五輪の選手は、まず自分の為に競技するべきだ。もちろん、今まで応援してくれてきた人達や中継を通して応援し始めた人もいる。でも、その道で頑張って努力して進んで行こうと決めたのは、あなた自身なのだから、あなたの人生なのだから、思いっきり自分の人生として自分のためにやるべきだ。みんな、そんな自分の人生と戦ってるあなたの存在を見て、それを応援している。国の為とかファンの為とかで、上手くいったら乗っかってダメだったら一緒に悔しがる訳でもなく文句を言ってるような、無責任でズレた考え方の人間の意見なんてほっておけ。
20年付き合ってる時計、昨日修理を終えて戻ってきました。
電池がなくなって交換に行っただけでしたが、時計屋のプロが見ると時計のガラスがいつ剥がれてもおかしくないということでした。
頼まれていないことを勧めるのって難しいけど、電池交換以外もしてもらえて私は嬉しかったです。4000円で直りました。
昨日、ちょっと嫌なことがあって…簡単に書くと、前に歩いていた人が入口で日傘を丁寧にたたみ出し通路を塞ぐんですよね。その隙間をなんとか通ろうとしたら前から突進してきた人に怒鳴られたという顛末なんですけど…
これって、そもそも前にいた人が止まらなければ起こらなかったし、前の人が突進レベルで歩いてこなければ起こらなかったと…私は通れない…って思っていたのも前からも人が頻繁に来るからでもあったんですよね。だから確認していなかったということはないと言い切っちゃっていいかなと思います。通れると踏んで通ったのです。
突進してきた人も私が横から出てくると思わなかったから、よく見ないで突進速度で歩いていたんでしょうね…でも、後ろが詰まっちゃってるし、前の人が止まってるから私が進まないと流れない感じだったから。
この出来事があって思い出したのが、下のきょうだい2人が喧嘩をしていたのに、何故か私が1番父から怒られたということがすぐ記憶の先頭に出てきて。きょうだい2人が喧嘩をして父に怒られているのを上の子として仲裁しなかったということで怒鳴られたのです。結果的に1番私が怒られた出来事でした。
理不尽なことや、納得出来ない理由で怒られたりすると、真っ先思い出すのがこの出来事なんですよね。理不尽な事って生きていれば何個もあると思うんですけど、理不尽な事が起こるたびこの出来事が頭を支配してツライです。
父は何か起こると絶対に私を怒鳴っていました。それが理不尽なことばかりで怒られたことに納得がいっていないことばかりだったんですよね。だから、もしかしたら私に怒っておけば解決するっていうオーラみたいのがあるのかな?なんて考えてしまうのです。
子どものときに、こんな怒られ方をしていなければ昨日の出来事も、ムカついたりはしたと思うけど、もっと明るいムカつき方というと表現が変ですけど、サラッと噴火して切り替えられていたんだろうなって思うのです。
いつまでネチネチ…外側からみたら私はそう見えるかもしれないけど、ネチネチ噴火する理由ってマグマのように溜まっているものなんだなと不惑まで生きてきたからこそ思うのです。
自分を大事にできない人は、人を大事にできない。
世の中には、時に、自分をどうしても大事にできない人がいる。自分という存在の抱えた矛盾を解決できなくて、どうしても自分が嫌になる。それはその人の、その人らしい理由からくる尊い理由だ。
自分を大事にすることが、いいことと言われる。
でも私は、人生のどこか、一生とは言わないまでも長い時間のどこかで、自分を嫌いになる時間があることもいいことなんじゃないかと思う。安定した精神状態に自らを置く必要がない時期もあるんじゃないか、と思う。 それは成熟の時、樽の中で熟成をしていく酒のように、ある空間の中に閉じこもり、自分というものを深めていく。深めていけばいくほどに、矛盾という埋まらないかと思われた距離の間に一つの統合されたきらめく輝きが見えるのかもしれない。
やりたいという動機から行動することも、やりたくないという動機から逃避することも、どちらも行動であり、歩みを進めていることに変わりはない。 私たち人という人間は、おそらく、止まるということが難しいんじゃないかと私は思う。 望んで行う行動が、幸せに導いてくれるとは確約されていない。「なんだ、こんなものか」「あれ、案外自分にしっくりこない」「努力してもかなわなかった」そう思って腰を下ろした時、私を幸せにしてくれていたものに気が付いたりする。逃避して逃げついた先が、つねに不幸と直結しているだなんて、多分だれもそこについた自分を振り返るまでわからない。
それと同じように、自分を大事にできない、嫌うような時間を、おのずから選択して人生を生きていても、それはそれでいいんじゃないかと思う。
結果論だと、簡単に言ってしまうつもりは別にないけれど、それでも、逃げることや嫌いことに負い目を感じ、それに方向転換すべきだと思い悩むくらいなら、熟成期間を楽しむのも私はありなんじゃないかと思う。
私たちは生きていて、本来何の責任も義務も背負ってはいない。なのだとしたら、自分を嫌う時間も、物事から逃避する時間も、すべて尊い人生の一点、一時、一滴であるんじゃないかと私は思う。
ただ、その結果を得るためには、生き続ける必要がある。それだけは、私の中で絶対的に自分にも、人にも押し付けたい、呪いであり、祈りだ。どうか、あなたも、私も、どんなに幸せでも、どんなに苦しくても、生き続けていられますように。
