ロールキャベツなんて久しぶりに食べたなー
口コミでは「ぬるい!」というお叱りがいくつかあったけど、普通に食べた直後に「あつっ!」となったので改善したか、そもそもすぐ食べなかったかどちらかなのでしょうね。
人がいない場所って落ち着くんだよなー
私はいなくなったように見せかけて本当はいるんだけど。
どこかで「変な絡みをしてくる人がいると過疎化が進む」って言っている人がいたけど、まあ、本当にその通りだよねって思う。
同一人物かわからないけど、静かな場所で“も変な絡み”をしてくる人はいたからな。だからこのように消えたようで消えてない戦法を使っているのです。
こちらが転校が多かったから色々思うことがあると言えば、私は転校が多かったけど〜とか。
いってらっしゃいと同等レベルで使った頑張って〜という言葉にを変な受け取り方されて疲れたという話には、私は頑張ってと言われて辛かった!とか。
まあ、1番の変な絡みは友達のことが好きだという話に、結婚してない友達を見下してる!と言い出したことが私が隠れる要因になった最大のキッカケですかね?
他の人の戯言にも自分の戯言と見せかけて、変な絡みしてたんだろうな。
その一つに、「独身非正規40代の私ですが」ってつけてた人に変な絡みをしていたのが印象的だった。
独身非正規40代ってつけて自分を卑下することないのに〜みたいに自分の気持ちの戯言と見せかけてやってたけど、明らかにその前の人の戯言から引用してるんだよね。
別に卑下することないっていうのはわかるんですけど、どっちかというとそれを書くことでより共感を得たり、言葉や文を鮮明にさせるために使っているのだから、変な絡みをしなくていいのにって思っていました。その人も独身非正規40代なのかもしれないです。その言葉に反応するってどこかでソレを自分自身で厭わしく思っているんだろうなって感じたのです。1番気にして、自分を卑下してるのはあなたでは?って思ったので覚えています。
某所で、ぼっちと自分で言うのはやめたら?という意見があったけど、ぼっちと自分自身に言う事で今の自分の状況が鮮明に、そしてぼっちでもいいじゃん?って思いたいし皆さんにも思って欲しいからって願いがあって、ぼっちと自称するのはやめないそうです。なんかこの考え方、私は好きでした。卑下じゃなくて庇護なんですよね。
そんなことも本当に静かな場所になったから言えます。もう二度とお会いしたくないです。そういう静かな変な絡みがあったから過疎化もしてるのかもしれないですね。そして絡み本人もいなくなった…絡むものがないから…そういうものです。
なんか胡散臭いんだよなーって思ってた人のその理由が点と線で繋がることがありました。
みんなで共感出来そうなものをあえて生み出していたら、そりゃ逆に共感出来ない人が出てくるのも当然なわけです。
「自分の持ってるものを見てほしいではなくて届けたものを自分のものにして欲しい」って言い方にすると、なんとなく自分本意じゃなく喉ごしのいい言葉になってるけど、それって突き詰めていけば、こういうのなら綺麗でしょ?共感出来るでしょ?感動しちゃうでしょ?っていう押し付けであったりするんですよね。
私は、という話になっちゃうけど、その人自身が持っている泥のような感情を形にしてくれるタイプの作品のほうが好きですね。
ありきたりな簡単に語れるような感情よりも、そうではないけど湧き出でくる感情に共感出来たりはしますが、あの人の作品はそれなりに支持されてるし、簡単に語れる綺麗な模範的なものを好きな人って多いんだなとも感じました。
それが好きだからといって、感覚が単純だと言いたいわけじゃないんですが、様々な”作品“として呼ばれているもの(本だったり音楽だったり絵画だったり色々)に多くの感情を使わないタイプなのかなともちょっと思います。それも悪いことじゃないと思うんですよね。本当の意味で入れ込まない、表面的なものだけ信じられることは強味でもありますから。あまり疑わないってスキルは私にはないので…嫌味でもなく羨ましいなとは思うのです。ただ、あの人はやっぱり胡散臭いってのは自分の中では変わらないかな。
マカロンって昔は美味しいと思ったことがなかったけど、美味しいものは本当に美味しいです。高いのだと1個500円近くしますね。
ただ、トゥンカロンだっけ?韓国のマカロンは甘すぎて苦手でした。韓国料理は好きですが、基本的にスイーツは全体的に甘すぎると個人的には思います。
韓国といえばスンドゥブが好きなのでスープの素を買ってきて作ろうと思います。楽で美味しい。
喉がちょっとでも痛かったら飲むようにしている漢方があるんですが、それがすごい苦いんですよね。で、朝起きたら喉に違和感があったんで例の漢方を飲んだら、それほど苦いって感じなくて慣れたんだなって思いました。どんなに苦いものでも慣れてゆくものなんですね。
週末、20年近く付き合いのある友達と会います。大学のときの友達です。ランキングなんて言ったら嫌な感じだし、そもそも友達そのものが少ないですけど私の中では1番仲良いなって思えている友達です。向こうがどう思ってたとしても別にいいんですけどね。
10年以上前は高校の同級生もとても仲良いなって思ってて、そもそもランキングとか考えてはないですけど、今思えばかなり上位のほうにはいました。
だけど、高校のときの友達とはもう疎遠なんです。もう知りすぎちゃった故にしんどくなったというのはあります。高校の友達だから制服着てカラオケいってファミレスで喋って…とやっていた頃が1番ピークかなと。なんだかんで卒業して10年近くは付き合いあったけど疎遠です。
