わかりたい部分だけわかりたいし、いいところだけ見て見られる距離感は大事。それが許される関係ならわざわざ知りすぎることはないと思うのです。
ネットのキャンペーンで当てたいちごメロンパン、美味しかったけど、私の年齢には重たいとも思ってしまった。
いちごメロンパンってよく考えたら、メロンどこにもないのにイチゴパンだけだと伝わらなくて、今更メロンパンに他の名前をつけても定着しないだろうし⋯でもそれが認知されたらもう永久にメロンが入ってなくてもメロンパンだから、認知させることって大事ですね。
京都慕情という曲が好き。
「京都人の密かな愉しみ」という番組でアレンジされた曲が流れていたのを聞いてからずっと好きだ。
高校生の時にこの番組と曲に出会って、結局憧れて大学生活は京都で過ごした。
春、バイト帰りの夜22時くらい、橋の上で桜を眺めながら一人酒を飲むおじさんを見て、ああドラマみたいと思ったなあ。曲を聴くとあのおじさんを思い出す。
高瀬川ではなく高野川の話。比叡山が綺麗に見えるのだ。
母は物が捨てられない。
よく親の遺品整理に呆然としているという記事をあちこちで見たが、母はその前兆がものすごい。
私の実家は高床式。
雪国によくある家の形をしている。1階はガレージ、物置。2階から上か住居。
1階にはこれでもかと捨てられないものが溜めこまれている。
そこにはよく、いらないと思って捨てたはずのものがひっそりとピックアップされて鎮座していることがあった。
捨ててほしいものが、私の中で不穏分子やノイズと言っても過言ではないものたちが、母にはお宝のように映るらしいのだ。
物のない時代に育った人の弊害だろうか。
もったいない、の精神はわかるが、現実を見てほしい。まだ着るよ!と言って持って行った服が着られているところを見たことがない。母は縫製の仕事をしていたので袖丈を詰めるなんてお手の物だが、ただ単に縫製作業が好きなだけで「着られるように蘇らせた!」という実績をアンロックしたいがためだ。どれだけアンロックしたいのか。アンロックするにしても、人が視界から消したいものまでリブートしなくていい。
いつからか、捨てるときは完膚なきまでにズタズタにし、割れるものは割り、家電はコードをぶった切り、再起不能にしてから捨てるようになった。原型をとどめているものがあれば、逐一「これはもう嫌な思い出しかないので」と断るようになった。そうでなければ家の中で要らないものがなくならない。
物がない時代は知らない。
物のある時代に適応し、物を少なく持ち、いかに自分が自分にフィットする一番良いものを持てるのか、そこに今はステータスがあるように思う。
まだ使える、ではなく、いま自分にこれはぴったりと来るものかどうか、なのだ。
いつか使う、ではなく、いま使ったらどれだけ生活の質と心が豊かになるか、なのだ。
悲しいかな、母にはそれが通じない。
蛇足だが、数年前に突然「整理を進めているの!」と母が言い出したことがあったが、1階の物置の中で真っ先に捨てると言い出したのは姉兄私の子供時代の写真だった。
母には深い闇があると気づいたのは最近だ。
最近ちょこちょこ編み物してる。
最近編んだのは帽子。普通の帽子じゃなくて折り返すとリバーシブルにも、伸ばすとマフラーにもなるデザインのものだったので、普通の帽子編むのの2倍時間がかかった。
時間かかった分それなりに満足出来る出来になりました。
その後、図書館で借りて来てた編み物エコバッグの本からネットバッグも編んでみた。
前から編もうと思ってた根菜類保管用のもの。
汚れてもいいように麻紐で編みました。スズランテープで編むのもありだったな。
麻紐編むのは凄い力がいった。太いからすぐ編めたけど。
しばらくは麻紐は編みたくないな。
編み物の波が来てるので色々編みたくなってるけど、慢性の肩こりを騙し騙し編まなきゃいけないのでなかなか大変です。
いつもの時間にやることを追加したら洗濯機のボタンを押し忘れてしまった。
今年の4月からルーティンが少し変わるけど、今からこんな感じだと心配だ。
