ケチるなら何もしないって大事だなーって思ったので書いとく。
もうちょい細かく書くと、ケチったものに高級感を出そうとしないって大事かなと。
時計の話だけど20歳になったときに自分で買って、ちょうど20年…まあ、色々ありましたね。そしてちょうど20年というタイミングで長めの修理に出るのも、なんか自分とリンクしていていいじゃないですか。
「自分で買ったから長く使えた」これ、本当にその通りだと思うんですよね。もっと細かく言うと、誰かからプレゼントされていたら、時計は機能していても何らかの形で処分してたと思うんです。
私だけにしかわからない用語で最初は書くと、夢おじさんが時計をプレゼントしてくれてたら、大袈裟だけど時計ももう使ってないだろうし、そもそも夢おじさんはケチなので当時6万円の時計なんて買ってくれないでしょうね。
なぜ、夢おじさんなのか?そしてなぜケチなのか?以前もかなーり前に書いたかもしれないけど、この夢おじさんは当時の私からしたらやっぱりおじさんの年齢ではあったのだけど、色々ありました。今思うと気持ち悪いけど、私は夢おじさんに夢を抱いていたという言い方までにしときましょうか…とにかくそんな関係です。で、夢おじさんは私にネックレスのチェーン部分のみをくれたんですよね。袋には入っていたけどプレゼントととして包装した雰囲気はなく。今思えば片づけていたら出てきたから私に寄越したんだろうと思いますが…
そんなオーラを纏ったネックレスを「◯◯(私)が夢を見つけたら、ここに(ネックレスのチェーン)合う宝石を買ってあげる」とか言いながらくれたんですよね。だから夢おじさんなんです。私、泣いたんですけど、ソレ嬉し泣きじゃないのは確かでした。20年経ったら美化されるのかな?と思ったけど、美化されるどころかコントみたいな扱いになってるのがある意味救いです。
家から出てきた謎チェーンを夢おじさん的にはキレイに断捨離したと思ってるのでしょうが、私、リサイクル業者じゃないんですけどって思います。
でも今思えば私に時計をくれるほど入れ込んでくれなくて良かった(笑)もし、チェーンじゃなくて、ちゃんと新品の時計をプレゼントしてくれてたら違う時を刻んでた可能性もあると考えると恐ろしい。
金額じゃなくて気持ちだ!というのもわかる部分はわかるんですけど、ケチった故にカッコつけというオプションをつけるとマイナスにしかなならないんだなって思います。それなら最初から何もやらないほうがマシってことはたくさんあるんでしょうね。
「ケチるなら最初から何もしない」これだけはもらっておきます。
親の介護は突然やってくる
1月までバイクに乗ってた父が、もう今じゃ車椅子ないとだめ
自力歩行もできない靴もはけない
トイレもたまに失敗して、おむつしてる
ありえないというか、そんな急激に悪くなるもの?
1人で何もできなくなるのが急すぎ
介護認定とか介護ベッドとか、手すりとか、なんとかなんとか
幸い母は私より元気なのでよかったけれど
春頃箱根に行きたいっていってたのに、叶わなくなってしまう
一気に家の中かわるよねそりゃ。色々ついていけない私が
自分の人生を幸せにできるのは、自分だけだ。どんなに親しい人が親身になってくれても、自分に成り代われない以上、サポート止まりでおしまいだ。だから、自分の人生に自分で泥を塗る事なんてしたら、ほんとに自分の今後の人生が苦しくなるだけ。最近は、割合、若年層にその場限りのノリの犯罪をよくニュースで見るけれど、何も悪い事もせず普通に生きてきても、歳をとっているだけで、社会的に不利な状況や環境は沢山あるのだ。何しても、どこかの誰かがきっと助けてくれるなんて甘い考えは、早めに捨てた方が身の為だ、という事だ。
久しぶりに鯨の刺身肉が手に入った。
…となればユッケでしょう!ってんでユッケにして食べた。
めちゃうまでしたわ…
鯨肉は割と火を通したものを食べることが多くて、生食したのは実は初めてかもしれない。
食べてみた感想としては、マグロと牛の間の食感、馬刺しに近いかな?
