苦しい練習でも泣かないだろうアスリートが努力が実らず、挫折と悔しさで泣く時は、どんだけ努力してきたんだろって思ってしまう。世界に挑むのは相当恐いだろう、それを自分の感情を抑え込めるだけの普通じゃ想像できないくらい、尋常じゃない、努力が必要なんだろう。確信はなくても、もしかしたら手が届くかもしれないって言う自信を自分の中で高く高く積み上げていく。もし、それを掴めなかったら、その高さから真っ逆さまに落ちて挫折の地面に叩きつけられるのだから、心が制御できなくなるくらいに、心が大怪我するのだろう。普通の感覚の世界じゃないんだろうな。どう転んでも見てる側は暖かく見守って迎える事しかできないなと。
全身タイツに見えるウェアを着て剣を刺したりするあのスポーツ、実はちょっとやってたことあったんですが、すぐに辞めてしまった。そのスポーツが嫌というよりは熱意が違いすぎてついていけなくて。
私はお遊び感覚でやりたかったし、それでもいいってことで始めたのにいざとなったらそうはいかないかった。
お遊び感覚は必ず悪扱いされちゃうのがシンドイ世の中。そういう気持ちで取り組むことがあってもいいのになーって思ってます。
表の投稿は時計のことばかり書いてた(笑)
表面に出していいものって限られてるからね〜無難な話題だけど嘘のない感情で且つ同じような毎日の中から話題をってなると、時計の話が書きやすいんだろうな。
その時計とほぼ同じくらいの年月の付き合いのある数少ない友人から久しぶりに連絡があったな。近況報告で体調不良のこととか、年齢的に色々そういう話題ではあったけれど…
私にとっては連絡をくれたことが嬉しかった。現在って一方的に多数に発信する方法がメインの気がしちゃってて。このニッシも当てはまるといえば当てはまるけれども。
緊急ではないけど、私だけのために私信を送ってくれるって貴重だなって思ったんだよね。
言いたいことを言いたい人だけに伝えるって簡単なようで難しいことになったのが現代。伝えたくない相手には真意が曲がって伝わるのも現代。
こうやって裏に籠もって投稿するようになったのも、伝えたくない相手に真意が曲がって伝わってしまったのが原因なんだよね。でも、わかってくれる人には伝えたいって思うからこんな形を取っているのでしょう。
こんな時代だからこそ、届いて欲しい場所だけになるべく届く工夫が必要なのかもしれません。それが届いたり届けられたりしたら昔よりも数倍嬉しく感じられるのも事実なのかも?
今の家に越してきて、BS放送が見れなくなった。
正確には特に必要ないかと思って契約しなかった。ケーブルテレビだったので。
サブスクいくつか使ってるしじっとテレビ見る時間も少ないので。
その影響で、オリンピックがあんまり見れなくて残念。
TVerでダイジェストとかしか見てないからサクッと結果が見れるけど、気になった競技をダラダラ見る楽しみがないのが寂しい。
私、割とBSでオリンピック見てたんだなと見れなくなって気づいた。
日本はいまだに古い侍像を持っているのかな。柔道やってると武闘家なのかな。スポーツマンなのかもしれないのに。この時代に心も身体もずっと戦いの中に浸かっている侍のような人は表舞台にはいないだろうに。
五輪の選手は、まず自分の為に競技するべきだ。もちろん、今まで応援してくれてきた人達や中継を通して応援し始めた人もいる。でも、その道で頑張って努力して進んで行こうと決めたのは、あなた自身なのだから、あなたの人生なのだから、思いっきり自分の人生として自分のためにやるべきだ。みんな、そんな自分の人生と戦ってるあなたの存在を見て、それを応援している。国の為とかファンの為とかで、上手くいったら乗っかってダメだったら一緒に悔しがる訳でもなく文句を言ってるような、無責任でズレた考え方の人間の意見なんてほっておけ。
20年付き合ってる時計、昨日修理を終えて戻ってきました。
電池がなくなって交換に行っただけでしたが、時計屋のプロが見ると時計のガラスがいつ剥がれてもおかしくないということでした。
頼まれていないことを勧めるのって難しいけど、電池交換以外もしてもらえて私は嬉しかったです。4000円で直りました。
昨日、ちょっと嫌なことがあって…簡単に書くと、前に歩いていた人が入口で日傘を丁寧にたたみ出し通路を塞ぐんですよね。その隙間をなんとか通ろうとしたら前から突進してきた人に怒鳴られたという顛末なんですけど…
これって、そもそも前にいた人が止まらなければ起こらなかったし、前の人が突進レベルで歩いてこなければ起こらなかったと…私は通れない…って思っていたのも前からも人が頻繁に来るからでもあったんですよね。だから確認していなかったということはないと言い切っちゃっていいかなと思います。通れると踏んで通ったのです。
