母は新聞配達を朝と夕方にしていたことがある。
もちろん、お金を稼ぐためだから夕刊の時間はともかく、朝刊の時間帯のような早い時間帯で働いていたのだろう。子どもたちも小学生で生活を回すということを視野に入れれば、その時間帯は正解だったのかもしれなかった。
その労働によって私たちは活かされていたのは事実なんだが、心の底から湧くような、じんわりとした感謝というよりは、労働に対しての機械的な感謝しかしていないのは事実だ。
そんな時間帯に働くほど困っていたのか?と問われたら困ってはいたんだろうけど、父は会社員として働いていた。分類的には大企業に分類される会社だと思う。だけど、うちにはお金がない、お金がない、というのは母の口癖で、その圧をずっと感じながら生きてきた私は大人になってからも、たまに息が出来なくなるような感覚はある。
周りからの圧力で家を買ったことが、家計を圧迫している原因と母はよく愚痴っていたけれど、本当にそれだけなのかなと思う。
家を買うというのは、人生で一番大きな買い物とは言うけど、それが人生の一部として組み込まれているのも事実ではある。ローンを組むにも身丈に合っていなければ審査は通らないだろうし、何がそんなに圧迫していたんだろうと大人になって日々を過ごし、自分も様々なライフステージを見てきた中で感じることが増えた。
父は会社員で、今とは時代が違うからしょうがないのかもしれないけど、子どもから見ると毎日飲み歩いているように見えた。それが大人というものなのかもしれないが、それが大人なのかというある種の絶望感が私にはあったような気がする。
大人になって、下のきょうだいから、飲み屋のママに高額なプレゼントを父がしていると聞いたことがある。父の金だから父が自由に使えばいいけど、そんなお金があるなら⋯と頭の中に過ったのは事実だ。そういえば、父が単身赴任中に誰も見向きもしないような雑誌の後ろに書いてあるような“お守り"を買ったという愚痴をそれから何年も経ってから母から聞いたことがある。
ああ、お金がないのってこういうことの積み重ねなんだなと生きれば生きるほど勝手に理解させられる。父の“お守り"はなんだかんだで許されて、子どもの学費はもったいないという言動を時折挟んできた母。だから私はきっと、朝早くから働いて家計を助けてた母に機械的な感謝しか出来ないのだと思う。自分も母みたいな母にならないようにしたいと思えば思うほと、自分の過ごしてきた時代が苦しい。きっと、私はずっとこうなのだ。
温度を上げたり下げたりするよりも、温度を保つのが一番難しいと5年ほど前の私が言っていたようです。
何もなかったけど何事もなかったかのように過ごせることがありがたいとも言っていて、そうそう、その通り、今思えば何事にもならないように努力していたんだなーと納得した。
冷凍のゴマ団子、自然解凍して食べました。
少し小ぶりで食べやすいんですよね。
お弁当の隙間にもぴったり。隙間を埋めてくれるものは何もかも大事なのです。
ヘヴィメタルの略称をヘビメタと言ってはいけないという暗黙のルール?ありますけど、知っていますか?
このジャンルの音楽が好きなので、このヘビメタと呼ぶことは蔑むの意味があると感じる人がいるのは知ってはいますが、まあ、別にヘビメタでいいじゃん?とは思います。
蔑む意味合いでヘビメタ!と言ってくるなら、それは不快かもしれませんが、でも、この場合言葉そのものではなくて、蔑むニュアンスや前後の言葉がどうだったかのほうが重要なんじゃないかなーと考えます。
この音楽ジャンルって、なぜかバカにされやすいジャンルではあるんですよね。うるさいだけとか怖いとか。激しさを懸命に奏でているところが人によってはダサく映るのかもしれません。
そういった一歩引いてます⋯といった視点が入った言動ってわかりますよね。ああ、なんかバカにされてるなーって。その少し冷えた言葉の中に単純に略されたヘビメタという言葉があったから、“ヘビメタ"と言うのはバカにされている!となっていったのかな?なんて思います。
何回もバカにされてしまうという経験をすると、単語に反応してしまうというようになってしまうのは理解は出来るんですが、でも、私はその前後にある音を聞き逃さないで判断したいですね。ヘビメタ⋯メタルファンなら間違いなく出来ると信じてます!
