英語別に嫌いなわけじゃないけど、「俳句に最上川と出て来たら最上川そのものより紅葉の赤色とかあるいは戦の跡をしみじみと感じる」みたいなちょっとめんどくさい(褒め言葉)感性の日本語がやっぱ一番面白くて
ところでこの文章は先週打ってほっといたやつなんだけどここオートセーブ機能もあるのね かがくのちからってすげー
情報を纏ったただの感情の放出が苦手なんだろうな〜
「いい事を言ってるけど、なんか嫌」って気持ちはコレなんだと思う。
言葉などを何かに自分の手で書く・刻むで記録する事は、その人のその時をそこに閉じ込める事と同じだ。
刻み込まれる媒体を通してその時の思いや考えを、その人の直の筆圧や軌跡で時間の関わりを持たせず、反射としてそれを見た人に届ける。いわば、2人でする壁に向かって投げた球のキャッチボールに似ている。
デジタルは情報しか伝えられないからこれができない。何ができないのかと言うと、人と人の無時間コミュニケーションだ。偉人の直筆や芸術家の作品を直接見る事は、その時のその作者の気持ちや考えが作品を壁にして跳ね返ってくるボールのように直に取れる貴重な体験だ。そして、この間の媒体が少ないほど鮮度は高くなる。デジタルよりもアナログの方が作者を近くに感じやすくなるのはそのためだ。特に生成AIは、消費社会内の効率主義ビジネスでは最適だが、AIという代筆者が発信者に必ず関与してしまうので、情報としては届いても、その作者をその後ろに感じる必要性のある事柄では役に立たないだろう。完全オートマチックに極限的に近い場合はそれは道具というより、自立的機械と言う方が近い。
人間社会は人の人による人の為のコミュニティであって、どこかにあると勝手に思ってる世界の理の為にあるわけじゃないから、人が作ったその人を感じられる物が好きだ。
弟キャラっていうんでしょうか。ちょっと抜けてるけど可愛い、面白いヤツ…って周りから思われてる感じの男の人。
全員とは言わないですけど、こんな弟キャラなのに実はやりたい放題わがままなだけ…みたいな人がとても苦手。
こういうタイプって、自分が抜けてて面白いと思われてるのを自身がよくわかってて、それを全面に出して盾にしてるんですよね。その盾を使って好き放題言いたい放題してるんですよ。
キャラを押し出す相手も選んでいる。どうでもいい、使えないと思った相手には態度が全然違うもんだからわかりやすい。そう、私はこういうタイプに使えないって思われて態度に出されやすいんですよね。
この人人工弟キャラだったんだ…って最近思ったのは某アイドルのおじさんかな?そういうキャラに見せて盾を作ってダラシない部分や不誠実さを隠していたんだなって思いました。特に好きでもなく、嫌悪感もなかったけど、こういうタイプなんだ…って思ったらちょっともう難しいかなと。
何かしら弟キャラ、妹キャラってのもいるのかな?そういうタイプに被害に合ってる人はどうしても自分の経験を重ねて弟アイドルおじさんを見ちゃうと思うし、受け入れられないのかもと。だからといって叩くとかそこまではないけど、やっぱり自分の嫌な記憶を思い出させる人はエンタメの世界では難しいと思うのです。
真面目な話ししてんのに
電話切んなよ
体調管理くらいしろよ
なにしてんだよ
ホント都合いいですね
わざと?とかって思いたくなくても思っちゃうよ
はあ。
もうどうしよ。
仏教なら仏像、キリスト教ならイコンという感じの絶対善の存在と対峙した時、それらが心の中に話しかけてくるのを知ってる。あれらは全部自分の心の声の投影で、頑張った人にはお前は頑張ってるなとか、ズルい事をした人にはズルい事をしたなとか、自分で自分に話しかけている。何をしても自分の事は自分でわかっているし、自分の事は誤魔化せないものだ。近所の神社やお寺とかの絶対善に、昔の人はよくお参りして、自分で自分の禊を欠かさなかったから、世の中が全体的に穏やかに流れていたのかもしれないな。
自分にはなんて声が聞こえてくるかと言うと、お前は何してる、それでいいのかって声だ。
さあ、今日は先生に会いに行く。何年ぶりだろう。10年近く会えてないかもしれない。タイミングが合わないと居なかったりして会えないからな。先生は上野の博物館の中だ。先生に会ったら、自分はどの位上達したかを見て確認する。先生を見れば、自分の腕が上がってれば、前よりももっと先生の良さがわかって、どの位まで先生に近づけたかがわかるんだ。まあ、一生かかっても、先生の良さを全部丸ごとわかる事は無理だろうけれど。だって先生は国宝だから。さあ、久方ぶりだ、楽しみだ。
連絡来るまで待ってたよ
待ってたけどさ
思ってくれて嬉しいよ
って違うだろ
待たなきゃ連絡取れないんだよ
そういう状況いつも作ってんのそっち。
あたしは割とさみしいけどね
っていったら
あっごめん
って
は?
ごめん、いらっとしたから返事すんのやめたわ
堕落論といえばあの有名な堕落論だけど、私が堕落論というタイトルで何か書いたら全然違う堕落ばかり書いてしまうのだろうな。
堕落論というかダラシない論になるだけかな。
人間は生き、人間は面倒くさがる。
昨日は朝寝坊して(といっても6時前なんだが)自分のペースで好き勝手言う時間がなかったので朝からシンドイスタートでした。
というわけで、体中にネガティブがたまっておりまして、思いつくままにネガティブを吐いていきたいと思います!とポジティブに言ってみました。
さて、まあ私のネガティブ増量キャンペーンは夏だからっていうのは確実にありますね。今、家族も全員夏休みなので自分の時間もペースもないです。こう書くとちゃきちゃき動いて家の事頑張ってるみたいに思われるかもしれませんが、そうではないです。
堂々とダラシなく出来ないことにストレスを感じているのです。
ダラシなさというのは誰にも見られないからこそ輝くというか。だらけることに輝くとつけるとなんともオカシイですが、ダラシなさの様式美みたいのがあるんですよね。それを果たせないもどかしさ。何もしなくていいだけだけど、そこに人の目があってはならないのです。
後でやるを繰り返して、しょうがないからやるか〜やりたくないけどっていうのをやりたいのです。
コップもいちいち洗いたくないけど、自分のタイミングで次のコップを使いたい。洗うのは食洗機がやるからある程度食器が溜まったらまとめてスイッチを押したい。食洗機って神です。洗濯物はその都度手洗いしないである溜まったタイミングでまわすのに食器はそれをしないのはおかしいのです(個人の意見)
もっともっともっとだらけたい。もっとだらけたいということは一応生きたいということになるのかな。生きるためにどれくらいの力を配分をしていけばいいか?ということをだらけたいという言い方にしてるだけ。私がキチンとしたいといったら自分を犠牲にして命を削ると言っているのと同じだから気を付けてあげてくださいって誰が見てるわけでもないんだけども。
ダラシなさを堂々と宣言するだけで心が軽くなりました。ダラシなさは生きることなのです。