足の長い蚊が昨日からベランダに居座ってるな〜
いなくなった…と安心していたら移動しているだけだった。
そういうことはどんな状況でもありますね。
色々な事情があるのは理解しますが、転校って小4までだなって個人的には思います。
転入先の学校の雰囲気や運もありますけど、小4でも小6でも転校した自身としては小4が転校最終便だとは思うのです。
小6だともう輪が出来ているし、それは小4だって一緒ではあるけれど、輪の太さがやっぱり違うような気がしました。
私のような特に秀でたものかない児童はジワジワがっかりされていくっていうのを感じながら過ごしたのは、30年近く経っても抜けない嫌な感覚なんですよね。
大人になれば、ずっと同じ場所にいられないのは当たり前ですがこのジワジワがっかりされていく感覚は子どものうちに味わうことがない方がいいと思うのです。その感覚に気が付きにくいのも小4が限界でギリギリなんだろうなって思うのです。
二頭身くらいの着ぐるみと毎日一緒にいれば自分がスタイル良く見えるだろうけど、私はスタイルを良く見せるために二頭身の着ぐるみと常に一緒にいることは選択しないだろうなって思いました。当たり前といえば当たり前だけど、そういうとこ自分のいいところかもしれません。
電動自転車買って浮かれてた私。その辺チョロチョロするのに使ってた。
最近、私が電車で通ってる職場に、私と同じ地区から電動自転車で毎日通勤してる人がいると知ってビックリ。
確かに電動自転車買った時、ちょっと行けるかな?とは思った。
思ったけど出来ると思ってなかった。
諦めたら人はそこで成長が止まるという実例だなと思った。何かちょっと悔しい気持ちになった。
なので、今度のお出かけにはバスの所にレンタル自転車使ってみようかなと思った。
ショッピングモールって混んでるよねー
ウォーターサーバーとWi-Fiの契約のダンジョンをかわすのがちょっとめんどくさい
友達のような親子とかたまに聞くけど、逆に親子のような友達ってあまり言わないですよね?
それが答えなんだと思います。親の役割は親の立場でしか出来ないし、友達の役割は友達にしか出来ない。
私の母はそこを混合させていたから子どもとしてはシンドかったなと。
子どもは子どもとしてのみ接していくことが大事なんだなと四十路アラウンドになってヒシヒシと思うのです。
子どもは親の友達じゃない。だから子どもに話す内容って限られるはず。ウチの母はその境界線がボヤけすぎてて、聞かされたくない話もいっぱい聞かされたような気がする。
一方で、友達が私を親のように頼ってきたと想像したら引きます。友達には友達の距離感、やっぱりあるんです。
友達ではないけど、よく妻が「私はあなたのお母さんじゃない!」って怒る状況、何かしら聞きますよね。あれも妻は妻としてしか見てはいけないんだと思います。甲斐甲斐しく世話をするのは親が子どもにだけで、あくまで親子関係があって不自然じゃなくなるものなんだと。
まとまりのない話になりましたが、オールインワンみたいな人はいないし、自分もそれを誰かに求めちゃダメだよという話でした。
旅するように生きることができるだろうか。
今の安定した生活を捨て、不安定に身を投じ、ただ生きるために生きる生活を求めている自分と、それを恐れている自分がいる。
その土地々々で自分ができることをして、また別の場所へ移動する。
そうやってこの世界を知りたい。
頭が痛くて午前中寝てしまって、お昼食べても頭痛いから2回目の薬飲んでまた寝てて、今起きたところです。
またまた不用品の思い出ですが。
高校のときの友達からもらったプレゼントがセンスないなーって思ってたんですよね。人からもらっといてセンスないなんて、ここまで切り取ると傲慢かもしれませんが、その友達ってこちらからあげたものに対してあまり喜んでなかったのかな?と思ったことが何回もあって、それならば自分はどんなものを私に選んでくれるのかな?なんて思ってしまうフシがありました。ここはちょっと傲慢ですけど。
食べ物やそれ以外のものを贈り贈られの状況があったのですが、こだわっていそうな割には大したものくれないな〜なんて思ってました。
こちらがプレゼントするときは、いつも相手のよくわからないこだわりに頭を使ってるのに、自分が持ってくるものはソレなの?みたいに思ってしまってたんです。
一癖あるマグカップや貯金箱とか、なんかバカにされてたのかなーなんて今となってはそう感じます。それでも、マグカップも当時は使っていたし、貯金箱もオブジェとして使ってはいましたが…
マグカップがたまたま割れたんですよね。そうしたら何故かホッとした自分がいました。ペアのマグカップだったんですが、もう片方は割れていなかったけど、時間差で処分しました。「友達からもらったまだ使えるもの」を処分しているのを家族に見られたくなかったので、こっそりとゴミ捨て場に持っていったのを覚えています。
貯金箱ですが、陶器やプラスチック製ではなく分類的には燃えるゴミだったので、裁ちばさみで切り刻んで捨てました。私、この友達、嫌いだなって思いながら作業していた気がします。
それももちろん家族には見えないように。大切な友達からもらった大切なものをまだ使えるのに処分するなんて…って目線が絶対に降って来るのがわかっていたので。
一癖ある人ってだいたい共感されると思うんですけど、あの人といると私が一癖ある人になってしまうんですよね。友達は素朴なもの、丁寧な何か、自然由来の何かについてこだわりが強かったのですが、こだわり対象が”丁寧な何か“だから、癖が強いように見えなかったんですよね。今となっては理解される部分も多いでしょうが。そのこだわりもそうだし、自分の要望を謙虚をまとって主張してくる部分にも辟易していたんです。自己主張が物凄いのに主張してるものは謙虚さ柔らかさだから気がつかない人は気がつかない。その謙虚な柔らかさで強引に予定を決められたりシンドかったのです。
それを私の家族は理解してくれなかったのです。それは私の問題だと。こういう人を嫌いになっちゃうとシンドイなって感じます。
不用品の話でした。マグカップも貯金箱もないけど私は今のほうが楽だし、あの人に何かを贈ることも贈られることもないのは幸せです。いらないものは捨てるって大事です。
いつも絵を描いてる人が書く小説、のびのびしてていいなと思う 読んでもらうために努力しなきゃ、みたいな焦りがない 文章に対する執着のなさがうらやましい