ちょっと暇だったので自分なりの大掃除を。
簡単に言うと、いらない言葉を容赦なく捨てたという感じ。
捨ててみて、今までソレをいいねと思っていた自分が滑稽だったなと思った。
昨日、スポーツクライミングのLiveを見た。
今回はボルダリングで、様々な形と角度の障害物を乗り越えてゴールに到達って感じだった。課題って呼ばれてるだけあって、相当難しい設定にされてたみたい。
何せ序盤の選手(世界ランク下位)の人は全く歯が立たずに終わって帰っていってた。
わずかな手掛かりから最適ルートを割り出す感覚がパズルみたい。
しかもそのパズルは、思いついても体現出来るだけの身体能力がないと実現不可能だなんて、文武両道っぽいなー。
私が今までボルダリングがそこまで難しいと思ってなかったのは、多分強い日本選手の試合だけ見てたからだと気付いた。
何か、初手から違うんだよね。自分の身体を思うように運ぶには、筋力よりも握力の方が必要そうだなと感じた。あと、とんでもない状況でも貼り付ける柔軟性も不可欠。
その辺のバランスが日本選手は良さそうに感じた。
日本選手のクライムで課題の正解が見えてスッキリした。ずっとモヤモヤしてたから。
それにしても第三課題の完登者、いたっけか? どの課題も数人しか完登出来てなくて、やたら難しい課題だったんだなと思った。まあ、決勝に向けての振り落としと考えたら、あまりバンバン登られても困るのかな?
気候変動が地球の自転を遅くした結果、1日の長さが長くなっているとの事。ちなみに地球の自転の速度で1メートル進むのには、赤道上で秒速約465.1メートル(約1674.4キロメートル/時)だから約0.00215秒(約2.15ミリ秒)。その程度って感じるが、これが地球の生態系に与える影響、例えば今までの環境下で正確に調整された体内時計を持つ植物や昆虫などの小さな生物に与える影響は大きな物だろうし、その恩恵で生きてる人間への影響も大きいだろう。大西洋の海洋循環、早ければ2030年代後半にも停止と言う研究結果もある。これによる気象変動や海洋生物への影響は甚大だろう。
人間は自分で自分がこの世界からいなくなるのを知ってる。(ちなみに、これを単語でここで言うと引っかかって投稿できないので、4と書こう)。でも自分の周辺で4が起こっても、自分では、どうも自分がそうなると心底確信できない。ところが、病で4を他人から宣告されるとやっと確信できる。客観的に宣告される事でやっと確信し自認できるのだ。
そして、自認した患者は大抵は残りの人生を家族や友人などを今まで以上に思いやりながら残りの人生を生きる。
ネガティヴの根底は4。そして、それを確信し自認する事で底を抜けて、本当の本質的なポジティブに変わる。
生きている上で必要なお金とそのおまけで付いてくる権力や名誉は、深層心理でわかっているから遠ざけたい4に、自ら目を向けないようにするモルヒネのような物。それを沢山所有するほどモルヒネは強く効いて、国の権力者は永遠の命と言う勘違いのもとに、戦争や紛争で自分のモルヒネをもっと強くしようとする。かつてエジプトの王がそんなモルヒネが効きすぎて、ついにはいつか蘇ると言う妄想の為に用意させた物もあるのは知ってるだろう。
地球環境が人類全体に余命宣告した、この火の手の回って逃げようのない火事場の中で、まだモルヒネを効かせて争い事をやってる権力者達を見ている、この状況下でまだやってんのかっていう思い、火事場の中で動揺する事なく、あえて普通に穏やかに生きていく気持ちの強さになれればという思いに至る、原爆の日。
昨日のご飯。
味付けしてある肉を焼き、白和えの素を使った白和えを作り、甘酢の味のパウダーをもやしにふりかけ、電子レンジで火を通した枝豆だった。
自分で一切味付けをしていないけど、私は手作りだと思う。
相手に直接に不快な言葉を投げかけるのは良くないし、それをしている人を擁護するつもりはないけど、まともな言葉にイラついたり傷ついたりするのも事実なんだよね。
これはずっと思ってきたことなんだけど、美しい言葉には傷つかないと思っている人が案外多すぎる。投げられたら綺麗に受け取るのが当たり前だとされている。
あからさまなナイフは人を傷つけるのがわかっているから、向けられて傷ついても、それが当たり前だからある意味ラクではある。だけど、人ってナイフじゃない日常にも傷ついたりイラついたりしちゃうもんなんだよね。
自分が欲しがっていないのに、相手が見せたい聞かせたいという気持ちだけで一般的には綺麗とされる絵画や音楽を突然置かれて、それに単純に綺麗だと思わなきゃならないのが逆に不自然。