自分のしてあげたいタイミングじゃないと何かしてあげたくないって人に疲れるときがある。
普段色々してくれても、こちらが頼んだときは嫌がるんだよね。これがけっこう不思議で⋯全部が全部、こちらの都合に合わせてくれと言ってるわけじゃないけど、やってあげたいという気持ちよりは、やってあげてる自分に満足したいんじゃないかと思うのです。
だからこちらが頼んだタイミングだと、自分が気がついてあげたという第一段階の目的が果たせないから、快くやってくれないんだろうなと。
でも、私としては私のためにやってくれることは私のタイミングを掴んでくれたらより嬉しい。
今日買ったらポイント5倍!みたいなときは買って欲しいからそんなキャンペーンをするんだと。そのタイミングで買ってくれてありがたいからポイント5倍として返してくれるんだから。キャンペーン以外のときも買ってくれて嬉しいとも思ってるし、買わせてもらう側も売ってくれていることに感謝はしているけど、今!買って!今!って時に動いてくれたら嬉しいんです。
私が頼んだときは何かのポイント5倍キャンペーンなのになぁ⋯
鼻腔拡張テープを使ってみましたが、なんか効いているような気もします。本当に効いているか試したいので今日はそれをしないで寝てみたいと思います。
テレビ番組のはじめてのナントカが昔から苦手なんですよね。
いつも同じ放送局をこだわりもなくつけているのですが、今日はそれをうっかり観ないように放送前から違う局をかけてました。
そのままだと、家族がその放送をなんとなく見だしてしまって、あとからチャンネルを変えにくいので⋯
私、子どもいるんですけどね⋯いるのに苦手なんですよね、この手の感じが。子どもが単純に嫌いでそんなものは見たくない!って言えれば楽なんですけど⋯別に子どもが嫌い!ってわけじゃないので⋯
子どもって面白い部分もあるし自分の子どもに限らずにそれは思うんですけど、なんでしょうね⋯あの手の番組は子どもがいなかった頃も苦手なんですよね。
予定調和感と結局は大人が癒されるために子どもの存在が利用されているようにも感じるんでしょうかね?そして、大人として純粋にそれに感動したり可愛いと思ってあげなきゃならない圧力がシンドいのかもしれません。
かもしれません⋯と断定しないのは、大人が子どものエピソードが出してきたからといって、必ずしも拒否反応が出るわけでもないんですよね。
この時代、SNSを流し見してるだけで、大人が子どもについて投稿しているものなんて息を吸うくらい当たり前に見かけますし。それに全部拒否反応が出てるわけでもないんですよね。
これって面白いでしょ?感動するでしょ?こんな風に思っている親の私素敵でしょ?みたいのがちょっとでも透けちゃうとダメなのかもしれない。例のテレビも感想や感情が自由ではなくて、可愛いとか感動とか与えられたものしか感じちゃダメだから疲れるんでしょうね。
大人でも子どもでも、テレビや画像に保存しておけないような瞬間的な何かを面白いと思ったり可愛いと思ったり感動したりするのが自然だなと私は思っているからなんですかね?だからちょっと加工されたと思う何かに素直に感動とかしたくないっていう少しばかりの反抗なのかもしれません。
そんな反抗心ないほうが楽だと思いますが、それはそれで自分らしいなとも思うので、自然にこの反抗心が消えるまでは付き合っていきたいと思ってます。
引越しや帰省を言い訳にして、長かった休みをだらだらと過ごした。部屋はあらかた片付いたけど、引越し後に注文したカーテンとデスク下につけるトレイがまだ届いていないので、窓のひとつは養生シートとプチプチで目隠しだけしてる状態で、PC関連のケーブルはまとめられていない。
今日は有休で正月休み最後の日。休み中のどこかで髪を切ろうと思っていたが、結局今日になってしまった。
今週中には注文してるものも届くし、次の週末に前の部屋の鍵を返すので、そこでようやくひと段落という感じだ。年が明けて少し遅れて新生活スタート。