夫が手術して入院してたんだけど、今日退院するので車で迎えに行った。
迎えに行ったと言いつつ、今は別居してるからまあ、送迎したってのが正しいか。
別居後にガンを発症して、この半年くらいそれにちょいちょい振り回された。
申し訳ないが、もう随分情も枯渇してたのでさほど心配もお世話もせずだった。
抗がん剤治療をして手術して一応今回のガンは切除されたという事で、今後は終わりなき経過観察の日々らしい。
なんだかんだ言いつつ車で送迎したのは、自分も術後に退院したその日はびっくりするくらい疲れた記憶があったので、人として送迎はしようと思ったのでした。
すぐ帰るべきではあったんだけど、これからまたしばらく買い物とか難しいだろうとすぐ食べられるものを買い込み、昼ごはん食べて帰った。
ちょっと歩いただけなのにとても疲れたとLINE来た。やっぱりね。送迎してよかった。私の心の安寧のために。
あの頃の自分にアイス買って労ってあげたいって思えてしまうほどそこそこ長い時間生きてきたんだと思うと、現在の自分にもアイス買って労ってあげようと思います。
ある立場のある方への「先生の質問に答えられなかった」とか学校での様子、特にネガティブな情報についての報道がされるたび、おそれ多いですが自分と重ねてしまってしまってシンドイ。
小学校のとき、親戚と同じ学校に転校させられて通っていた1年半ほどは、自分の学校での様子を観察されて報告されるという生活でした。
それを思い出すとやっぱり小学校2.3年の頃の私、頑張ったなーって思います。なんかあの頃の私にアイスとか買ってあげて労ってあげたいとおかしなことを考えます(笑)
今、自分も子育てをしているので、自分の子どもが同じような目に遭わないにすると思うけど、ウチの親はそれをしてくれなかったんだなーって思いが同時に出できて2度目のシンドさを感じているのです。
私にとって子育ては自分の経験をもう一度振り返ることに繋がって、その振り返りが辛いことも多かったりします。子どもが嫌いとかそういうことではなく、自分の人生をどうしたってもう一度思い出してしまう部分に関して、子育てに向いてないなって感じます。
子どもがまだ小さかったときより、ある程度大きくなった今のほうが、自分の記憶とリンクしてしまいやすくなりキツいですね。
親にはなんてことしてくれたんだって思いがやっぱりあります。自分が親になったからこそより実感するんでしょうね。
ニ度あることは三度ある。なんて言いますから、また3度目のシンドさが出てくることがあるかもしれない。それはきっと私の子どもが私と同じように感じてしまったときかもしれない。
なんてことしてくれたんだって子どもに思われたら、私の子育ては失敗だと思う。でも、それは今はまだわからなくて、何年も経過して子どもの心の中だけに解答されるから、それを知ることも知らないこともコワイなって思いながら生きてるのが現在ですかね。
炭酸水作れるやつ持ってて、しょっちゅう炭酸水飲んでる。
美酢系常備してて、割って飲む事も多いんだけど、最近は炭酸水にシークワーサー果汁だけ垂らして飲むのが1番多いな。
レモン果汁の代わりにシークワーサー果汁を使ってるので、自然にそうなってる。
シークワーサーの苦味が気に入ってるんですよね。
まだ暑い〜
ホントに秋は食われた感じ…
秋物のジャケット、今年も出番少ないのかな。なんかもったいない〜〜
巷で出回っている定説は、「部屋が綺麗だと心が整う」といったことだけど、明らかに私は部屋を綺麗にしよう、整えようとおもわなくなってからの方が心が穏やかですね。
足の踏み場がないレベルとか、健康に明らかに良くないというレベルではないと自分では思っているので、これでいいのかなと思います。
元々ダラシないって自覚はありますけど、家でもきちんとしていたら疲れちゃうんですよね。ある程度出しっぱなし、やりっぱなしって自分にとっての解放感は半端ないです。
たぶん片付けをキチンとやったらわかりやすく人生が急上昇するくらいの変化がないと嫌なんだと思います。
例えば、何か嫌なことが起こるとします。部屋の整頓をしているときに嫌なことがあれば、それを受け入れることに3倍くらいの時間や労力がかかってしまう気がするんですよね。部屋綺麗にしたのに悪いこと起こるじゃん??ってなってしまうと思うのですよ。実際、似たような感覚を味わっているので、これは私の中では定説ですかね。