こういうのなら癒やされるでしょ?って傲慢さが透けて見えるときがある。でも、それを傲慢だ!なんてハッキリ言えない。その言えなさを利用しているのか?とさえ思うときもある。
でも、傲慢だ!なんて相手に直接言っていいとは思わないし、それはすべきではない。でも、どんな人でも自分は誰かに嫌われているって少しは思うことは大事なんじゃないかな?どうせ私なんか全員に嫌われてる…とか、100%ネガティブになる必要もないけど、私のことも嫌いな人もいるって少しの隠し味を持っておけば、発言も内容もちょっと変わってくるって思うのです。
受け入れてもらっていると感じると、こちらも感謝の気持ちも込めた行動をしなくては!と思う。
それはそれで大事なことなんだけど、その考えが行き過ぎて結局自分に負荷がかかったら意味あるのか?と一呼吸してみるのも大事だなと。
知識は、知見と体験の両方を得た状態。ネットの知見だけという世の中の流れは、どんなに頑張っても知識の半分しか得られない。それが上手くいく・いかないに関係なく、自分で体験しないとホントの知識は得られない。
これでリスペクトのやり方を実践できる時がきたわけだ。日本は柔道で金を取れず、フランスはフェンシングで金が取れず。お互い国技で金メダルの交換して状況は同じだから、互いの心情がわかりやすくなって、国民同士で素直に相手の凄い所を純粋に認めあいリスペクトしやすくなってる。純粋にお前すごいねって相手に気持ちを表す事、やりづらいけど物凄く単純明確なモノなんだよな。
そして、リスペクトする事は自分の足りない部分を客観的に自分で認める事になるから、
自分がさらに前進するのには必要な事なんだよな。リスペクトしないでいる事は、そこの部分を見て見ぬふりしてる事と同じだから、しっかり見た事を自分の中に刻むには必要なんだ。
たまたまネットで見た、スピリチュアルな視点から「家に人を招くと運気が持って帰られる、そして自分と同居している家族も同様に運気を持って帰られる」とあって、なるほどな〜と思ってしまいました。スピリチュアルな感覚を信じているわけじゃないけど、そんな感覚を抜いてもこれはそうだなって。
最近は自宅に人を全然招いていない。ちょっと家は汚いのだけど(笑)自分のメンタルは安定しているような気がする。以前は友達なども来ていたけど外で会うようになったし、自宅に来てホームパーティーが好きな友達とは疎遠になった。
よく、部屋が綺麗なほうが運気が上がるみたいなことは言われるけど、誰かを招くこと前提で掃除をすることは殺気立ってしまうというか、家族が自分の思う以外で部屋を使うこと(ちょっとしたものを移動するとか置くとか)が苛立ちの原因になってしまっていたと今なら思えるので、人を招くという前提の片付けは私にとっては運気が下がるのかもと。
昔に遡ると、父が自宅に会社の人を招いてどんちゃん騒ぎするってのをやっていた。その度に母は殺気立ち愚痴を言い、だけどそれを断らない。私も父からの良いお嬢さんと言われたいあの圧力に耐えていた。
父が例のごとく、どんちゃん騒ぎをやる時に私は熱を出して寝込んでしまっていた。気持ち悪くて吐いてしまったのだけど、自分の部屋からは出られず涙してしまったことは覚えている。様子を見に来た母は心配もしていたかもしれないけど、吐いて泣いている私を面倒だって思っているんだろうなって雰囲気も感じられたのも記憶に残っている。
こんな感じで、家族は最大限に運気を奪われていたんだなって。どんちゃん騒ぎがなくとも、私は熱を出して吐いていたかもしれない。でも、部屋で吐く前になんとか出来たかもしれないし、吐いてしまっても泣くことはなかったんじゃないかな?って思ってしまうのです。この”思ってしまう“ことがもう運気を下げているんだと。
「家は気を溜める場所」こんなことも書いてたような。スピリチュアルな視点でもそうではなくても、各々にとって落ち着く場所が家なのかもしれない。ホームパーティーとか好きな人って知らず知らずに運気が下がっている…のだとしたら、楽しいと錯覚しているだけの消耗なのかしれない。それに付き合わせてる家族はもっと消耗しているのかもしれない。笑っていたとしても。
掃除も整頓も自分のためにやることが運気が上がるといえるのでしょう。でも、まあ、その体力が…ない…
規制を緩和というと堅苦しいけど、自分の中でちょっと実験的に緩くしてみた事があって、それをやってどうなるってわけでもないけど…独自のサマータイムみたいなものです。先頭に立たないというのはこれからも変わらないけど、少し前に並ぶようになったということです。