高校はハッキリいうと底辺高校で勉強はやりたくないけど高校生にはなりたい人たちが多く集まっていたようなところに通っていました。私もそんな感じです。
そんな中で各種検定の勉強も形だけはしていましたが、とある先生が「授業よりも先の級を受けたい人がいたら私に言うように」と言っていて。高校生の独自の軽いノリ?で、先の級の勉強をすることになった私。他の友達も数人そんなノリで。
これが結果的に私にとって良かったなと思っています。もう四半世紀も前のことなんですが。
勉強をしたら検定取得という形で手元にダイレクトに反映されたことが単純な私にとってとても良かったのです。
やればどうにかなるってあの時代に体感したことはよい経験でした。
あの頃に指導してくれた先生にはとても感謝しています。相当大人の年齢になった現在、振り返ると自分を応援してくれたサポートしてくれた大人っていうのは両親よりもその先生のことを思い出してしまったりします。まあ、私の両親って私に期待していないというか、お金がかからないことが1番の親孝行だと思ってる母と、気が効いて自分をいい気分にさせてくれる子どもを良い子どもだと思っている父の間で育っていたからそうなるのはしょうがないかなって思っています。
あの頃みたいにいい意味でノリで色々なこと始めらられたらいいのにって思います。いい意味の軽いノリがもう1回だけ湧き出できたらいいのにな〜
パート先でのモヤモヤ。
自分としてはパート先での人付き合いは、それなりにいい関係であればいいやと思ってて、さほど個人的な話題にも踏み込まないし(興味がないのもある)、そんなにフレンドリーな方でもない。
それでずっと来てて、不満もなくいたんだけど、春から一緒の時間に入る事になった人がたまたま前からの知り合いで、その人も私と同じくらいそこに勤めてると知った。
で、その人は何というかいい感じにフレンドリーなとてもいい人で、新人さんにも声かけして話を振ってて聞き上手で、そこそこ周りの人のプライベートな事も知ってて、みんなと和気藹々なお付き合いをしてるんですよね。
自分と引き比べる必要がないとは分かってるし、同じように出来ないのも仕方ないけど、どうも私はその人とうまく付き合えないというか、その人が周りの人に対する態度と私に対する態度が違ってて妙に落ち込むんですよね…
その人に嫌われてる…というか避けられてるというか、さりげなく外されてる?と感じる瞬間があって、モヤる。
いい人で素敵だなと思ってたから、意識して見てたからそう感じるのか、自分でもよく分からないんだけど、どうにも気分的にはやりにくい。
多分職場で重宝されるのはあちらの方だと思うし、私も努力すればいいと言われればそれまでなんだけど、正直どうしていいのか分からないし、そもそも感覚でしかないからはっきり何かあるわけでもない。
被害妄想かもだけど、何度も静かにフェードアウトされてる人付き合い苦手の自覚があるのでまだか…という気もしてる。
はぁ…憂鬱。
明日の夜はきっとべそべそ泣いてると思いますが、
土曜日のお昼 大好きだ!
そして、こんなに元気なのは、昨日休んだから!
会社行ってないから!
3連休ありがたい。
昨日はおでかけしたから、今日はずーっと家にいる。
明日はどうしよう?と、考えられるくらい元気。
ただ、明日の夜は泣いていることは決まっている。
静かな場所で好き勝手してるのが1番自分らしいです。
キレイで明るい何かでも、それが造花なら意味がないって感情が常にありますね〜
その人の人格と仕事内容は別物って思うようにしているけど、やっぱりそう簡単に割り切れないこともあるわけです。
仕事内容やその情報だけを知りたいのに、変なノリの画像や言葉も一緒に目にしなくてはならないのは現代ではわりとありがちなことでしょう。
ネットやSNSがなければ、こんなことを知らないで済んだのになーとこの間もガッカリしたばかりでした。
他の方は、それを褒めちぎったり黄色い声援を出したりしてましたが、私はちょっとダメでした。
酒がその人をヤバくするのではなく、その人がヤバいということを酒が暴く。というフレーズを見たことがあるんですが、コレ、
ネットにも適用できるんじゃないかなって感じました。
SNSがその人をヤバくするのではなく、その人がヤバいということをSNSが暴く。まあ、そのまま当てはめただけなんですけど。
まあ、某SNSサイトのことをバカッター発見機なんて揶揄されていたのをみたことがありますし、そういうものなんだと思います。
