ひとりになると、夫との過去を思い出す。
優しかったよな、とか、いろいろ。
嫌だなと思って、ひとりになるのに、思い出して、やっぱりいいやつだよな と思う。
そう思いたいだけなのだろうか。
ひとりになると、夫との過去を思い出す。
優しかったよな、とか、いろいろ。
嫌だなと思って、ひとりになるのに、思い出して、やっぱりいいやつだよな と思う。
そう思いたいだけなのだろうか。
最近改めてクレープ生地の作り方を習う機会があって、おうちクレープの可能性にときめいてしまった。
簡単な材料でかなりの枚数(直径15〜20センチくらい。ひっくり返すのも楽)焼けるので、夕飯時にやってみた。
甘味もそんなにないので塩味おかずを包んで食べるおかずクレープメインで、最後にデザートとしてカスタードクリーム作ってフルーツ切って用意した。
やってみると巻き寿司感覚で良かった。寿司と違って炒め物とか半端な量の作り置きでもいいしね。
それで思い出したけど、昔友達の家にお泊りさせてもらった時、彼女がホットプレートでどんどんクレープ焼いて、最後に肉野菜炒めや炒り卵をそのまま作って、プレートから直接とってクレープで巻いて食べてたのが楽しかったなって。馴染みないスタイルだったからすっかり忘れてた。
今回、教えてもらった時にあったレタスが家になかったので、千切り塩もみきゅうりを使ったんだけど、これがシャキシャキ食感で美味しかった。歯応え系生野菜はマストかも。
また今度やってみよう。
良く考えたら楽しい事も隙間にはあるんだけど、ついついメインが嫌だったらそれだけしかなかったような日と思ってしまう。嫌なことがあるときこそ、良かったことを小さくてもこじつけでもいいからカウントしていくのがいいのかな~
その当時楽しめたからいいのかもしれないけど、時間が経ってもったいなかった!って思うことは、無駄だったとしか言いようがないんですよね。そういうものってやっぱりありますよね。無駄なものは無駄だったときっぱり決めて生きていくことのほうが重要。
結婚記念日だったそうです。私のじゃないですよ。悪趣味でSNSを見ている元友人の結婚記念日。
赤ちゃんが大人になるくらいまでの期間って長いなー。あーオメデトーゴザイマスーって感じなんだけど、そういえば相手と付き合うとかそういうのが始まる時にちょうど私は友達として存在してたなぁと勝手に思い出していました。
結婚式も行きましたね。あの頃、私はお金なかったのに着飾って頑張ってたなー。だけど、元友人の思い出からは私はモザイク扱いで再生されているんでしょうね。
ご祝儀に三万、あの時しか着ていないドレスとかそういう装飾品合わせたらけっこうな金額だなー。こうやって書くと、私がケチみたいですが、当時は友達だから!という気持ちがあって、金額的には高いけど、高い、高い、高いとは思っていなかったんですよ。仲良しな友達の結婚式に参加出来るなんて嬉しいなって思っていました。
だけど、結局はこんな感じで会わなくなる。もう、私の存在なんかなかったことになっている。その後に出会った人とのほうが親密なんだろうなというのがコメント欄から伝わる。ああ、この人時間とお金使って結婚式行っていないのに⋯と。
冠婚葬祭にはケチらないのが常識で、それはそうかな?とも思う反面、ケチってもケチらなくても一緒だなーなんて思ったりもします。むしろ、続かない関係にお金を払うってもったいない。その当時はずっと仲良く出来るなんて思ってたから無駄じゃないって意見もありそうですが、まあ、当時楽しめたからいいでしよ?と自分にも思いますが⋯そのお金が今はどうでもいい人の結婚記念日に繋がっているのかと思うと、ああ、どんだけボランティアしたんだ私。って思ってしまうのです。お金は払ったからケチじゃないよね。そもそも自分に合わせてもらうのが当たり前の元友人に辟易したので⋯わざわざ労力使ってお祝いしたのに相手の養分にしかなっていないのが、一番の無駄で私の人生には何の思い出にもなっていないのです。お金は自分の養分になることに使いたいですね。そうしないと長い年月がたっても、もったいないと思ってしまうものなんだなと実感しています。
貧乏ではなくとも金持ちではなかったら、うちは貧乏〜というしかない時もあるんじゃないかと思うんですよね。
最近日差しがキツイのでサングラスを買ってみました。
サングラスといっても薄紫のスモークのかかった眼鏡のようなタイプです。
やっぱりあるのとないのでは違う気がしますが、私の見た目がコスプレみたいになってないか時々心配になりますね。
6年前は新しい仕事を始めて1ヶ月経った後らしい。もうその仕事も辞めてしばらく経ちますが⋯
で、今まだ無職不透明⋯ですね。どんだけ透明人間でいるつもりなんだ思いますが、透明人間になりたいなーなんて昔よく思っていました。
誰からも自分が見えてないって楽だよなーと。でも、「誰もあなたを見ていないよ?」と自意識過剰が邪魔をするとき、言われたことありますよね?もしくは自分でそう唱える。ダレモワタシヲミテイナイシーと。
でも、物理的にはやっぱり私誰かからは見えるんですよね。この物理的っていうのが厄介で、誰も自分のことを意識はしていないけど見ようと思えば見えるっていう事実が邪魔をして何も出来ないなーと思うんですよ。
だから今私が透明人間になれば誰からも絶対に見えなくなって、堂々と居眠り出来るのに⋯とか小学生の頃もよく考えていました。
精神的にではなく、肉体的にも一時的にでも姿を消せる能力があれば人間はシンドくなく生きられるのかなと。嫌な人がいたら距離を置くとか、よく言われますけど、それって精神目線の感覚が多いですもんね。本当に物理的に距離を置くのが出来ないから悩んでツライのですから、一瞬だけでも自分が見えなくなる技術があればいいなと小学生だった頃の私と結局同じことをシジューアラウンドな年齢でも思っているのがブレなさすぎて自分らしいですね。とりあえずまだ私、その技を修得してません。
またこの日がやって来た
今年はちょっと特別な思い入れが...
たらればで事実が違っていたら今の自分も変わっていたのは確かなこと
そうだったらどんな今があったのかな?
でも43年前はこんなに暑くなかったのは間違いない
退職からおよそ2年が経過しました。
元職場との人たちとは連絡は途絶えており、現在の状況は不明です。しかし、私の不在が職場にとって良い結果をもたらしたと推察します。
在職中は「業務範囲内で、規定に従って」という方針で業務に取り組んでいましたが、これが周囲に不快感を与えていたようであり、私としては対処のしようがありませんでした。
特別な意欲や能力があったわけではないため、「業務範囲内」かつ「規定通り」に業務を遂行することしかできませんでした。
そのため、そうした働き方すら許されないのであれば、退職するほかに選択肢はありませんでした。
現在では、業務範囲を超える事柄も業務であるかのように扱われ、規定外のやり方で進められていることで、皆が円滑に業務を遂行できていることでしょう。