文句を言ってるわけじゃないと言いながら、結果的にそれ文句言ってますよね?っていうのはありますね。
コレは不満だけど、みんなのことを考えたらしょうがないって言い方をすれば文句に聞こえないんだなって勉強にはなりました。
みんなのことを考えればしょうがないって本当に思うのなら、不満な部分も言わなければいいのにそこは言うんだねと。
結局は不満に感じてて文句言いたいくせに、不平不満を言っている人になりたくなくて、自分は事情もよく分かっているという味付けをしてくるんですよね。
その味付け、あの人そのものが嫌いにならなかったら私も気付かなかったとは思います。その味付けの積み重ねで嫌いになったというのはあると思いますが。
1回隠し味に気がつくと、あの人は隠し味だらけで人生を謳歌していて、文句も言ってるし人に我慢させてるし、だけどそれは隠し味だからすぐには気づかれないのです。
嫌いな人から学ぶのは解せない部分もあるけど、隠し味さえあれば穏やかだけど傲慢でいられるんだなと思うのです。
N。です。最近、喋る、よく目が合う、笑顔になるっていうことがよく多い。その相手はT君。結構モテているけど、本人は、あんまり興味なさそう。少し好き。向こう笑ってるし、、っていうかよく目が合う!そんで、ここが本題で、帰る前にその人がほかの男子と話しよったんよ。少しだけ内容聞いたんやけど、、T君「っえ、モブちゃうで。Nやで。」モブ2「ばらしていい?」T君「別にばれてもええで。」これって恋バナだよね。。。好きなのかな。。。ワンチャン、確定演出やん。あーーーッッ“”って感じ。次の日もよく目が合った。話した。うわーこれは、恋に落ちたかも。でも、私は絶対にみんなにばれないようにしないと。私のこと好きっていう男子いるし、T君のこと好きっていうこもいるから、、これからが楽しみっww
カリッ、サクッ、ジュワッの唐揚げを求めて食べたのに、
ナゲットみたいに柔らかくて淡白な味だった。
ナゲットも好きだけど、今求めていたのは唐揚げなんだ。
ああ、私が求めていた唐揚げはどこへ行ったんだ?
子どもが幼稚園時代は子どもとの関わりというよりは、周りとの関わりで疲れることが多かったですね。
私自身、幼稚園児の保護者として生きることが向いていなかったというのは大いにありますけどね。そもそも幼稚園に行くのは子どもなのに親が向いていないって感じる環境が存在するのほ事実ですけどね⋯
この時期って私みたいな保護者はシンドい時期だったと思います。お楽しみ会みたいのがあって、楽しむ保護者のテンションを無理矢理湧き出していたように思います。ああいう独自の雰囲気が好きな人はいいんでしょうけど、私みたいな人は逃げ場がないんですよね。
もう数年前の出来事ですが、幼稚園の保護者として頑張った私を時々自分で褒めてます。自分が主役じゃないのに自分が疲弊する環境ってありそうでないですよね。
人間関係は何年経っても苦手ですが、自分の主軸で自分が嫌だからどうする?が出来たのに、自分はこの場やイベントは嫌だけど、“子どものため“だからどうする?と思うと、選択肢が激減してしまってとにかく周りに合わせるしかないことが苦しかったのです。
うちの母は私が産まれたことをきっかけに
生協にはいった(coop、パルシステム)
毎週一回届く。
だからもう40年近くやってる
米は契約で4週間に一度5キロの米が届くし
肉も卵も牛乳も毎週必ず届くようにしてる。定期購入ですね
少々高いなと思っても一年中その値段だから、上がり下がりがない
スーパーで買えば安いけどずっと安くはないでしょ
安定提供なんだよね
うちの弟夫婦も生協やってるし、ラデッシ⚫️やオイシック⚫️やってみたけど生協がいいと落ち着いたみたい
だから去年の夏からの令和の米騒動には、巻き込まれてない
他者との距離が近くなると嫌な部分が見えてくるなー、と何度か義理の実家に訪れて思いました。実家が鬱陶しくて出たけど、実家の暖かさとはこういうことか…と身に染みました。どちらにせよ適度な距離が一番ですね。
最近ピアノ上手い人最強決戦みたいな番組見た。
昔ピアノ習ってたけど数年で辞めて、今は全く弾けないので、ピアノに対する並々ならぬ憧れみたいなのがあったりする。
辞めたのは自分の意思なんだけど、当時私はピアノの練習が嫌いだった。
今考えると、ピアノのレッスン日が日曜日で、みんなが外で遊んでるのが気になってレッスンに集中出来ずソワソワした上に、先生に怒られたから(厳しい先生であまり褒めてもらえなかった)とレッスン後も罰として遊ばせてもらえなかった→ピアノやだ→練習したくない(この時点でも親にも怒られ暴力もあった)→先生に怒られる(更に親に怒られ遊ばせてもらえない)…
という、負のエンドレスループにハマってた気がする。
最初はワクワクしてたピアノなのにラスト数年はもう地獄って思ってたなーと思い出した。
あの辛かった時期超えてたら、今そこそこ弾けてたのかな?と思わなくもない。でもあの時はもう精神的にギリギリだったんだよね…
ちょっと親介入しすぎだったのでは?と今なら思う。
大きくなってピアノやらなきゃならなくなって仕方なくやったのに、その時の練習は楽しかったんだよね。
ピアノ弾くの楽しかった。そしてあの怖かった先生にもう一度短期で教えてもらったのがとても良かった。だからこその残念さと悲しさなのかもしれない。
先日、あまり期待せずに観た映画が予想外に良かった。鑑賞後、タイトルを検索してレビューや解説を見たところ、「昔は皆で食卓を囲み、皆で食べると美味しいを体現していた」という内容の長文レビューがあった。
しかし、その視点に違和感を覚えた。映画は、その国や時代の抱えるもどかしさや、性別によって異なる運命を現代と照らし合わせて解釈するような雰囲気だった。食卓のシーンに焦点を当てるのは、映画の意図とは異なるように感じた。
レビューを書いた人はフードなんとかという肩書を持っていたため、食のことにフォーカスして何か言いたかったのだろう。それにしても、「皆で食べると美味しい」という言葉を安易に使う人に、私は共感できない。
私自身はその言葉を信じていないので、それを言う人とは根本的に分かり合えないと思う。それでも、皆で食べると美味しいとすぐに言える方が幸せなのかもしれないし、生きやすいのかもしれない。
そうした羨ましさや苛立ちを含めつつ、映画自体は良かった。東南アジア系の映画をまた観たいと思った。
昔、大学生の時に大量の課題が出た。普段の勉強不足が祟って、参考文献をかき集めて量をこなすのがやっと。中身はスカスカだったけど、単位は取れた。
時は流れて数年前の家族関係のボランティアで物作りをしていたときに感じたこと。つい色々と付け足してしまう人がいた。アレもコレもと。出来ないなら出来る人に頼んでやってもらおうとか⋯こんな感じでやる事はどんどん増えるという感じ。シンプルに誰でも出来るようにと思っていたのに。結果的に見た目だけは華やかなものが出来上がったのだが⋯
量より質とは言うけれど、量があるとそれなりに見えてしまうのも事実。だからこそ人間は何かを減らすことをやめられないのかもしれない。
忙しいと嫌だと思う部分もありますが、それで気が紛れることもあるので忙しいことは良い部分もあるのかもしれないです。