臭みもなくてとても食べやすい。食材としてはとても優秀だなと思う。
たまたま食べられたけど、今後も食べられるのかな?
もっと頻繁に食べたいと思ったけど、外国では言えないね。
人に優しくしたり、親切にしたりする事は、別に他人に良く思われる為ではなくて、自分の人生を快適に過ごす為の環境を整えている事なんだ。それは自分の部屋の掃除を常にして快適にするのと同じように、自分の人生の為にする事。他人の為に親切にするって言うのは、そもそもその人が本心でどう受けとってくれたかなんてわからないのだから、親切にしてあげたなんて、自分勝手な思い込みになってしまう。偽善であったかどうかは、受け取り側の見えない気持ちの問題なのだから。誰もが自分の人生の掃除や整理整頓を自分の為にやれば、周り回って世の中全体が快適になるはず、なんだ。
20年使っている時計を修理に出している。20年前の自分にとっては高い買い物だったな。でも、自分で買ったから20年間使えたんだと思う。長く付き合っていきたいものは自分で買うのが正解ですね。
某所にて、文句ばかり垂れ流してるあの人って、私の母に似てるかもなって思う。ウチの母も強めの口調で何かしら文句ばかり言ってて、自分が正しいのオーラは今考えるシンドかった。
誰しも不満に思うことは何かしらあるにせよ口を開けば文句ばかりで、そういう性質が私にも染み付いちゃって、自分もそういうタイプの人間だったこともあったように思う。今は母と離れてそういう自分がいたんだと思えるようになって少しは救われている部分はある。
時には友達のように愚痴られ、時には子どものように扱われてると自分の脳が混乱するというか、一貫性がないからこちらもどういう態度で接していいか深いところでは迷っていたのかもしれない。
友達のように…と書いたけど、時には私の不満を弟たちに愚痴ってたんだろうなって感じる。そこがまず友達のようではないんだけどね。愚痴を聞いてくれるありがたい友達の愚痴を他の友達には普通は言わない。(時々そういうタイプもいるかもしれないけど)本人は使いわけて上手くやっていたつもりかもしれないけど、そういうのってどこかで綻びが出てわかっちゃうから。
そんなことをしつつ、時には母としての顔をドヤドヤさせて嫌味などを言うからシンドかった。なんだかんだ仲は悪くないとは思ってたけど、私本当はシンドかったんだなって感じる。遅れてきた毒みたいに今効いてる。毒成分に気がついたからなんとか対応出来てるけど。
こんなこともあったかなー?私がバイトの人とこんな話をして〜という話題を出したら「バイト先に話す人いるんだ?」って返されたことがある。あの辛辣な態度なんだったんだろう?と思うけど、愚痴などは言えるけど下に見てる友達に他の友達がいる思うとムカツクみたいな心理かな?あのピシャリと言い放った感じ、空気が凍ったからよく覚えてる。
やっぱり毒だよね。一発では致命傷にならないけど、本当にじわじわ効いてくるタイプの。もう何年も経ってるのに恐ろしいことだなって思う。まだ母がいたら昔の毒が効いてる最中にさらに毒を入れられてたのかと思うと恐ろしい。私は自由になった。だけど、何かのキッカケでやっぱり毒成分が抜けてないのは実感する。そうやって生きていかなきゃならないけど、せめて私はあの人のようにはなりたくないな。
そうか、もしかするとずっと昔から、自分達は国の指導者でなく、国の支配者を選んでしまっていたのかもしれないな。
自分の予定より他人との予定を優先すべきなんて決まりはどこにもないんよ(仕事とか大事な局面は別だけど)
先にスケジュール帳に書き込んだ方が優先
たとえ散歩や昼寝であっても予定は予定
他人に見てもらうために人生生きてるわけじゃないし
まず守るべきは自分との約束