もうお腹空いてる
昼ご飯食べようかな
自由過ぎてもツライというけど、同じツライがあるならば、自由過ぎてツライほうが幸せだな。私は。
ああそうか、簡単に言うと、相談に見せかけた誘導だから嫌なんだと思う。
そういうのってけっこう巷に溢れてるんですよね。
質問者自身の意思を確認するために消費されるのが嫌なんですよね。
どういうことかというと例えば、りんごでいいよね?と言われたら私がみかんのほうがいいと答えるとします。ああ、でもりんごにしたほうがなんちゃらって言ってくるんですよ。
もう自分の中でりんごにするという気持ちしかないのに、わざわざ「りんごでいいよね?」って聞いてくるのがしんどいのです。
相手に寄り添おうとしてるつもりかもしれませんが全然寄り添ってないですよ。こちらも考えてみかんって答えてるのに、もうりんご以外は受け付けるつもりはないのだから。
りんごにするね?と言ってくれたほうがいい。大したこだわりがないときは、りんごでいいよ!と言うし、りんごだとちょっと違うなという場合はみかんのほうがいい理由を説明しますから。
だから、言っちゃいましたけど。聞いてきて言う事聞かないなら聞かないでほしいと。ボソッとですけど。
それが聴いたのかわからないけどみかんになりました。でも、こういう説明も難しい絶妙なイラつきってありますよね。
あなたの中で確定してることを私の意思を含めて決定したみたいに持っていかれることにモヤつくのでしょう。
こっちがみかんだと思っていても、りんごと言うまで詰めてくるときもありますよね。
みかんがいい。嫌でもみかんは柔らかいから持ち運べないよ?でも、りんごは剥くのが手間だから。簡単に剥けるよ?いや、でも包丁洗うの面倒だし、今日はみかんで⋯いや、でもあのりんごは今しか食べられないしどうする?明日買うから今日はみかんで⋯でも明日はないかもよ?でも今はみかんの気分だからみかんで⋯でも⋯
私はこんなことに疲れているのです。もう自分の中で確定してるなら聞いてこないで欲しい。
いや、しかし、最近つくづく思うんですがね、「何かに突出した才能や功績があれば、人としての振る舞いなんて二の次でいい」、こういう考えの人間が、想像以上に多いと思いませんか?
テレビやネットを賑わせるニュースなんか見てても、まさにそれですよね。「あの偉大な業績を残した人が、実はこんな問題を起こしていた」なんて話は、枚挙にいとまがない。著名人に限らず、自分の周りでも「仕事はできるんだけど、私生活や態度がどうも…」って奴はいる。真面目に働いていた人が、一転して悪い意味で有名になるなんて話も、耳にします。
正直、周りを見渡せば、「ボランティアで地域に貢献してる自分偉い」みたいなフィルターを自身にかけて、その実、陰で人の悪口を散々叩いているような人間も見てきて、もう疲弊しきっちゃいましたよ。
どうせ、悪いことをしても許されるための免罪符として、それを頑張ってるんだろうなって人間を見ると、なんとも複雑な気持ちになる。たちが悪いのは、その「免罪符」となる取り組みが、結果的に誰かの役に立っちゃってたりするから、世間的には「功罪相償う」みたいなバランスが取れてしまったりするんですよ。
そうすると、結局「何もやらかさないけど、目立った貢献もできてない自分」よりは、まだマシなのか?なんて、妙な自己嫌悪のループに陥りそうになる。
まあ、それでもね。何もせず、何も言わないのが、この自分のスタンスだ。って割り切って、粛々とやっていくしかない。これが今の自分の精一杯の「ポジティブ」ですよ。最高値が低いってのは、ある意味、楽でいいもんです。高望みしない分、失望も少ない。
「この人たちが大好きで、この感情を表現できるワードが欲しい!」
ちょっと変えてますが⋯こんな感じのたらし言葉をまた言ってましたね。
私、こういうのこそ本能的な媚だとは思うんですよ。最近、某トップが媚びてるだかなんだかで、ネットの一部が騒がしかったんですが、私の知っているあの人のほうが余程のたらしですよ。
