SNSは人生の補助輪、自分勘違い装置だ。だから、ある程度自分が堂々としてられる自信がついたら、人生の補助輪を外すようにSNSから離れるのがいいのだろう。人は誰でも何者でもない、それは歳を重ねれば自然と自覚せざるを得ないようになってくる。例えば、会社の役職もSNSならインフルエンサーもカテゴリーの名前でしかない、そのカテゴリーに付随した言動をしているだけなのだ。どんなにやってもカテゴリー自体にはなれない、ずっとそこの中で自分自身がそれをやっているだけ、カテゴリーを離れれば素の自分自身に戻るだけの話。自分は何者でもない事を知って、同時に誰もが何者でもない事と思えるようにすると、全ての人と自分がフラットな関係だった事が見えてくるだろう。
上手くいかない時は自分より苦労してる人を探して自分はまだマシな方だと思い、上手く行った時は自分より凄い人を探して自分はまだまだと思うようにすると、色々上手く回りはじめるかも。
「夏休みに家計の事情で旅行できない家庭」X「人手の足りない旅館・ホテル」ってすると夏休みはWin-winになりそうだけれど。
選挙なんて行ってみればいいだけの話だ。あの図書館に似た静寂の中で自分のする事だけをする、紙に字を書いて入れるだけの行為だけで、まだ何も決まってないのに、自分の中の世の中に対するもやもや感が少しスッキリしてしまう。やってみればわかるだろう。それは、ちょっとした非日常体験。終わった後に喫茶店でコーヒー飲みたくなるのはなぜだろう。
坊主にするのにバリカンの15mmにするか10mmにするかで悩める。髪の長い人が1センチ切ってみたって言う次元の話ではないのだ。1センチ切ったら無くなってしまうのだ。ボウズは髪と頭皮のデッドヒートなのだ。
アイス食べたいけと、暑くて動かないからカロリー的に食べない方がいいんだろうな。夏は暑くて動かないから太りやすいかも
言葉でも行動でも自分がやれば他人も同じ事しても受け入れる覚悟が付いてくる。言動はやった瞬間に全ての方向に向けて開かれるからだ。良い事すれば他人に同じ良い事をされる権利があるし、悪い事すれば他人に同じ事されても文句なんて言えない。悪い人間はご都合主義にも一方通行に文句を言うばかり。そうルール違反なのである。
褒められたい、感謝されたいってちょっと歪んでる感情だなって思うのですよ。
結果的に褒められることや感謝されることはあっても、それが先頭に来たら目的がおかしくなっちゃうと思うんですよね。
でも、そんな感情が真っ先に前に来ちゃって、褒め言葉や感謝を作り出すために動くと、自分だけじゃなく他人を巻き込んでソレを生み出すことになることも多い気がするのです。
わかりやすいのは子どもが褒められると自分が褒められた気になるから、子どもを巻き込むみたいな感じとか。いいチーム、クラス、グループって言われたいから他のメンバーを巻き込むとか。
色々あるけど、褒められたいが先に来るとロクなことはない。その感情がもし自分の中で出てきたら自分以外の誰かを巻き込みそうになっていないかを自問したほうがいいのだと感じるのです。
指あみという、簡単編み物技法がある…という事は知ってた。
でも、それをやる機会はなくて、ある事は知ってるどまりだった。
自分自身は普通に編み物出来るし、子供の最初の編み物体験と思ってたので。
まさかそれをやってくれと言われると思ってなくて、先週ちょっと困った。
困ったけどまあ、ちょっとスマホで検索してやったら出来た。基本は簡単なのだ。
でも何かおかしい。出来上がりが見本と何か違う。
4本の指で編むので目数が少ない(幅が狭い)から分かりにくいけど、このままではモヤモヤしてしまうと思って更に色々調べてやっと原因が分かった。
私が検索してやったのは、平編みになる手法(少数派)だったのだ。
対して見本品は筒編み(多数派)だった。そりゃ違うわー。気持ち的にスッキリ。
編み物わからない人へうなぎに例えて説明するなら、筒編みはうなぎそのもの、平編みは開きである。そりゃ全然違うよね。
編み方レクチャー的に体感1:5〜7位の割合なのに、ピンポイントで平編み手法を引いてたとは…不覚。
多分今週もやる事になるから、今度はバッチリ筒編みでやるよ!
いつもやっている事は、その後、日課になり日常になり普通になり、息をするように無意識になる。良い事も悪い事も。立ち振る舞いに無意識にもジワジワと滲み出てくる、その良い事なのか悪い事なのが。ふっとした瞬間に出てくるのを咄嗟に抑えられるほど、人は器用でない。だから、良い道を歩きなさいと昔から言われるのだ。