サイゼでお茶しようかと思ったら2時過ぎなのに混んでて、なので普通にタリーズにいる。いつも混んでるところが混んでないとか不思議です。
ある小説を読んで、手にはいっていない、意思を確認し合っていない関係のほうが相手が自分の心に一生残るし、自分も思う存分相手を心の中に残しておけるのかもね〜なんて思いました。
自分の中に保存しておく誰かはともかく、私は誰かの記憶に残っていることなんてあるのかな?なんて考えたら、おそらくないだろうなと。
何かしらのアクションや手順を踏んだ関係なら、ただの記憶というか記録というか、ただその時代に登場する人物としては残っているだろうけど、一定の温度を保った記憶の保持のされ方はしていないだろうなと。
記憶の温度は誰にも邪魔されず自分の適温で誰かを保って時々取り出すみたいなのがいいんだろうなとも思うのです。
私、父方の親戚、特に伯母やイトコたちが苦手なんです。親戚って、仲が良いか、ほとんど関わりがないかのどちらかだと思うんですが、私は嫌悪感を抱いています。
その大きな理由は、関わりたくないのに無理に関わらされた経験があるから。そして、それを防いでくれなかった父にも、当然責任はあると思っています。
親戚という言葉を聞くだけで苦痛を感じるほど、彼らとは他人以下のような関係性です。それでも、今では関わるかどうかを自分で決められるようになったことが、せめてもの救いです。
表面に出されたものをそのまま受け取る訓練をしないと幸せになれないよね。それは私もそうだけど。想像力も大事だけど、それが曲がった想像力ならいらないよね。
「許す、赦す」ってなんだろうねと?と定期的に考えてはいます。
ちょっとのミスとか些細な事に対してではなく、自分の中でどうしても沸騰してしまうような事を言われたりされたりした場合についての赦すについてですね。
「ごめんなさい」と謝られれば、それは許さなくてはならないのか?と問うと、謝られないとそれはそれで嫌だけど、謝られてもなかったことには出来ないかなというのが私の気持ちかなと。
謝罪をしたら「なかったこと」にしたい気持ちの人がけっこういるんだなと。なんでなかったことになるのか?なかったことにするもしないも謝罪をしたほうが決めるのではなく、されたほうじゃないの?と。そういうタイプの謝罪は謝罪風味なだけで謝罪ではないなって思っています。
時間が経過すれば「なかったこと」にしてしまうタイプ。これも微妙だなと。いわゆる、時効ってヤツです。時間が経っているのにいつまでも心にそれを留めておくほうが悪いと。そういうオーラを投げかけてきて「なかったこと」に持っていってしまいます。
最後に他のことで穴埋めして「なかったこと」にするタイプ。色々してくれることで、なかったことにしてもらった気になってるんですよね。私としてはそれはそれ、これはこれという考え方なので、何か他のことを頑張ってくれているからといって「なかったこと」にはならないんですよね。
私は心が狭いと思われようがなんだろうが、自分の怒りは自分が納得するまで怒りとして持っていたいんだなと感じます。怒りの炎を燃やすのも消すのも自分が決めること。ただ、どっちにしろ燃やされたほうが忙しくしないといけないことにとても疲労感を覚える日々です。生きれば生きるほど昔の炎と新しい炎が混ざって鎮火することがないように思えてしまうのです。だけど消火は自分でしないと納得出来ないし、難しい考え方をしてるなと自分でも思います。
食洗機に洗剤を入れてたつもりがコーヒー豆の粉末を入れしまって、自分の脳が大変心配になっている朝です。
「すてきにハンドメイド」という、手作り全般を取り扱う番組がNHKにあるんだけど、今週はフリルのかぎ針編みポーチだった。
すごく可愛い作品で、そのうち自分も作ろうと録画して見てたんだけど、ふとした違和感があった。
その正体は…今日の番組、女性が1人もいない。
司会も講師もゲストも全員男性。フリルのポーチ囲んで。
誰かが男性ってのは今までもあったし、司会も講師もゲストも男性の日もあったけど、それでも大体女性もダブルゲストみたいに入ってたんだよね。
別に男性だけだからどうのって言うつもりもないんだけど、何なら昭和の頃からこの番組(番組名改正前からと言う意味で)見てたから、そうか、これが令和の姿なのかと妙な感慨があった。
これ以前にもそんな日あったかもだけど、気付いたのが今日だったので、今日の驚きってことで。
そしてこの可愛いフリルに数学的要素があるなんてね…色々不思議な気分になった。
このまま一緒に暮らしていけるのだろうか。
私への愛情がゼロではないが、
私の必要性は感じない。
とてもつらい。
最近の迷惑メールはつまらん。アマゾンとかヤマトとかその他カード決済のなりすましばかりで⋯
天皇になる権利とかのぶっとんだのが良かった
昔、私は待ち合わせの約束をしていた。相手は親しい友人だった。約束の日が近づくと、私はいつもと同じように「今、家出したよ」というメールを送った。それは私なりのユーモアのつもりだった。家を出ることを大袈裟に「家出」と表現することで、相手に軽い笑いを届けたかったのだ。
もっとも、このユーモアが通じるのは、私とある程度の親交がある人物に限られていた。私の意図を理解してくれる人だけが、この言葉の裏にある親愛の情を感じ取ってくれた。しかし、そうでない人もいた。以前、ある友人に同じように「家出」という言葉を使ったところ、彼女は本当に私が家を出てしまったのだと勘違いして、酷く心配してしまった。
その時、私は少し寂しい気持ちになった。ああ、私のユーモアはまだ未熟なのだと。言葉は、相手に伝えるための道具だ。自分の意図とは違う意味で受け取られてしまっては、それはただの独りよがりだ。私は自分の未熟さを恥じると同時に、言葉の難しさを改めて感じた。
それ以来、私は「家出」という言葉を使うのをやめた。あくまでもコミュニケーションの手段として誰にでも通じる言葉を使うことは大切だ。しかし、時には砕けた表現の中に、相手への信頼や親しみを込めることもできる。言葉とは、実に複雑なものだ。
しかし、今日、私は久しぶりに「家出」という言葉を使ってしまった。それは、何十年ぶりかのことだった。もっとも、相手は私のことをよく知っている人だったから、きっと笑って許してくれるだろう。それでも、私は少しドキドキした。
人間は、なかなか変われないものだ。それは良いことなのか、悪いことなのか、私にはわからない。ただ、昔と変わらずに「家出」という言葉を使える環境が、今もなお存在していることに、私は少しだけ安心した。