今度会う大学のときの友達とは何が違うんだろう?と考えてみたら、まず一つにグループではないことですかね?個人的付き合っているので相手と向き合いやすいのかなと。向き合うというほどマジメな雰囲気ではないけど、結果的には向き合ってます。高校のときの友達は私含め3人グループなんですよね。それで、1人と予定も考え方も合わないって思い始めてたら誘われなくなったので、そのままです。残りの2人は続いてるのかは知らないけどどっちにしろ私はもうそこには入らないのです。
で、2つ目はシンドイときにピンポイントで会えてたのが大学のときの友達なんですよね。偶然ですが、仕事で嫌なことがあったとき約束していたり就活のときにバッタリ会ったりとか…そういうタイミングがとても良い。偶然だとしてもそのタイミングに私は救われてきたなと振り返ると感じることが多いのです。
あと最後は考え方ですよね。いい子、いい大人ぶらないでいられる関係っていうのは大きいです。
高校のときの友達がネットに「幸せすぎてコワイから当選したコレを譲る〜」という内容なことを書いてて、詳しい内容は端折るけど、譲ることって大事だけど当選したものをわざわざ誰かに譲ろうとするってすごい大人に見えるけど、そんなことをしないで当選を当選として受け取って楽しむほうが良いのではないかと感じたことがあったんですよね。それをやっちゃうと譲るのが偉いから他の人も同じように譲らなきゃならない雰囲気になっちゃうときがあるんですよね。そういう先のことまで考えてないいい子ちゃんぶりがもうシンドかった。
一方で、大学のときの友達はそういうのがない。これも詳細は端折るけど、ある手伝いをしていて配っていたオマケが足りなくなりそうなときに、ちゃんと「もうオマケはありません」って伝えてたことがありまして。自分の取り分をわざわざ差し出さないところが私も遠慮しなくてよくなったので、有り難いなって思ったのを今でも覚えています。
そんな感じで全体的にはかなり長くなったけど、まとめると個人的に付き合うことと、タイミングが合うこと、大きくいうと価値観が合うことがな大事なんですよね。この大きくいうと価値観ってところが誰かから見たらちょっとしたエピソードだったりするところに隠れているんですよね。そういうのが大事なのです。
人類に課された本当のゴールはなんなのだろうか。
この繰り返しに似た時の経過はあと何年続くのか。
本当の終わりを見届ける前に私は終わってしまう。
どうか、この私を継続してほしい。
「虎に翼」が終わり、新しい朝ドラが始まった。
主演の方は大好きな人だけど、いまいち食指が動かないので、多分見ない。
虎に翼は、男性社会にバキバキと切り込んでいく女性も、家庭を守る女性も、どちらにも属さない女性も、すべての人を肯定するような内容でいいなぁ…と思った。
でね。
急に思い出した。
高校のクラスメイトの女子。
わたくし、20世紀も残すところあと数年という頃、ど田舎でJKやってたんですけれども。
リアルに「バスは一日二本来る」のど田舎。そんなところでも高校があるんだから、ありがたいことではある。
おうちが農家という子も多くてね。
その女子をAちゃんとして。
Aちゃんは親から「高校卒業後は就職するか、実家(両親と兄夫婦)を手伝うこと」と言われていたらしい。
看護師になりたいと伝えると、「公立の学校のみ認める。浪人不可」と言われていたそうで。
Aちゃん、進学目指して頑張ってた。指定校推薦は私立ばかりだったし。
休み時間も参考書広げて。塾や予備校なんてないし。
あったとしても、おうちの手伝いで行かせてもらえなかったかも。
学校から帰ると、おうちの手伝い。
学校に来る前にも、おうちの手伝い。
その合間をぬって勉強。
で、受験の結果。「不合格」
Aちゃんは「しょうがないよ。やるだけやったし」と言ってた。
すべてを諦めているような、悟っているような。そんな顔だった。
卒業後、数年してからふわっと聞いた話では、地元の町立病院で働いているということだった。
「看護師になれたんだ」と私が言うと、教えてくれた相手は「看護師ではないようなんだけど」と言っていた。
教えてくれた相手とも連絡が途絶えて久しい。
どうしているだろう。あの子も、あの子も、みんな。
回覧板が来ているとテンションが下がる…
ハッキリ言うと必要なことが何も書いてないんだよねぇ…
このシステム地味にアナログだなと。
「やりたい人だけでやる」こんな単純に思えることが難しいと思えること、私にもあったなーと。
あるYouTubeチャンネルを観ていて、自分も子どもが幼稚園時代のことを思い出してしまっていました。
その方の言っていることは逐一共感で、イベントやりたい側の保護者が持ってくる企画に賛同しないといけない雰囲気ってあるんですよね…私はやりたくない参加したくないけど、参加したい人だけでどうぞってなかなかなりにくい。自分が参加したくないというだけで、やりたい人の気持ちを否定しているわけではないのですが、参加しないというだけで企画を否定されたと感じさせてしまう雰囲気があの場所にはなぜかあるんですよね…
だから、そんなイベント企画しないで欲しい!っていう極端な意見も出てきてしまうのもわかってしまいますが、変ないい方をするとさわやかに不参加にさせてくれればそんな意見は出てこないんじゃないかなとは思うんです。
幼稚園の一部の保護者の結託感ってすごくて、みんなそこに入り込むのが当然だと思っているからだいたいの人は巻き込まれてしまうんですよね。もうハッキリいうと台風みたいな感じですよ。
その台風になんとか耐えてきたって考えたら私エライなって思いました。こんな風に感じられるからネガティブに聞こえる発信って私にとってはありがたかったりするのです。ネガティブを閉じ込めすぎて持っていないポジティブカラーで無理やり塗りつぶすのもうやめましょうよ〜ってこの世全体に思っているのです。