結局はさ、悪口を聞くのが嫌なんじゃなくて、自分に合わない悪口は聞きたくないだけなんですよ。だから、それを“悪口"聞きたくないという言葉に変換して逃げているだけです。
ネット上の戯言で、批判したいとか否定したいとかではなくて、たまたま自分の言いたいことが前の人の話と違う意見だったというときに、批判しているわけではないし否定もしたわけでもないけど、微妙な感じというか、被せてしまったみたいな居心地の悪さを自分にも感じてしまうし、相手にも感じさせてしまうだろうから、それは気をつけてます。
今日も自分の投稿がたまたま前の人から着想を得たみたいな感じになってしまうよな?と思って、話題変更などをしてみました。
例えば、「友達に教えてもらったりんご美味しい」という話題が前にあったとしたら、「自分がりんごが嫌い」という話題は避けます。それは誰でもそうだと思うのですが、「友達に教えてもらって何かを食べることはない」という話題も避けたほうがいいんだろうなということです。今日の私の話題はこの例えで言うなら後者の「友達に教えてもらって〜何かを食べことはない」の部分だったのです。
まったく違う話題だし、前の相手の話に誘発されたわけでもなく、他のところから持ってきた話だけど、変な感じにさせたくないから引っ込める。それが私の生き方なんです。なんだかんだで偉いなとも思うのです。自分。
◯◯にするか✕✕にするか悩んでるみたいな話に「普通に◯◯で良くない?」と返すようなパターン。
本人は特に何のつもりもなく癖とかで「普通に」「良くない?」って言葉を使ってるんだろうけど、自分が気にしいなせいかそう言われるとちょっと押しが強い感じでモヤモヤする。
◯◯は言った本人における「普通」でしかなくてそんなに普遍的ではなかったりするし、「すれば良くない?」という言葉から「自明の事に悩むのはおかしい」という主張を嗅ぎ取ってしまう。自分だったら「◯◯で良いんじゃない?(以下理由)」みたいな言い方をすると思う。
こんな言葉一つに悩むからいわゆる生き辛い状態になってるのは分かるんだけど、癖でこういう言葉が出てくる人の迷わなさというか我の強さにほんのり反感を憶えるような羨ましいような複雑な気持ち。
食べ過ぎると具合悪くなるから気をつけながら食べたけど、美味しかったです。
昔は食べ過ぎて具合悪くなるってなかったのに。
今日は頑張ろうかなと思ったけれど、結局、頑張る必要もないかという気持ちに行き着いた。特に「これをやりたい!」という意欲も湧かない。
部屋の掃除だって、やるべきことだと言われればそうかもしれない。でも、やらなきゃいけないことが必ずしも自分にとって大切だとは限らないから、優先順位が上がってこないのだ。世間の常識と自分の常識は違う。本当はどうでもいい、適当でいい、なくてもいい、やらなくてもいい。思い返せば、いつもそんなことばかり考えている気がする。
毎日、当たり前に課せられていることが自分にとって楽しいことだったら、人生なんて楽勝なのに。私の考え方が世間の常識になれば、みんなもっと生きやすくなるのに、なんて傲慢なことも考えてしまう。でも、余計なものを足さないからこそ、本当に良いと思うのだ。
色々なものを足しすぎた世の中から、色々なものを引いていく考え方。足し算は、引き算がある程度終わってから、必要であればやればいい。その場合、誰かを巻き込むのはやめよう。いつもそう思っている。
散らかってるものを捨てるのではなくて、しまい込んで使わないものを捨てるという考え方、いいね!と思いました。
そうなんです。使うからこそ、その辺に置いてあるのです。散らかしているという認識は私は実はない⋯
しまい込んでいるものをどうにか捨てることがまず大事。
その後、なんて書いてあったか忘れたけど、久しぶりに片付けの考え方でしっくりはきました。
昨日はやる気がなかったので冷凍餃子にしました。
餃子って野菜も肉も摂れるから栄養バランスいいと思っている。
今から重い腰を上げて、とある過去問をやりたいと思います。
前は勉強したのに点数下がっててテンションも下りましたが、どうにかテンション上げたいです。
「底辺だと認識出来ているのはまだ知能がある」
こんな何気ない書き込みを見たのだけど、ああ、これはそうだよねと頭に浮かんできたのは私の母。
自分が底辺という認識がないから、子どもにお金をかけるのを渋るんですよ。
自分がなんとかやってきたという意識というか、ずっと下にいるからそれが普通だと思っていて、他の世界があることに気がついてないんですよね。自分だけならそれも別に悪くないんですけど、子どもは他の世界を見たがったときに、自分の持っている世界を否定された気になるのか?他の世界に行く必要がないのにお金をかけて行く必要がないのに行こうとしてることをバカにしている感じ。
特に男はいいけど、女は私と同じような道を歩くのが正解って思っているので、娘の私はそれを肌で感じまくって苦労したなと。他のきょうだいは男なので、母に女はこうするべきみたいな圧をかけられなかったから、サバサバ母さんのイメージを持ったままみたいだから、それはそれで良かったねとは思います。
母は亡くなっているんですが、こういう風に今も私の中では生きているんですよね。でも物理的に会うことがないから母の世界から抜け出したのは私にとってはプラスです。
これを言うと、しんだのが良かったのか?と単純に思われて面倒なので言えませんが、そういう単純なことではないけど、やっぱり自分に染み付いていた何かが取れてきたのを日々感じるのですよ。この過程が辛くて、純粋にいなくなったことを哀しんでいたかったのにさせてもらえない。それが私の育った環境だからです。
性格は遺伝50%、環境50%なんて、どこかで聞いたことがあります。だから環境でどうにでもなるって言われても、結局はその遺伝の原因である両親の元で育つという環境があるなら、実質遺伝100%なんですよね。なんでみんなそれに気が付かないで前向きに捉えようとしてるの?とてもとても疑問です。物理的に環境が変わるのは大人になってからですから。その時点てまだ変わるチャンスがあるのかもしれないけど、最低でも20年近くハンデあるんですよ。このハンデを前向きに直向きに受け止めるほど私は強くないんです。だって実質、遺伝100%の恐ろしい自分だから。そんなこんなで自分を好きになることは親を認めることにもなるから純な気持ちで自身を受け入れることは出来ないししたくない。
そんな恐ろしいこと出来ない。ただ自分の生み出したものはちゃんと責任を持ちます。そこが私と親の違うところと思って生きるしかないのです。
昨日作った残り物をスンドゥブにうどんを入れて食べたら、けっこう量が多くてお菓子食べなくとも良さそうだからカロリーカットになるのかならないのか微妙