よく言われている定説が当てはまらないこともけっこうありますよね。その代わり自分だけの定説が出来上がって、それはけっこう正しかったりするのです。
言い訳と思われるかもしれない。実際言い訳でしょうが、自分だけの定説を信じるのも生きていくうえでは必要かなと感じるのです。今日は掃除機かけるか。
ちょいちょい米を見かけるようになったけど、未だに玄米が入手困難。
玄米を常食してたのでとても困ってる。
玄米常食でも時々使うからと白米買ったばかりなタイミングで米が消えたので、まだ白米ならあるけど、それもそろそろ心許なくなってきた。
なので米を温存して粉食しようと真剣に考えて図書館で「ウー・ウェンの北京小麦粉料理」なる本を借りてきた。
中国の粉食は日本のうどんとかだけよりもバリエーションがあって簡単そうなのがいいなと思って。
中国人の知り合いは割とすぐ餃子作ってて、皮ももれなく手作りしてた。粉食が身近なんだなと思った記憶があったので。
実際のところ「あ、その食べ方にも名前があるの?」みたいな粉食があった。
今日の昼はそれで作った。
スープを作って、そこに少なめ水でポロポロ状態に小麦粉混ぜただけ、何ならちょっと粉残りしてるレベルのまで一気に全部ぶち込む。
すいとんより手がかかってない。
そうするとトロミのあるスープにすいとん状の何かが浮いてるスープ完成。
これが美味しいの。時々餃子の皮が余ったらワンタン的にスープ作るけど、それより歯応えあって美味しい。
適当な混ぜなので歪な形した具がいい感じにスープに絡んで味が染みてていい。
これはめちゃ簡単で思い立ったらすぐ出来るからまたやりたい。
粉食はちょっと手間がかかるし手も台も汚れるしで面倒くさいと思ってたけど、これは箸で適当に混ぜただけだもんね。
もっと習得したい。
こだわりが多いのにこだわっていないふりが1番たちが悪いというか、過激な言葉を使うとダサいですね。
こだわりがなくて何でも受け入れるって、心が広いように見えるというか性格に柔軟性が垣間見えて素敵だと思うんです。そこを狙ってたんじゃないかと。養殖の天然なんて表現がありますけど、そんな感じですかね?養殖の柔軟性なんでしょう。
別にこだわりが強すぎるからといって悪いとは思っていません。そのこだわりが筋が通っているというか、その人の信念というと大袈裟かもしれないけど、見ていてこちらも一貫性があって対応しやすいんですよね。
なんでこんなことを言い出したのかというと、昔の友達で食生活とか、ていねいなくらし(あえてのひらがな)で急にこだわりが強くなった子がいたんですよね。だけど、ある家具を選ぶときに「こだわりがなくて選べない」って言い出したんですよね。え?それ、嘘でしょ?って思っちゃって。急にていねいな人に転生しだして戸惑っていたけど、なんとか視点や焦点を合わせて友達に接しようとしていた矢先のこだわりがない私宣言だったので、ちょっと、というか、かなりイライラしてしまったのを覚えています。
なんだかこだわってこだわって人を寄せ付けない雰囲気は出したくないけど、ていねいなくらしをしてる私にはなりたいということでしょう。ていねいなくらしをするにはこだわりは必要不可欠だけど、こだわりを極めてる圧というのはていねいなくらしに合わないからそれは排除したかったんじゃないかと。
でも、逆にそこがダサいのです。申し訳ないけどダサい。結果的にていねいなくらしやら、それに準じた食生活も今はやめているみたいだし。結局は現在はていねいなこだわりもなく過ごしているように見えるけど、その通過過程を見ていると私はその元友人を好きになれない。結局はその時になりたい自分を被ってそう見えるように生きていくだけなら簡単だよねと。それで上手くいってるなら、そう生きるのも正しいのかもしれないけど真似できないししたくないってのが私のこだわりで柔軟性なのかもしれない。
でも、こだわりと柔軟性って両立しないものなんじゃないかなとも思うし、うまく言語化出来ないですよね。
1日15分の昼寝で効率アップってわかるけど、寝たいときにスパッと寝られるわけじゃないから、寝たいタイミングですぐ入眠出来て15分で起きられる方法を教えて欲しいってワガママかな?
今更かもしれないけどスイカゲームをよくやっている。
いい感じのところまで来たのにくっつかなかったり、弾かれて終了したり、他のフルーツが挟まって邪魔したり…
これはパズルゲームの括りだろうけど、人生ゲームだななんて思ったりしてる。