自分を大事にできない人は、人を大事にできない。
世の中には、時に、自分をどうしても大事にできない人がいる。自分という存在の抱えた矛盾を解決できなくて、どうしても自分が嫌になる。それはその人の、その人らしい理由からくる尊い理由だ。
自分を大事にすることが、いいことと言われる。
でも私は、人生のどこか、一生とは言わないまでも長い時間のどこかで、自分を嫌いになる時間があることもいいことなんじゃないかと思う。安定した精神状態に自らを置く必要がない時期もあるんじゃないか、と思う。 それは成熟の時、樽の中で熟成をしていく酒のように、ある空間の中に閉じこもり、自分というものを深めていく。深めていけばいくほどに、矛盾という埋まらないかと思われた距離の間に一つの統合されたきらめく輝きが見えるのかもしれない。
やりたいという動機から行動することも、やりたくないという動機から逃避することも、どちらも行動であり、歩みを進めていることに変わりはない。 私たち人という人間は、おそらく、止まるということが難しいんじゃないかと私は思う。 望んで行う行動が、幸せに導いてくれるとは確約されていない。「なんだ、こんなものか」「あれ、案外自分にしっくりこない」「努力してもかなわなかった」そう思って腰を下ろした時、私を幸せにしてくれていたものに気が付いたりする。逃避して逃げついた先が、つねに不幸と直結しているだなんて、多分だれもそこについた自分を振り返るまでわからない。
それと同じように、自分を大事にできない、嫌うような時間を、おのずから選択して人生を生きていても、それはそれでいいんじゃないかと思う。
結果論だと、簡単に言ってしまうつもりは別にないけれど、それでも、逃げることや嫌いことに負い目を感じ、それに方向転換すべきだと思い悩むくらいなら、熟成期間を楽しむのも私はありなんじゃないかと思う。
私たちは生きていて、本来何の責任も義務も背負ってはいない。なのだとしたら、自分を嫌う時間も、物事から逃避する時間も、すべて尊い人生の一点、一時、一滴であるんじゃないかと私は思う。
ただ、その結果を得るためには、生き続ける必要がある。それだけは、私の中で絶対的に自分にも、人にも押し付けたい、呪いであり、祈りだ。どうか、あなたも、私も、どんなに幸せでも、どんなに苦しくても、生き続けていられますように。