「無くなったら次の人のために」
これ、度が過ぎると「やっといてくれなかった!」という感覚が当たり前になっていくことがシンドイんですよね。
次の人のことを考えるのも大事なんですが、自分のことは自分でするって感覚も大事だと思うんで、過剰に次の人のために動くことを私はやめてます。
次の人のことを考えていても、忘れたたった1回で「気が利かない」扱いされるなら、最初から自分のために。時々人のためにするほうが効率が良いのですよ。
漢検の勉強してます。間違えた漢字をノートに書いておきますが、何度も何度も書かれている漢字があるんですよね。
それが難しい漢字というよりは、私にとっては難しいというだけな気がします。
脳のクセで覚えやすいもの、間違いやすいものってあって、それを変えていくのは難しいんだなと実感しているところです。
余計なことをされたのに、ありがとうって言わなきゃならないのが疲れる。ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
今日は筍と新にんにくと新玉ねぎで何か作りたいのですが、どうしよう?と思いながら夕方まで過ごすことになりそうです。
友達でも恋人でも何でも、年の差があるのに「年の差を感じません」って言う人いるけど、年の差があるなら年の差を感じたほうがよくないか?って密かにいつも思っています。
年の差がないからあるから良いというわけでも悪いというわけでもありませんが、離れているからこそのメリットってやっぱりあると思うんですよね。それが自分より上でも下でも同じことだと感じます。
逆に年の差があるのに、年の差を感じないとしたら相手が上の場合は相手が幼稚すぎるか、相手が合わせてくれてるかどちらかです。相手が下の場合も同じで自分が幼稚か相手が合わせてくれているだけのことだと思います。
相手が先に人生を進めているなら、その進めている分に得た何かに触れていたいと思うし、自分のほうが先にな人生を進めているならもう忘れてたような時間を取り戻せるような心地よさみたいなのを感じたいと思うのかなと。
こういったことを含めた上で「年の差を感じない」と言っている人もいるのかもしれませんが、同世代と同じだよ?という意味なら純粋な同世代のほうがいいんじゃないのかなと勝手な気持ちを置いておきます。
今年は唐辛子を育ててみようと思う。
前からちょっと考えてたんだよね。青唐辛子を自家栽培して柚子胡椒作るの。
本当は柚子も育てて青柚子取って作りたいんだけど、柚子はなかなかトゲが怖くてベランダ栽培では手が出せないでいる。
前にたまたまどちらも入手出来て自家製柚子胡椒作ったらパンチのある辛さでとても気に入った。
今年は少なくとも唐辛子は用意出来そうなので、お店で目を光らせて青柚子、もしくは青い柑橘類で作りたい。
いつも絶妙なタイミングで連絡くれる友達に相性の良さを感じています。
人生の経路がお互い途中で変わって同じじゃなくなったのに、何かが同じなんだよね。ありがとうございます。
控え目な雰囲気出してて、本当は出たがり主張したがりっていうのが一番厄介なんですよね。
それに気がついてしまって、ちょっとでも愚痴ると、私が嫉妬してるとか捻くれている扱いされるまでがセットです。
昔、ある人のSNSを見てたことがあるんです。結婚するそうで式や披露宴は親族のみで執り行うということでした。
そこまではいいんですが、準備の話だったり、衣装合わせの画像だったり、最終的には自分の両親の結婚式の写真まで出してきて
まあまあお花畑というか、別に結婚式のときくらいお花畑でも全然いいとは思うんですが、控え目な言葉に添えられた投稿という行為が全く真逆でそれに対して違和感はあったんですよね、
見なきゃいいという正論は置いておいて、某所でこの事をグチったら、「友達の結婚を祝えない可哀想」とか「自分が結婚出来ないからって」とか色々言われて、びっくりしました。
最初に友達ではないんですよね⋯友達の友達くらいではありますが、友達ではない。そして私が結婚出来ないと言われてましたが結婚はしてるので、どこからそういう情報が出て来たのか謎でした。
でも、こういう控え目なアピールに自分の感じたことを言うと、こっち側が悪役になるんだなって感じましたね。それで、言ってもいない情報を付け足して勝手に私がハンカチを噛んでいるような設定にされる。
何も言わなきゃいいのですが、嫌なものを見るとそれはそれで自分の感情が浮き彫りになって変に落ち着くみたいなところがあるのです。それを見たことで感じて出たグチも自分の感情の整理の一部だなって思うのですよ。
お花畑ならお花畑だと自分でも自覚して、フラワーパーク開園してます!見て!くらいなのが清いですね。本当はフラワーパーク開園したかったのに、親族のみで開催しないと控え目にな自分になれないから⋯っていうメッセージに私は感じたのです。
AIを使う、という響きをなんとなくかっこいいものとして捉えていたらしい。
私が。
新しいものを学んで使ってみる、それはとてもいいことで、人から褒められるものだと思っていたのだけど、どうやら違う様子。職場の新卒にまだほど近い人にAIで記事作成や言葉の類似などを尋ねたりすることを話したところ、何やら呆れた様子だった。
どうせやるなら遊び半分、学び半分、そして実務に活かせるなら一番楽しいのに。
でも若い子がそういう反応をするのであれば、もう口が裂けてもAIを使うなんて言わない方がいいのかもしれない。しょんぼりした。かっこいい、偉い、と思ってもらえると思ってた私がいたことも浮き彫りになり、余計に恥ずかしくなった。でも若い子達の感性に従ったほうが賢明だ。
でも悲しいな。
どうしてそれが呆れられたのか、まったくわからない。
すでに老害の足音がしている気がしてならない。
親密な個人的なラインのやり取りって当事者以外は涼しい目線で見ちゃうよね。まだラインなんぞなかった時代に涼しい目線を投げかけたことがあったから未だに思い出すよ。
ちゃんと保護メール扱いにしてて、大切にしてんだなーって思ったな。