GoogleのAIのCMがテレビで流れてる。
みんなが色々な事をみんなAIに頼んで頼って解決してるCM。
でも、あれ全部迷いながら考えながら、みんなで話し合って決めて、それが良くても悪くても、みんなでやった事が良い思い出になる人生の場面ばかり。
ひとりでますます解決できるようになったら、ますます、ひとりでいい世界、個人主義が絶対的になりそう。
AIは便利だけど、使い所間違えて勧めてくる事多いな。
もっとほんとに必要な場所が沢山あるけど、一般人は気づきづらいとこばかりで、目立たなくて沢山の人に常に使われる訳でないから、儲からないから、目立つとこに使ってるのかな。
どんどんAI縛りにされていく世界。
高校のときの友達が夢に出てきた。3人組で仲良くしていて、そのうちの1人。もう10年くらい会っていないのだけど、その1人はSNSをこっそりチェックはしている。今日夢に出てきたのはそちらの友達とは別のほう。
夢だから唐突なのは当たり前なんだけど、当時の友達の恋人と結婚したかどうか聞いてるし、普通に話していて変な感じだった。まあ、夢だから変なのは当然か。
でも、実際会いたいかって言われたら微妙。やっぱりあの頃のように本音で話せないし、だからといって本音の一部を掬い取り合う会話もつまらないし疲れるから出来ない。
なんだかおかしいな〜って思うのは、急に友達でもズケズケ聞いちゃいけないって価値観がやってきて、それに適応しなきゃならないこと。特に高校生のときなんて1番本音ズケズケ、他では話さないような事柄を話して仲良くなってきたのに、それをしてはいけないタイミングが突然くる。それが私には掴めなかったなと。
本音を話してきて深まった関係は、本音が話せなくなった時点で終わる。書くと当然の事なんだけど、そのタイミングや瞬間がわからないし、それは突然やってくる。それに気がついたときが虚しくて、形にならない感傷みたいのを味わうから、誰かと本音ズケズケなんてもうやらないだろう。
SNSを見てる子よりも、今日夢に出てきた友達のほうが実は好きだったなって思う。当時からそうだったと思うけど、気が付かないふりしていたな。その部分は高校生の私の方が大人だな。
時計の修理が完了したとのことで取りにいかなくちゃ。
修理完了のお知らせがたまたまスマホを触っていたときだから、すぐに電話に出れてよかった。スマホをよく触っている自覚があるのに電話はいつも出られないタイミングでかかってくることが多い。そういうタイミングが合うだけでもなんだか嬉しい。
有休を使って休みを少し延ばした。外が暑いと冷房の効いた部屋にいてもやる気があまり起こらない。
毎週末、ネットで物件探しをしている。本格的に引っ越しを考えるのはもう少し涼しくなってからだけど、どの辺のエリアに住もうか、家賃相場はどのくらいかなどの感覚をつかみたい。都内は同じくらいの条件の部屋でも家賃が高くなっている気がする。
さて、どうするか。予算を上げるか物を減らして妥協するか。悩ましい、でもこういうことを考える時間は割と好きだったりする。
SNSにしろ、スマホにしろ、IT系のプラットフォーム企業は、ユーザーに自由にさせているようで、ここからはできません、お金かかりますとか、上手く進路を誘導しながら、まるでユーザーを羊の群れのようにどこかに連れて行く羊飼いのよう。どこに連れて行かれてるんだろう。SNSとかでユーザー同士のトラブルは、まるでお構いなしでほっとくけれど、自分達が決めた道筋から外れるのは、使えません、できません、課金してくださいで、できないようにしてる。AIが普及してくる時代、これからみんな、どこへと連れて行かれるのかな。
朝8時までにウォーキングを済ませたら、夕方6時まで、一歩も外に出ない。
暑すぎて、外に出たら蒸発しそう。
在宅勤務のありがたさをひしひしと感じるけど、他の人に話を聞くと、これまで在宅だったのに「この夏から(!)」お試しで出社方針が決まったとか。
なぜそんな惨いことを社員にさせるのかと同情しかない。
出社が必要なのかもしれないけど、お試しなら別に今スタートする必要はないでしょうと、誰もが知る大手企業の決断に唖然とした。
また、先日止む無く原付で昼間外出したけど、ほんの10分の運転で眩暈がしそうだった。
風を感じるからエアコンが効かない車よりマシだと思ったけど、全身に日差しが刺さるのは盲点。
それでも、近所の高校のそばを通ると、長そで長ズボンのユニフォームきて野球部のメンバーが練習してただけでなく、1人の野球部員は日陰もない道路わきの草むしりを(させられて?)していた。
午後2時。
最高気温38度なのね。
彼の周りに水筒らしきものもなく。
野球部の練習はまだ本人らの意思もあると思う。
でも、草むしりをたった一人って、どう見積もっても、本人の意思には思えない。
いたたまれない気持ちで横を通り過ぎようとした私と目が合うと、会釈までしてくれて。
あの時引き返してでも、彼にスポドリの一本でも買ってあげればよかったかと思う。
ニュースでは散々、この暑さは「災害」と言っているのに、現実は、これで。
外でお仕事されてる警備の方とか、どう見ても私の祖父母世代だったりすると、やるせなさでいっぱいになる。
外猫や外飼いの犬を見るのもつらすぎる。
飼ってる子ならせめて玄関に入れてあげてよ、と。
毛皮着て炎天下に放置されるなんて。
色んなものが見えてしまって、外に出るのが嫌だ。
蒸発しそうなのは体だけでなく心もだよ。