしれませんが、キット今のほうが一番“自分"だと思います。
バリに行ったという友人を羨ましいと思ったのはバリという場所自体に憧れたからではない。ただ、その友人がバリに赴くことのできる時間と経済的なゆとりを持っている、その境遇が羨ましかったのだ。
そういえば、ずいぶん昔に、合コンに行こうか行くまいか、といった話題で盛り上がっている人たちを見たときも同じような感情を抱いた。彼らが合コンに参加できるその自由な立場が羨ましかっただけで、合コンという場そのものに行きたいと思ったわけではない。仮に自分にその自由があったとしてもおそらく合コンには行かず別のことに時間を使っていたことだろう。
合コンには一度も行ったことがない。話を聞く限り、ただただ疲れるだけの場所だろうと想像している。もちろん、今となっては合コンに行くような年齢でも立場でもないし周りにそういった話題を口にする人もいない。
人生経験として一度くらいは行っておくべきだったのだろうか。いや、そもそも誘われた記憶もない。若い頃から、そういった一種の社交場に対する苦手意識が、オーラとなって全身から放たれていたのかもしれない。誘ってくれる友人が少なかったというのも大きいが。
十数年が経ち、苦手なものは苦手なままだ。考え方も根っこの部分は変わらないまま生きている。ただ、苦手なことへの対処法だけは良い意味で変わったのではないかと思いたい。友人のバリでの楽しそうな様子を見て、ふとそんなことを考えたのだった。
前に長野で売ってる山椒七味の話を見て、今度長野行ったら買う!とか思ってたのに思い出したのは帰り道の横川SAだった
目当ての山椒七味は見当たらなくて、でも柿の種みたいなさんしょうの種ってのがあったので買ってきた
山椒味でとてもおいしかった、少し辛いから一度に少しずつしか食べられないけど
もう一つ買えばよかった
これ食べてて、自分はウナギが好きなんだけど、多分ウナギじゃなくてあのタレと山椒が好きなんだということにも気がついた
あと雷鳥の形のカラビナも欲しかったのに、同じく思い出したのは横川だった、なかった
また次行った時に探します
旅行から帰宅して、しばらく体調が変になります。
不調ではなく、変なんです。
暑いからというのもありますが、この変な感じ、早く終わってくれー
姿勢も良くないといけないし、字もキレイに書かなきゃならない。運動も勉強もそこそこ出来なきゃならない。痩せすぎてもいけないし、太りすぎてもいけない。
男性なら頼もしくないといけないし、女性なら気が利かなかきゃならない。
若けりゃ元気でいなけりゃならないし、大人になったら落ち着かなきゃならない。
政治のアレコレ、ニュースの難しい言葉、よくわからないマナーも知っているのが当然⋯
ああ、たぶんまだ書ききれていないけど、努力しないと出来ないことばかりだし、努力しても周りか思う"普通“には到達しないんですよね。
出来ないことが多すぎて疲れるし、やる気がないと思われているのがシンドかったです。
シジューのロードに入った今は開き直ってどうにか生きてますが、何も出来なくともシジューロードに入るまで生きてきたのがひとつの答えなんじゃないかと思うのです。
本当はそんなに色々出来なくてもなんとかなるよって思わないとこの世は生きるのは大変ですよ。
新しい下着って自分にフィットするまで違和感しかない⋯
だからといってボロボロ過ぎるものは最早、下着ではないし、、
早く馴染みますように
友達多過ぎる人って信用出来ないな。友達が多過ぎると単純に1人に割く時間が少なくなるからこちらのことは何も覚えていないんだよね。
だけど、相手が喜ぶようなことを言うのはすごく得意なんだよね。それは決して嘘じゃなく、その人のその時間の一瞬の中ては本当のことなんだよね。一瞬の気持ちなのに、それを永遠に続くみたいに言う。簡単に言えば人たらしという人種なんでしょうね。
元友人をSNSでなんだかんだで10年ほど観察していますが、この人が一瞬の気持ちを永遠かの如く言うタイプ。それを他の人に色々な言葉で言ってるのだろうなと感じます。
今回のSNSもまあ、そんな感じだったなと。大人になって考えてることが一緒だと思える関係が嬉しいそうです。ああ、この人に関わってきた人で、その言葉を見て、私はそこに入っていないんだなと思っている人がどれくらいの数でいるんだろうな。
10年も観察してると、いつも永遠を伝えている友達はいつも同じ人とは限らないなと気が付くのです。永遠を伝えて感謝を伝えてずっと仲良くしていく⋯というわけではないんですよね。
その時の瞬間に永遠を伝えている自分が自分で見たいから、それを言う。その時は本当の気持ちだから嘘じゃなく、そんなことを思っている自身を味わいたいんでしょうね。だからSNSに投稿するし、記録したい。そんな自分を見て欲しいという気持ちもあるだろうけど、そんなことを感じて言っている自分が好きなんでしょうね。だから、もう永遠を伝えていない相手のことは忘れるし、そこに配慮はない。
こういう生き方が出来たら楽だろうけど、真似したくないんですよね。相手の心に良き揺さぶりをかけておいて、満足したら放置するみたいなやり方、詐欺師と変わらないなと思ってしまう。
本当のことを言ってる詐欺師。というと矛盾してて意味不明にはなりますが、そんな詐欺師に一番気をつけないといけないのです。
日傘とサングラスは日よけのためなんですが、それ以外の使い道として、微妙な知り合いに遭遇したときに日傘で顔の隠し、サングラスをしているから大丈夫!なんて思ったりしてます。マスクもあれば最適ですが。
微妙な知り合いだから隠れたことがバレてたとしても、向こうも安心してるんじゃないかなと。
「気の置けない関係」ってなんだろうね。
元友人のSNSを見てたら、そんな表現出てきたけど私そんな人、誰もいないですね。家族も友達もいるし、たのしく話すときもあるけれど。
こういうことを書くと、単純に嫉妬しているとか思われちゃうから言いづらいけど、自分の思う「気の置けない」なんてこの世には存在しないとは思うんですよ。
いつもどこかに気の置き処がないと私はシンドイですね。気の置けない関係だからといって何を言ってもいいとか、そんな意味じゃないのは承知しているし、ただの慣用句だともわかってますが、誰かといるときの気の置き処は私にとっては重要なんですよね。でも、そうすると自分の思う「気の置けない」関係なんて何処にもないことに気がついてしまって、自分で自分の中に帰って行くことが一番油断出来てホッとしますね。
元友人とも気の置けない関係だったのに、いつの間にか気をアチコチに置かないといけなくなって、自分の気が友人に直接渡せなくなったからなんですよね。
そんな元友人の現在の気の置けない人たちって、やっぱり私とは全然違う人種なんだろうな。
誰といっても自分の気を誰かに渡し過ぎない。それが一番ラクなんですよね。気を引っ張りだそうとしてこない人、引っ張りだせない距離、それが大事ですかね。