昨日は朝寝坊して(といっても6時前なんだが)自分のペースで好き勝手言う時間がなかったので朝からシンドイスタートでした。
というわけで、体中にネガティブがたまっておりまして、思いつくままにネガティブを吐いていきたいと思います!とポジティブに言ってみました。
さて、まあ私のネガティブ増量キャンペーンは夏だからっていうのは確実にありますね。今、家族も全員夏休みなので自分の時間もペースもないです。こう書くとちゃきちゃき動いて家の事頑張ってるみたいに思われるかもしれませんが、そうではないです。
堂々とダラシなく出来ないことにストレスを感じているのです。
ダラシなさというのは誰にも見られないからこそ輝くというか。だらけることに輝くとつけるとなんともオカシイですが、ダラシなさの様式美みたいのがあるんですよね。それを果たせないもどかしさ。何もしなくていいだけだけど、そこに人の目があってはならないのです。
後でやるを繰り返して、しょうがないからやるか〜やりたくないけどっていうのをやりたいのです。
コップもいちいち洗いたくないけど、自分のタイミングで次のコップを使いたい。洗うのは食洗機がやるからある程度食器が溜まったらまとめてスイッチを押したい。食洗機って神です。洗濯物はその都度手洗いしないである溜まったタイミングでまわすのに食器はそれをしないのはおかしいのです(個人の意見)
もっともっともっとだらけたい。もっとだらけたいということは一応生きたいということになるのかな。生きるためにどれくらいの力を配分をしていけばいいか?ということをだらけたいという言い方にしてるだけ。私がキチンとしたいといったら自分を犠牲にして命を削ると言っているのと同じだから気を付けてあげてくださいって誰が見てるわけでもないんだけども。
ダラシなさを堂々と宣言するだけで心が軽くなりました。ダラシなさは生きることなのです。