最近ピアノ上手い人最強決戦みたいな番組見た。
昔ピアノ習ってたけど数年で辞めて、今は全く弾けないので、ピアノに対する並々ならぬ憧れみたいなのがあったりする。
辞めたのは自分の意思なんだけど、当時私はピアノの練習が嫌いだった。
今考えると、ピアノのレッスン日が日曜日で、みんなが外で遊んでるのが気になってレッスンに集中出来ずソワソワした上に、先生に怒られたから(厳しい先生であまり褒めてもらえなかった)とレッスン後も罰として遊ばせてもらえなかった→ピアノやだ→練習したくない(この時点でも親にも怒られ暴力もあった)→先生に怒られる(更に親に怒られ遊ばせてもらえない)…
という、負のエンドレスループにハマってた気がする。
最初はワクワクしてたピアノなのにラスト数年はもう地獄って思ってたなーと思い出した。
あの辛かった時期超えてたら、今そこそこ弾けてたのかな?と思わなくもない。でもあの時はもう精神的にギリギリだったんだよね…
ちょっと親介入しすぎだったのでは?と今なら思う。
大きくなってピアノやらなきゃならなくなって仕方なくやったのに、その時の練習は楽しかったんだよね。
ピアノ弾くの楽しかった。そしてあの怖かった先生にもう一度短期で教えてもらったのがとても良かった。だからこその残念さと悲しさなのかもしれない。
先日、あまり期待せずに観た映画が予想外に良かった。鑑賞後、タイトルを検索してレビューや解説を見たところ、「昔は皆で食卓を囲み、皆で食べると美味しいを体現していた」という内容の長文レビューがあった。
しかし、その視点に違和感を覚えた。映画は、その国や時代の抱えるもどかしさや、性別によって異なる運命を現代と照らし合わせて解釈するような雰囲気だった。食卓のシーンに焦点を当てるのは、映画の意図とは異なるように感じた。
レビューを書いた人はフードなんとかという肩書を持っていたため、食のことにフォーカスして何か言いたかったのだろう。それにしても、「皆で食べると美味しい」という言葉を安易に使う人に、私は共感できない。
私自身はその言葉を信じていないので、それを言う人とは根本的に分かり合えないと思う。それでも、皆で食べると美味しいとすぐに言える方が幸せなのかもしれないし、生きやすいのかもしれない。
そうした羨ましさや苛立ちを含めつつ、映画自体は良かった。東南アジア系の映画をまた観たいと思った。
昔、大学生の時に大量の課題が出た。普段の勉強不足が祟って、参考文献をかき集めて量をこなすのがやっと。中身はスカスカだったけど、単位は取れた。
時は流れて数年前の家族関係のボランティアで物作りをしていたときに感じたこと。つい色々と付け足してしまう人がいた。アレもコレもと。出来ないなら出来る人に頼んでやってもらおうとか⋯こんな感じでやる事はどんどん増えるという感じ。シンプルに誰でも出来るようにと思っていたのに。結果的に見た目だけは華やかなものが出来上がったのだが⋯
量より質とは言うけれど、量があるとそれなりに見えてしまうのも事実。だからこそ人間は何かを減らすことをやめられないのかもしれない。
忙しいと嫌だと思う部分もありますが、それで気が紛れることもあるので忙しいことは良い部分もあるのかもしれないです。
父が亡くなる夢を見たけど、私は夢の中でその出来事を面倒くさがっていました。
夢だから書類1枚でそれが知らされて辻褄も合わないのだけど、各方面に連絡しなきゃ⋯みたい事務的な感情かあり、事務的な連絡ならまだいいのだけど、知人にそれを知らせるときに悲しそうなふりをしないといけないのが1番シンドいよな⋯ってところで夢は終わりました。
この感覚はリアルだなと感じていて、実際の状況でも私は同じことを思っているだろうなと感じてしまいました。
でもそれが親子関係の答えで、父が私に渡してきたものなんだろうと思います。だから罪悪感なんてないですね。ただ生きている人に冷たい人とレッテルを貼られるんだろうな、何も知らないのにとも感じました。冷たい人はシンでるそっちの人です。と心の中で返すまで予想してしまいました。
八宝菜を作ろうとしてますが白菜が最終的にはシナシナになって嵩が減るのに最初はふんわりしてるからフライパンに入りづらい
思えばコネがない人生でした。それなのにここまで生きてきたのは私スゴイんじゃないかと思います。これからもきっとコネがない人生は続いていくでしょう。
小学生の時、廊下に立たされたことがある。昨日テレビでコミカルに廊下に立たされた事を放送していたので思い出してしまった。もう30年以上前の事ではある。私は小学校低学年ではあったが廊下に立たされたことはよく覚えている。理由はよくわからないのだ⋯理由がないのに立たされたからきっと今でも覚えているのだと思う。
男子児童2名が突然私に突っかかってきて、怒りよりも謎の方が先に来ている段階で「先生に言ってやるからな」と1人の児童に言われた。同じ教室内にいた先生に私の架空の悪事が報告されて、すぐに先生から「廊下に立ってろ」と叱責され、私が有無を言うこともないスピード感で廊下に立たされていた。
この架空の悪事はいったい何だったんだろう?それは覚えていないけど、その悪事を私はとにかくやっていなくて、やっていません!という言葉すら発せることを許されなかったというのは強い記憶として今だに私にこびりついているのだ。
この出来事を私は両親に言ってはいない。きっと家でも同じように廊下に立たされるようなことが起こるのがわかっていたからだろう。
何故か私を悪くしておけば事がスムーズに運ぶことが昔からよくあった。家庭でもそうだから学校でも私を悪くしておけば場が締まる。私の役目は見せしめなのだ。ただ、私が何もしていない、私に原因がなくとも、見せしめにされていた。自分が納得の出来ない見せしめに生まれてからずっと取りつかれているような気がする。でも、もうそれはとりあえずは終わり。架空の悪事は引き受けないしに空想の見せしめも拒否する。
そういう空気か流れているところはすぐに離れることが出来るのが大人になって良かったことかもしれない。空気は循環しているのだ。
生まれて初めて親に対して「人として無理」って言った。今まではずっと傷ついてきて、でもそれに対する言葉を見つけられずただ無言で怒ることしかできなかった。
変わってほしいとかやめてほしいとか一切求めない、けどあなたのこういうところは無理です、って。
別に何も思ってもらわなくても構わない。自分が自分の気持ちを言えたってそれだけですごく清々しい気持ち。
周りは絶賛してるけど自分からするとビミョーな作品の宣伝メールが届いた時の何ともいえない感情… ていうか何で届いたんだろ メルマガ登録してるわけではないんよな サイト内で人気上位だからってこと? そしてこんなことに気を取られてないで好きな作品の諸々チェックせんと