会話に見せかけて、独り言の延長みたいのに付き合ってるだけだから疲れるんだと思います。
これを表現するのは難しいんだけど、言葉を投げかけられてるから返そうとしている、そして口から言葉がまだ出ている状態なのに、また次の投げかけをされるから疲れるんだと。このループだからシンドく感じるのでしょう。そんな感じだから相手の独り言に会話しようとしてしまっているように感じるのかもしれません。
最近のセルフレジの出来事で、自動音声で「お支払い方法をお選びください」って言われてるのに、「あっカードで…」って言っちゃったんですよね。自動音声だから反応しなくていいのに、声に出して反応しちゃったことは恥ずかしさもあるんですけど、自分から出す言葉を無駄にしてしまったという感覚があったんです。
この感覚に似ているんですよね。私に聞こえるように話しているけど、私の言葉は気にしていない。ただ、支払い方法は選んで欲しいという動作は欲しがっているセルフレジと同じように、話を聞いているという動作は欲しがっているのだろうと。
でも、私はセルフレジを使っていない会話のときは会話をしたいんだろうなって思います。だから疲れる。この疲れるという感覚、ちゃんと持ったままで動作だけはするのが私の優しさだったり冷たさだったりするのでしょう。
今日はどピーカンな天気だなと思った。
で、「ど」はすごいって事だなと分かったけど、ふと「ピーカン」って何?って調べてみたら、「缶入りショートピースのパッケージ(略してピー缶)の色」みたいな空と言った人がいて、そこが語源らしいと知った。
一つ賢くなった。めちゃ造語だったんだなー。
そういえばこっちに引っ越してきた30年近く前に、絆創膏のことをみんなバンドエイドって呼んでてちょっとびっくりしました。私は絆創膏は絆創膏って呼んでたので、ちょっと地域差を感じたのを思い出しました。
昔から応援している人が、本当はこういう人だったんだ…と思うことが増えました。いわゆる、イタイ人だったんです。
でも、このイタイ人って思う基準って結局自分に合うか合わないかなんですよね。私が勝手に期待して想像して、その人を作り上げてただけなんですよね。
だとしても、私にとってはイタイ人には違いないのです。そして、きっと私も誰かにとってはイタイ人なんですよね。
だからイタイ部分も認め合って…という綺麗事では終わらせたくないんですけど、イタイ部分に絆創膏を貼ってあげるつもりでなるべく触れないようにしてあげればいいと思うし、もし、私のイタさに気づいたら絆創膏を貼ってあげてくださいと思います。
本当の怪我と違って、内面のイタさは自分で絆創膏は貼れません。イタイ部分には自分では気が付きません。気付くとしても、それは何年か経過してからなのです。
誰かのイタさを見ないように、絆創膏のようなものを常に携帯していることは大事なのかもしれません。
お金がないと思うからお金が無くなるのか…と思ったりする。貧しい心が貧しさを産むのかな?
いやでも、お金がないのは事実だし!
空からお金降ってきて欲しい。
本当はチョコとかクリーム系のアイスが好きだけど、カロリーが低そうな氷菓に分類されるアイスにしてみました。これはこれで良い
自分が言って欲しい、自分が想定している「肯定」だけを受け取りたい人っていますよね。否定はしていないし、むしろ9割肯定しているにも関わらず、その1割も自分色の肯定に染めたいってタイプです。
自分色の肯定10割にさせるまで、ずっと他人に種を撒き散らし続ける…こういうタイプはシンドイかなって思います。
10割肯定されないと気が済まないっていうのも、見てる側はシンドイし、なんだろう?肯定されるのは当たり前じゃないって気持ちがあるから、そこまで肯定されているのにまだほしがるのか?って思っちゃうんですよね。
自分が思っている言葉だけ投げかけられなくても、否定されているとは限らない。むしろ、肯定されてる場合も多いのに欲しがり過ぎる人が鬱陶しいなって思うことはあります。
結局、こういうタイプの人って自分で自分を肯定することに自信がないから他人に満点をつけさせることで、初めて安心出来るのかもしれません。
自分がどう思うか?ってことが1番大事で、他人になんとか肯定させることが自己肯定感が高くなることであるならば、自己肯定感が低いままでも私はいいかなって思うのです。
「女の方が人生イージーだ!酒飲んで話聞いてたり、○○しゃぶったりするだけで金になる!」
「男の方がイージーだ!どんなに不細工でも肉体労働で稼げる!」
…というなんかを見たんだけれども。
ホステスや性産業を「イージー」だと思っている人は、女性の方がイージーだと思って、肉体労働を「イージー」だと思っている人は、男性の方がイージーだと思うのかなーって。
どっちもそれぞれ大変だと思うんだけど。イージーな仕事なんてないぜ?
専業主婦をイージーだと思う人と、「自由も社会とのつながりもない」と思う人とでも違うだろうし。
「そこに尊厳を感じるか否か」はイージーかどうかの分かれ目になりうるのかな?
テレビ局で不祥事が起きると、アナウンサーがお詫びコメントをするんだけどさ。
それを「可哀想」っていうのはちょっと違う気がしてるんだよね。
そら、「責任者出てこーい!!」って人生幸朗(いくらなんでも古すぎるわ)ばりに言いたくなる気持ちはわかるけど。
アナウンサーって「アナウンスをするプロフェッショナル」なのよね。
その局の見解や、取材したものを「正確に伝わるように」するお仕事なのよね。
タレントとキャッキャはしゃぐのがアナウンサーの仕事の本質じゃない。
その局の「顔」として、局の考えを正確に伝えるのが本質。
表情や、声のトーン、言葉の速さ、間の取り方、どこにポイントを置いて話すか。
すごく技術のいること。それをトレーニングしてきて、日々トレーニングしているプロフェッショナル。
普段はバラエティ番組でキャッキャしてても、そういう時にきりっと伝えてる姿はカッコイイ。プロだね~と、うなってしまうよ。
お詫びをアナウンスしている姿をみて「可哀想」というのは、ともすれば、そういう「プロフェッショナルとしての仕事」を軽んじることにもつながってしまうのでは?と考えるこの頃。
「可哀想」と思う人たちの優しい心にもGOOD!するけどね。
自分で指圧棒などで足の裏を押すと気持ちいいけど、やっぱり誰かの指圧の方がいいなぁって思ってしまう。お金払ってほぐし処とかで指圧してもらえばいいんだけどなんか違ったりするから、気心の知れた人にやってもらいたいって思ってしまうのかもね。