2025.04.24Thu
非表示 14:36

たとえば自分が楽しみにしている事象、イベントがあって、先にそれを体験した人がそれについての悪評を述べたら、せっかく何も思わずにいられるのに水を差された気分になる。
何かについて意見を述べることは悪くないが、それは同じ体験を経た上で発するべきである。
ということを学んだ。褒められたい。偉くない?褒められたい。


非表示 05:42

昨夜、絶妙な頭痛直前のような症状が出ていたので、寝る前に薬を飲んで寝ました。
頭痛の直前ような症状⋯なので薬を飲むか迷ったんですが、今は元気なので服用は正解だったのでしょう。
判断に迷う時って色々あるのです。

2025.04.23Wed
非表示 22:27

朝、電車に乗って、何駅かで目の前の席が空いた。
ラッキー。
座る。

お尻に根が生える。

私、疲れてるのか。と朝から実感する。

それが、しんどい。

座れて、座るし、座るの一択なのだけれど、
朝なのに疲れているのよ。

それを実感するのがしんどい。
まだ水曜日なのよ。

絶対に、絶対に、絶対に、金曜日は楽しいことをする。


非表示 13:29

粗品で貰ったペンが書きやすいとすごく得した気分になります。
良く見てみると馴染みの文房具メーカだったりして、ペンをくれた会社よりもペンを作っている会社が気になったりしてしまいます。


非表示 09:27

仲良くならなくてもいい者どうしの自己紹介って不要だし意味不明だなって思います。
子育てしているとわざわざ仲良くなる必要もないのに親が自分のことだったり子どものことだったりをみんなに披露する機会ってありますよね?私が子育てで苦痛だと思っていることの1つってコレなんですよね。
幼稚園なんて子どもの紹介と親の紹介をする用紙を配って、それをファイルして全保護者に配るなんてありましたよ(しかも、その自己紹介用紙も保護者が作り保護者がファイルするなんてあったなー。クラス役員やったときは地獄だった⋯)
幼稚園はとにかく保護者が幼稚園生なの?ってくらい保護者との密度が高くてシンドかった。
小学生になって幼稚園よりは格段にその密度は減ったけど、懇談会とかで自己紹介させられたり、自己紹介だけじゃなく、ゲームやネットに対する家庭での取り組み方を発表させられて、あー、アレもシンドかったなー。「ゲームは時間を決めて、約束事を決めて⋯」とか通り一遍な答えしかみんな言わないし、言えない。
だって、ゲームはやり過ぎると良くない、ゲームばかりさせないで他の体験もさせて⋯という先生のお気持ちを聞いた後の発信なんてだいたいそうなるよねーと思うのです。
ゲームにも良いところがある!なんて誰も言わないし言えない雰囲気で、ゲームに対する取り組みとか言わせても意味ないんだよねー。
そんな雰囲気で自分の言葉のようで自分の気持ちじゃない意見交換会しても、仲良くなれないし、そもそも保護者どうしの仲良くしなければならないものでもないから、こういうの不要なんだよなーと思います。
交流したい保護者はすればいいと思うし、それをとやかく言うのは違うと思うけど、交流したい人のためにそれを必要だと思っていない人が巻き込まれるのは違うかな?と思うんです。
でも、「子どものため」という、親である本人以外が使うと途端に呪いの言葉に変化する言葉に押しつぶされる。それが私が子育ての苦手な部分です。親は親で子どもは子ども。それは子どもが幼稚園だろうが小学生だろうが大人になろうが変わらないのです。だから、不要な自己紹介は不毛なのです。


非表示 09:06

子どもが小学生の時の保護者懇談会で、子ども同士がやっているというゲームを保護者同士でやらされたのは苦痛でした。
なんか変な決め台詞みたいのも最後に言わなきゃならないのもシンドかった。先生がクラスの様子を話してくれるだけで充分です。

2025.04.22Tue
非表示 18:31

自分のミスでそれなりに大きめの怪我をした
命に別状はないけど跡は残るかもしれない
もういい年だから綺麗に治るかも分からない不安もあるけど、毎日薬を塗りながら「綺麗に治りますように」と祈る時間は悪くないと思った
自分がどんなに太ろうがニキビ跡がついても構わない、食べ物以外は誰も私を癒してくれないと自傷行為のように脂っこいものを食べて、ひっかき傷や跡がついても見る人も気にする人も誰もいないからどうでもよくてどんどん跡が増えて、そんなことばかりだった
自分に傷ついてほしくない、これ以上悪くなってほしくないと純粋に願うことが久しぶりのような気がした
涙が出てきた


非表示 14:41

以前、1人で御飯を食べる人は鏡を前に置いて食事すると、1人で食べている感覚が減らせると何かで見たけど、正気か?と思ってしまいました。
私がそこまで孤食だからといって寂しいという感覚がよくわからないからそう思うのかもしれませんが⋯


非表示 06:01

昔話になりますが。
昔、私の親しい存在だった人が、ある同性の友達とよく遊んでいて、いつも一緒にいる感じだったんですよね。私としては本当にそれを微笑ましく思っていたので、「ラブラブだね〜」とか「付き合ってるの?(笑)」なんて言っていました。本当に親しい存在は異性の私であると思っていたからこそのジョークでした。
ただ、相手は本気で怒っていて、私にはそれがよくわからなかったんです。話のポイントはここではなくて、次に書くことなんですが⋯
話は変わりますが私、犬が苦手なんですよね。苦手というかコワイ。それは相手も理解してくれてると思っていたんです。ところが「そうやって言われることはあなたが犬を近づけたり触れさせりされるのと同じくらい嫌なんだ」と言われてびっくりして、そして苛立ちました。
私は微笑ましく思っている友情に対してユーモラスな気持ちで言ったことに対して、私が苦手で今までも犬がコワイことで嫌な思いをしてきた事が一緒にされたことに不快感を覚えてしまいました。
どんなことでも相手が嫌がることは言ってはいけないっていうのはわかるんですけど、大袈裟にいえば私が恐怖を感じている犬の存在とちょっと揶揄われたくらいのものを一緒にされたのはやっぱり違うなって思うんですよね。今でも。
好きなものだけじゃなく、嫌いなものや苦手なことも、人それぞれの執着、良く書けば思い入れってあると思うんですけど、自分の気持ちを分からせるための手段として、その思い入れを利用するのってよくないなって思ったんです。
最近、似たような感覚を前にも味わったな?と思ったらこの時の出来事でした。最近味わったのは私の好きなことをた盾に相手の主張を押し通されそうになったのです。
自分の中で確実に存在している、好きに嫌いを誰かの主張のために使われたくない、それはあの頃から20年以上経っても続いている私の感覚なんでしょうね。


非表示 05:39

筍を茹でで1週間で食べ尽くしてしまった⋯
もっと食べたかったが、毎年1回しか茹でないからなー。もっと簡単に出来たらいいのに。

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