ちょっと分かりづらいかもしれないけど、中学のときに仲良かったグループの友達が他のコミュニティで出来た友達の輪の中に中学グループの中の一人を誘って新たなグループを結成している。
まあ、それ私誘われてないんですけど…でも誘われなかったからって仲間外れにされたーー!とかはないんですよね。友達の友達は他人と思うタイプなので、中学の友達もそんな私の雰囲気を察していたんだと思います。
それはそれでいいんですけど、友達の結婚式に呼ばれたときにソレがハッキリとわかって、友達いるのにアウェー感を覚えることもありました。
年数的には私の方が長い付き合いなのかもしれないけど、新グループの方が濃い付き合いはしてるんだろうなっていうのはわかりました。それでも仲間外れにされたーーってのはないけど、私にはわからない話をしてそうなときはどうしたら良いのかわからなかったな(笑)
けっこう人生では似たようなことはあって、それで仲間外れにされたー!ってのもないんですけど、そこにいるのにアウェー感あるって私あるあるだなって思ったりしてます。後から来た人の方が馴染んでたりとかそういうのも。
これが染み付いているんだろうな。家庭の中でも家族の一員だけど、なんか馴染んでないときもあったし、そういう馴染まない性質みたいのがあるんだろうと。
馴染むってなんだろうと思う。友達は友達だし、家庭の中の私は家庭の私だったし、でもなんか常に独立してる感じ?でも、それが私という人間で、いるようでいなくて、いないようでいる。これは考えようによっては強味なのかもしれない。ということにしておく。半透明人間的な…
頭痛だなーって思って寝ると、そのまま朝も頭痛だったりするので、寝て治るってないのかもしれない。
頭痛薬飲んで寝ればよかったー
茶碗に卵をといてご飯をいれてシラスをいれて大葉をいれて醤油を入れ塩入れて混ぜてからフライパンで炒めるチャーハンを作った。美味しかった。全部電子レンジでも出来るのかも
ネットを漁っていたら見つけた投稿。とある店の会計システムが自動で金額を計算する仕組みが、子どもから見たら不思議で親に疑問を投げかけたら、親が「うるさい」などと言って取り合わなかったという。
「子どもの疑問の芽を摘む」「一緒に考えようとしないのはどうなのか」とか色々意見が出ていて、私もその意見には概ね同意だった。自分も親に質問とか出来なかったのは答えてくれないし、バカにされるのが嫌だったからというのもあるよなって思い出したりしていたし。
でも、コレ別の視点で見てみると、ちょっとコワイんです。この一連のやりとりがネットで拡散されて、親への批判を集中させることが…さっきも書いたとおり、私も今回出てきた親のような態度ってしちゃいけないなって思うんですけど、思うからこそコワイ。なんか批判したつもりじゃないし、自分もそう思うってだけなのに、自分の意見は正しい!みたいに心が変にそそり立つような感じ?そういう妙な正義感に似た違う何かが現れて来るのがコワイんですよ。
自分も子育てしているからってのもあるかもしれないけど、完璧じゃない日常を知らぬ誰かに切り取られて、こうするべきでは?なんてやられたら、それがいくら正しいことでも受け入れられないかもしれない。自分もこういうところで、ひっそりとはいえ主張はしているし、吊し上げしていることへの吊し上げなんだろうけど、吊し上げて、自分は正しいことを言っているという感覚を人は持ちたいのかもしれない。それをするには正しくない素材が必要で、私達は常に素材を探しているし、常に素材にされる毎日なのだと。見なきゃいいのだけど、目に入ってくる素材と、素材を使って調理された何か。
公平性なんていうと大袈裟かもしれないけど、素材に対してのいくつかの角度を持っているように意識しないとすぐに調理されるし、したくなるんだろうと思うのです。
今、ドラマをみている。
冒頭で浜辺を歩いている小さな子と女の人がいる。
小さな子が、どこから海?と女の人に聞いていた。
水があるからところじゃない?
浜辺に打ち寄せる波をさして、ここからと指す。
ドラマの意図なのかな?