私も昔は友人の立場として、同じようなこと言われていたなと思い出します。この人はこうやって、たらしてたらして生きていくんだなと勉強になります。
確かに嬉しいよね。だけど、他の人にも気軽にその言葉を言っていたらその言葉に価値がなくなるんだよね。それを実感出来るというか、言葉のわりには気持ちは薄いんだなと思います。
この感情を表現出来るワードが欲しい。
「10品を繰り返し作りましょう」という中華料理の本を借りてきて読んでる。
レシピ本と言うより読本みたいに文が多くて、普段はレシピの行間に潜んでる所を丁寧に解説されてて、なるほどー!と目から鱗な部分が沢山あった。
どれも割と身近な材料で作れるレシピなので、明日買ってきて本当にそうなるのか作ってみたい衝動に駆られる。
特にキャベツと豚肉の炒め物と、手羽中の煮物。どっちもとても美味しそう。
あと、鶏の唐揚げも。
レシピ本は時々こういうワクワクする気分にしてくれるのに出会うから、かえっていつもは読まないみたいなのを読むようにしてる。
この本の著者、ウー・ウェンさんの本は沢山出てて、どれも本格中華を分かりやすく解説してくれてるところが気に入ってる。
小麦粉で作る麺の本も面白くて、今でも作ってるのもある。さらりと餃子の皮とか作れるようになりたいな。
本質ってどこで完全体になるのかは不明だけど、基本的には変わらない。変わらないというスタンスで接していかないと痛い目に合うのは自分なんだと悟りました。
どんどん新しいものが出てきて便利になっていく世の中だけど、以前よりも、その便利さで嫌な部分を簡単に目の当たりにすることが出来てしまいます。それは簡単に不快にさせられるし、誰かを不快に出来るということです。
嫌なヤツは文明の利器を使って改心はしない。さらに攻撃してくるだけだと肝に命じていきたいですね。
日々の世の中の進化って嬉しいけど怖いものでもあります。
一万円と変換して確定したつもりなのに、糸満円となってしまった。
そもそも、いちまんえん、と変換したら、だいたい一万円か壱万円ししかないような気がするけど、そういうトラップのせいで誤字脱字が多い人みたいな人が多く生産されてしまっている気がします。
今更だけど、新しい一万円札の肖像画の渋沢栄一の史料館に行って参りました。
91歳まで生きて、その年齢までの功績がぼぼ1年ごとに見れるタイプの展示でじっくり見ていたらちょっと疲れました(笑)
40、41、42⋯というように続いていくのでそれが91まであるので⋯
疲れたとは書きましたが年齢を重ねても重ねても動けるってスゴイと感じました。こんなにアレコレやって、渋沢栄一は実は何人もいるんじゃないのか?という疑念すら出てくるほどでしたね。
今はネットで知りたければすぐ知ることは出来るんですが、実際に足を運んで知ろうとすると、知らなかった写真や映像を見れたり肌で感じるものが違うので、昨日は行ってみてよかったです。
年齢を1つ1つ重ねるごとの展示により、1つ1つ重ねた信頼が大きなことに繫がっているのだなと感じられたので、この展示方法、なかなかセンスがあるなと思います。
近代史の中に入るからこそ、映像や写真、細かい年表がわかるのだとも思いますが、それがあったので時代が変化していく様子を受け取れました。
この年齢で結婚して、そして親がシんで⋯とかプライベートの部分も並行してわかると自分と比較したり重ねたりしながら、実際の功績を味わうことが出来るのも良かったなと。
私はこの年齢のとき何も考えてなかった⋯とかそんなんばかりですが⋯この先、何も成し遂げることもないですが、誰かがつくった轍を有り難く踏みしめたいなと思います。
本気になってはいけない。
わかってます。
なりません。
でも、依存させてほしい。
もうほんとに苦しいの。
隣に誰かいてくれないとほんとにさみしい。
依存なのもわかっているし、愛情なんかじゃないこともわかっている。
だから、依存させてほしい。さみしい。