聞かれたから答えるではなく、自分が見せたいから見せるっていうのはよく考えたら滑稽ですよね。なんかそういう「見せたいもの」に疲れちゃってるのかもしれない。だけど、人間だから見せたいもの聞いてほしいこともあるんだろうから全部に変な視線を向けることは出来ないけど。その見せたいものに救われることもあるから面倒なんですよね。
まとまりがないけど、知りたいことだけ知るって難しい世の中になりましたね。
焼きそばのソースの袋に書いてある「どこからでも切れます」
なんか、これを見てつい連想してしまったのが、どこからでもキレる父のことでした。
先日、下のきょうだいに聞いた話によると、父の体調を心配した声がけをしたときにキレられたそうです。病人扱いするのが腹立つみたいで。心配してるのにキレます。コワイですよね。
でも、おそらく心配しなくてもキレられたと思うんですよね。心配しなかったことに対してキレてくると思うんですよね。こんなに咳してんのに一言もないのかっ!て。たぶんこんな感じだと思います。
心配しようがしないが、もう時すでにキレてるんですよね。だからどの方向でもキレる。キレたいからどこからでもキレる。
こういうのずっと子どもの頃から見てきてるんでシンドいです。年をとったからキレやすくなったとかではなく、元々そういう性格です。コワイです。父にキレられた事を思い出しても、何故怒られたかわからないことばかりです。何故怒られたのか?私が悪かったと思うことが出来ないのです。
それは私が悪くないからです。もうハタチも2度迎えたような年齢でそう思うのだから私は悪くないんでしょうね。
父は「どこからでもきれます」マジックカットのような文言が相応しいのです。ただ、袋はどこからでもすぐキレて有り難いけど、人間はそれだと迷惑だということですね。
今からカップ焼きそば食べる〜
キャンペーンやってるみたいでシリアルコードからやってみようかと思ったら8月末で終了してました。こういうの多いな…
昨日はポイントで天丼を食べ、ポイントでカラオケをしてお金をほぼ使わないで遊べて嬉しかった。
一方でポイントを貯めるということはお金を使っていることには変わりはない…ということも少しは心に残しつつ、ポイント生活も楽しみたい。
よく使う駅の近くにある店に猫がいる。店の入口に猫が収まる籠のようなオブジェに収まっているのがその猫だ。
そのような場所にいるから、看板猫のような存在として表に出しているのかと思っていたら違うらしい。
「写真を撮らないでください、猫がびっくりしてしまいます」と手書きの貼り紙がある。
そうか、確かに今は手元のスマホで気軽に撮影出来るから、猫が好きな人にとっては看板猫のように見える存在感のある猫を撮りたいだろうって思う。確かに「撮影していいですか?」の一言をあまり言わなくなったというか、好きなものや撮りたいものは撮影して残しておくみたいな感覚が当たり前になり過ぎてるなんて思った。
一方で、その看板猫のように見える配置をやめたらいいんじゃないかなって思うのも事実。そんなに撮られたくない、びっくりしてしまうような猫を人通りの多い駅近くの立地で置いておくのもまた変だなとは思う。
経営してるのはお年を召した方で、昔からの感覚で猫を看板猫にしてるというよりは、一緒に生活しているだけなのかもしれないが、気軽に触れられたくない何かはしまっておくのが現代ではより大事なんじゃないかなと思った。
私は猫はあまり好きじゃないけど、猫のほんわかとした雰囲気とちょっと威圧感を覚える手書きの貼り紙が同時に存在しているのが混沌としているなーと。
その店にお客さんが入って純粋に買い物をしているシーンを見たことがない。猫と貼り紙とその奥に座っている老人…なんか入っちゃいけない気がする。わりと大きい駅だし、そこじゃなくてもだいたいものは買える。商売として成立してるのかなと余計なことを考える。ただ、勝手に撮影はやっぱりしてはいけないとは思う。でも、本当にびっくりしているのは猫じゃなくて店主なのかもしれない。
今日も引き続き座学で学ぶ日になりました。
1点気づいたことは、質問が出てこないことだ。
同期は毎回の講義で的確な質問を出しているが、どうやら自分は質問力が劣っている。
自分なりに考えた結果、深く考えられていないことが原因であると想定している。
なぜ、深く考えられないのか、、、。それは物事をそのまま理解しようとする癖がついていると思っている。自分の知識や経験と紐づけて考えることができれば、自然となぜの部分が出てくるに違いない。
なので、明日はしっかりと知識をインプットして、実際の商談や提案シーンを想像しながら業務を進めることにする。
また、もっとわからないことがあったら先輩方へ質問する癖をつけよう!
これで、更に新しい知識が身に付き、将来的に役に立つであろうと考えている。頑張るゾ!