突進してきた人も私が横から出てくると思わなかったから、よく見ないで突進速度で歩いていたんでしょうね…でも、後ろが詰まっちゃってるし、前の人が止まってるから私が進まないと流れない感じだったから。
この出来事があって思い出したのが、下のきょうだい2人が喧嘩をしていたのに、何故か私が1番父から怒られたということがすぐ記憶の先頭に出てきて。きょうだい2人が喧嘩をして父に怒られているのを上の子として仲裁しなかったということで怒鳴られたのです。結果的に1番私が怒られた出来事でした。
理不尽なことや、納得出来ない理由で怒られたりすると、真っ先思い出すのがこの出来事なんですよね。理不尽な事って生きていれば何個もあると思うんですけど、理不尽な事が起こるたびこの出来事が頭を支配してツライです。
父は何か起こると絶対に私を怒鳴っていました。それが理不尽なことばかりで怒られたことに納得がいっていないことばかりだったんですよね。だから、もしかしたら私に怒っておけば解決するっていうオーラみたいのがあるのかな?なんて考えてしまうのです。
子どものときに、こんな怒られ方をしていなければ昨日の出来事も、ムカついたりはしたと思うけど、もっと明るいムカつき方というと表現が変ですけど、サラッと噴火して切り替えられていたんだろうなって思うのです。
いつまでネチネチ…外側からみたら私はそう見えるかもしれないけど、ネチネチ噴火する理由ってマグマのように溜まっているものなんだなと不惑まで生きてきたからこそ思うのです。
自分を大事にできない人は、人を大事にできない。
世の中には、時に、自分をどうしても大事にできない人がいる。自分という存在の抱えた矛盾を解決できなくて、どうしても自分が嫌になる。それはその人の、その人らしい理由からくる尊い理由だ。
自分を大事にすることが、いいことと言われる。
でも私は、人生のどこか、一生とは言わないまでも長い時間のどこかで、自分を嫌いになる時間があることもいいことなんじゃないかと思う。安定した精神状態に自らを置く必要がない時期もあるんじゃないか、と思う。 それは成熟の時、樽の中で熟成をしていく酒のように、ある空間の中に閉じこもり、自分というものを深めていく。深めていけばいくほどに、矛盾という埋まらないかと思われた距離の間に一つの統合されたきらめく輝きが見えるのかもしれない。
やりたいという動機から行動することも、やりたくないという動機から逃避することも、どちらも行動であり、歩みを進めていることに変わりはない。 私たち人という人間は、おそらく、止まるということが難しいんじゃないかと私は思う。 望んで行う行動が、幸せに導いてくれるとは確約されていない。「なんだ、こんなものか」「あれ、案外自分にしっくりこない」「努力してもかなわなかった」そう思って腰を下ろした時、私を幸せにしてくれていたものに気が付いたりする。逃避して逃げついた先が、つねに不幸と直結しているだなんて、多分だれもそこについた自分を振り返るまでわからない。
それと同じように、自分を大事にできない、嫌うような時間を、おのずから選択して人生を生きていても、それはそれでいいんじゃないかと思う。
結果論だと、簡単に言ってしまうつもりは別にないけれど、それでも、逃げることや嫌いことに負い目を感じ、それに方向転換すべきだと思い悩むくらいなら、熟成期間を楽しむのも私はありなんじゃないかと思う。
私たちは生きていて、本来何の責任も義務も背負ってはいない。なのだとしたら、自分を嫌う時間も、物事から逃避する時間も、すべて尊い人生の一点、一時、一滴であるんじゃないかと私は思う。
ただ、その結果を得るためには、生き続ける必要がある。それだけは、私の中で絶対的に自分にも、人にも押し付けたい、呪いであり、祈りだ。どうか、あなたも、私も、どんなに幸せでも、どんなに苦しくても、生き続けていられますように。
GoogleのAIのCMがテレビで流れてる。
みんなが色々な事をみんなAIに頼んで頼って解決してるCM。
でも、あれ全部迷いながら考えながら、みんなで話し合って決めて、それが良くても悪くても、みんなでやった事が良い思い出になる人生の場面ばかり。
ひとりでますます解決できるようになったら、ますます、ひとりでいい世界、個人主義が絶対的になりそう。
AIは便利だけど、使い所間違えて勧めてくる事多いな。
もっとほんとに必要な場所が沢山あるけど、一般人は気づきづらいとこばかりで、目立たなくて沢山の人に常に使われる訳でないから、儲からないから、目立つとこに使ってるのかな。
どんどんAI縛りにされていく世界。