2026.02.04Wed
非表示 05:27

自分が育ってきた環境の違いをまざまざとと見せつけられ、体調の流れもあり落ち込みましたね。
簡単に書くと進学に関する親のスタンスって、その後の人生に大きな影響及ぼすんだなということです。
私はケチりにケチられたんだなという気持ちが拭えないです。
それでも進学させてもらったから文句も言えないという位置づけ。ああ、しんどい。
そもそも、親のスタンスが違うんだよね。大学なんか行かなくていいのに⋯という私の親のような考えと、大学は行っておいたほうがいいよという親では、結局、子どもに対する言動が違ってくる。
そんな違いを感じて、落ち込みながら自分の子どもの進路を見守らなきゃならならない。その都度、自分の親の言動をリフレインし、鋭い紙で何回も切られた感覚になるのだ。
私は、大学に行ったほうがいいと思ってるけど、浪人はしない方向だったんだけど、子どもは浪人も視野に入れてるみたい。子どもの親でもある私の配偶者は浪人させてもらって大学入ってるし、浪人しちゃいけない!なんて言えないよね。だけど、浪人すればいいみたいに思って取り組んで欲しくないし、その選択肢が普通だと思って発言出来ている環境羨ましいなと思ってしまう。
そんな環境を与えられたのは嬉しいけど、自分とくらべると複雑だなと。そしてまた鋭い紙でスパスパ切られる。来年、再来年も切られ続けるんだなと。

2026.02.03Tue
非表示 21:25

​平和主義の裏側に「称賛への依存」があるのだとしたら、それは自己防衛が招いた閉塞感に他ならない。
感情の四要素である「喜怒哀楽」から特定のピースを排除しようとすれば、精神のバランスは必ず崩れる。負の感情を抑圧することは、結果として正の感情を受け取る感性をも麻痺させてしまうからだ。健全な人間関係とは、綺麗事の維持ではなく、多面的な感情の受容によって成立するものではないだろうか。


非表示 13:44

別に嫌味じゃないけどなー
そうじゃないのに嫌味と受け取ってくる人とは話したくないかなー
それが100人に聞いて95人は嫌味だと受けとるといっても私は嫌味として言っていないから、それなら話したくないんです。


非表示 09:17

「普段、〇〇は嫌いだけど、これなら食べられる!」って美味しいを表現するときに使われがちだけど、よくよく考えたら微妙な表現かなと。
私、トマト嫌いだけど、このトマトなら絶対食べられるってないんですよね。トマトはトマトだから嫌いなので⋯
食べられるトマトがあったら、たぶんそれトマトじゃないと思う。トマトの見た目の違う何かだと思う。


非表示 05:53

観察用として見ている元友人のSNSがあります。その元友人のフォロワーやフォロー者も閲覧出来たりしますが、その内の1人が怪しい健康法のようなビジネスっぽいのを投稿していて、最初に思ったのが"類は友を呼ぶ“という慣用句ですかね。ただの業者でもなく生身の人間がそれにハマって勧めているといった感じのでした。
元友人、ビジネスはやっていなかったけど、変な健康法にハマっていて、それから性格がピリピリとしだして、疎遠へのカウントダウンが始まったような気がする。
元友人は今は謎の健康法はやっていないことは観察済みだけど、まだその気はどこかに残っているんだろうなとは思っている。
そういうのハマる人って思い込みが激しいし、やっぱり周りに似たような人が集まる。私は離れたから良かったけど、友達の性格がピリピリしていなければ、影響されていたかもしれないと思うと怖い。
あの頃は、仲良くしていたのに違和感を覚えて、そっち側に行った友達に悲しさや寂しさ、そして苛立ちもしたけど、本当に離れて良かったなと思う。ほっこりした雰囲気で圧をかけてくるから、周りからは攻撃されているように見えないんだよね。だから私が悪くなる。それが疲れるから離れてよかった。
変な液体を飲んでから食事を食べる動画を拡散する人は周りにはいない。それは安全だと思うし、自由だとおもうのです。

2026.02.02Mon
非表示 16:24

まあ、大人としてはやっぱり字は綺麗に書けたほうがいいのかもしれないが、そうすると、また努力することが増えちゃうから疲れちゃうんですよね。


非表示 15:44

「大切な人との今」を慈しむべきだという言葉は、痛いほどよく分かります。でも、同じように「今の自分」だって、今この瞬間にしか存在しません。自分が自分をないがしろにしたまま、誰かを本当の意味で大切にすることなんて、きっとできないのだと思います。
​以前、自分を置き去りにして周囲に尽くしていた時期がありました。心は悲鳴を上げているのに、無理をして「良い自分」を演じていた。けれど皮肉なことに、自分を犠牲にすればするほど、周りからは大切にされませんでした。
自分を削っているという自覚があるからこそ、相手の反応をすべて「対価」として求めてしまい、少しでも期待が外れると苛立ちが募る。そんな殺伐とした空気を纏った人間に、優しく寄り添ってくれる人なんて、そうそういないのも現実です。
​それでも、ただの他人ではない「特別な誰か」には、その手を掴んでほしかった。一番助けてほしかった瞬間に、その手を振りほどかれた記憶は、今も消えない棘のように胸に残っています。
​結局、自分を守れるのは自分しかいない。それを教えてくれたのが、あろうことか「ずっと一緒にいたい」と願っていた人や場所だったというのは、あまりに皮肉な話です。
​世間一般の「正しい在り方」から見れば、今の私は冷淡で、悪い見本のように映るかもしれません。けれど、誰かのために自分を擦り切らせていた頃より、今のほうがずっと幸福を感じている。そして不思議なことに、適切な距離を置いた今のほうが、周りの人たちも以前より笑っているように見えるのです。それが私の思い込みだったとしても、密着しすぎてお互いが苦しかったあの頃より、ずっと健全で楽しい時間が流れています。
​結局、物理的な距離や一緒に過ごす時間の長さが、愛情の深さを決めるわけではないのでしょう。
​そんなことを考えながら、今日もひとりでコーヒーを飲んでいました。


非表示 09:11

こっちの説明が悪いから理解できなかったみたいなオーラ出してくる人いるんですけど、結局、自分の聞きたい情報だけ聞いて他は聞いてないから理解出来ないんですよ?って思うことがある。


非表示 05:45

「愚痴もなく前習いなんて出来なかった」
私の好きなバンドの曲の歌詞だけど、これを聞いていた中学生高校生の頃も、共感はしてたけど、それから25年以上経った今でも頭の中で響いてくるときがあるのです。
基本的に私が変わっていない本質の部分ってこれなんでしょうね。
どうせやるなら楽しんでって言葉は楽しいことにしか当てはまらない。どうせやるなら愚痴言ってのほうがしっくり来る。
昔より露骨な愚痴を言わないようにしてますが、それでも内面は同じで「なんでこんなことやらなきゃならないんだろう」とある意味自分をネガティブで奮い立たたせながら生きています。
そんなことばかりで、生きるためにはネガティブにならないと生きていけないことばかりなんだなと日々感じるのです。

2026.02.01Sun
非表示 18:40

とある同じ商品、2.5倍!という表記のものを以前買っていて、また同じ物を買ったつもりが、同じレイアウトで2.5ヶ月分!になっていました。2.5倍の方が量は多く、以前いくらで買ったか忘れましたが、ああ、なんか騙されたのかもしれないと感じてしまいました。

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