その後に、海がどこから始まってるか知りたいのか知りたいの?と女の人がきく。
小さな子が海の沖をさして、海の終わり?と聞く
とにかく私はびっっっくりした。
海の始まりは沖の方だと思っていたから。
自然災害がある国だと、平和な生活が一瞬で壊れることがあるという実感があるせいか逆にそういう破壊的なゲームはあまり出てこない気がするんだよな、しらんけど
なんかどれも結局は今の暮らしが細々と続いてほしいよね、みたいなところに収まっちゃう
平家物語冒頭の祇園精舎の鐘の声みたいな儚いものが消えゆくところを描くのはアメリカみたいなでっかくて安定した国のほうが上手い気もする
しらんけど
こういう意味も理由もないぼやき、もうここくらいでしか書けないな 正解を求めてインターネットやってるわけじゃない
母の葬式をきっかけに疎遠だった兄夫婦との交流が増えた。
生前の母は父の不義や田舎ならではの人付き合いに疲労困憊して心を病んでしまって、統合失調症の兆候もあった。
母から電話がかかってくるたび嘘か本当か分からない話を延々聞かされた。結婚式で1度挨拶しただけの義姉について、あれは財産目当てだとか散々ネガティブな話を聞かされてきた。
実際に対面してみると義姉は底抜けに良い人だった。
義姉が話す思い出のなかの母はすごくチャーミングで気遣いに長けたパワフルなお義母さんだ。こんなに何でもポジティブな目線で物事を解釈できる人と接したのは初めてだった。
何気ない会話のなかでも小さなきっかけを見つけては「お義母さんが言ってたこと思い出した」「お義母さんとこんなことがあってね」と思い出を話してくれる義姉。
その思い出がどれもキラキラしていて、お世辞にも前向き人間とは言えない性格の自分は、自分が見てきた事感じてきた事との乖離を感じるようになってきた。
先日、義姉とのメッセージのやり取りで『主ちゃんはお料理が上手だってお義母さんがよく自慢してたよ』と言われた。
自分の思い出のなかにいる母は一度も料理を褒めてなんかくれなかった。具材の切り方にダメ出しされ、味付けにダメ出しされ、手際の悪さにダメ出しされ、完食してくれたこともなかった。
ただ義姉にマウントを取りたい一心で美化されていたことに、なんとなく傷ついた。
義姉には自分目線の事実については話していない。
義姉に悪意はないし、接しているだけで自然とポジティブになれる素敵な人なんだけど、母の話題で乖離を感じるたび暗い気持ちが湧き上がることがある。
そんな気持ちになるたび、やっぱり自分は本質的にネガティブなんだなと思い知る。
昨日はラーメン食べて、チョコレートドリンク飲んでそれだけやって2時間くらいで帰宅した。体調万全ってわけじゃなかったけど家にいても休めないので心には効きました。
アナーキーだと言って自分だけでやっていたらただの独りよがり、アナーキーは無政府状態の状態を言う言葉だから。ロックやパンクのような精神も、反骨精神や壊して新しく作り変える物が改善や要求を主張される物でなければ、ただワガママに暴れ回ってる子供と変わらない。何の事かと言うと、今の時代のSNSを中心としたネット社会の状況だ。Twitterの出始めは何をつぶやけばいいのか、みんな試行錯誤で素朴だった。そのうち、その人しか見れなかった世界がアップされるようになり、ちょっと奇を衒った物がアップされ、最近はただ何でも良いから目立てばいいになり、結局は過激な物にはつい目がいってしまうものだから、それが他人への攻撃になり、本当に恨みがあるのかないのか、ただ注目を集めたいが為か、本当か嘘か、何の境界線も判断もない物が溢れてきてしまってる。ここまでくると嘘も本当も混ぜこぜで、もう何をしても、何を言っても、何の意味が無くなり、ただのノリだけで動いている世界になっている。そしてそれがリアル社会に溶け出しているのが、今の社会環境なんだろう。だから今は、極力ネットは生活に必要な必要最低限の接点を持つだけで、外からこの状態が落ち着くのかどうか見守るのが、今のところの精神的にも生き方においてもベストな選択のような気がしている。
誰にも言わないでと言いながら、勝手にこちらの意思とは関係なく自分側に引き込んでいくのは卑怯…
そうね、これは確かにそうだよねって思う。でもこういうのってどこにでもあるよね〜ホント昔からある。
みんな仲間がいないと不安なんだなって思う。何かが好きという仲間より何かが嫌いという結束を結びたがるよね。大した嫌いじゃないのに仲良くなりたいがために嫌い側に入っている人も見てきた。
まとまらないけどホントシンドイ〜ってまとめとく。