それがインテレクチュアルスラッシュメタルなんじゃないかと。
私にとっての昼ごはん、お店にとっては朝ごはん。そんな少しずれた食事が、近頃妙に心地いい。
時計の針が正午に近づくにつれ、ぐう、と情けない音が腹から聞こえる。空腹は正直だ。でも外でランチ、となると話は別。大抵は量が多すぎる。もちろん食べる行為そのものが目的なら問題ないけれど、その後に控えるあれこれを考えると、満腹はむしろ足枷になる。
そんなふとした不便さを感じていたからだろうか、最近、「モーニング」や「朝定食」という響きがやけに魅力的に思える。ちょうどいい量をちょうどいい時間に。このささやかな幸せは今の私にはとても贅沢だ。
普通の暮らしを送っていれば朝食を昼食にするなんて、なかなかできることじゃないだろう。私だって毎日そうしているわけじゃない。でも、自分が決めたわけでもないのに、いつの間にか「当たり前」に順応していることって意外と多いのかもしれない。
私たちは一人で生きているわけじゃないから「好きにやる」のは難しい。でも、ほんの少しでも変えられるところは変えて、自分らしいスタイルを大切にすること。そんな風に生きられたら、きっともっと楽になれる気がする。
さて、次はどこで「朝ごはん顔の昼ごはん」を食べようか。朝はパン派だから、ブランチとはまた違うのだ。
さばと青じそのおにぎり
冷たいままたべる餃子
今日は夜も何か買って過ごす。ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
私、もうすぐ9歳なんです。
え?と思われるかもしれませんが、母が亡くなってからもうすぐ9年経つので、私は9歳ということになります。
亡くなってから色々なことに気が付きました。これが、私が自分を9歳だと言いたくなる理由です。今までは私の体を纏った母がいたんですが、徐々にそれは抜け私は私だけの人格という意味では9歳、小学3年生相当ですね。
時々、まだ自分の中に両親の遺伝子や育った環境が自分の中にいて、それが悪さをして、今の家族とトラブルを起こすこともあります。つい先日もそんなことがありました。父みたいに意味不明なことでキレたように他の人には見えたでしょう。私にとっては理由があるんですが⋯だから父も意味不明に見えても意味のあることで怒鳴ってたんだな⋯とは思えません。あれは意味不明で理不尽です。
母の話でしたね。1人になりたい、1人になりたいって思うのは母に似たのかな?私の中の父が出てきたのも、この1人になりたいという感情を制御出来なくて起こったことでもあるので。
でも、私はもう9歳、でもまだ9歳。1人になりたいがゆえに家族に嫌味を言うようにはなりたくないし、ならないと意気込んでいた部分があって、それが精神を摩耗したのかなとも思います。9歳だからしょうがないのですが、もうちょっとどうにかしたい部分もあります。
書類上の年齢は9歳の約4倍なんですが、書類上の年齢と一致するようになりたかった。親から離れてからじゃないと本当の自分が生まれない。書類上の年齢と実際の年齢が一致する人が羨ましい。きちんと親に与えられてきた人だと思うからです。理不尽さもなく、嫌味もなく、ケチられない。それだけで書類上の年齢と実際の年齢が比例しやすいですね。
私は30年くらい差があるので、本当はまだランドセルを背負っていなきゃならないのですが、またあの時代に戻ってやり直すのもシンドイですね。でも、私は自分が9歳になれることが嬉しいのです。9歳にすらなれなかった可能性もあると考える恐ろしいです。
表面だけで色々判断しすぎてもいけないけれど、表面だけ取り繕えばちゃんと見えたりもするし、そういう使い分けを上手くやっていけるようになりたい。
クローゼットの奥から、湿気を吸ってゼリー状になるフック付きシートを取り出す。あれは便利といえば便利だが、どうにもすぐに役目を終えてしまう。まだわずかに透明な部分を残しながらも、大部分がぷるんとした塊に変わっている。それでも、もったいないからとそのままにして、新しいシートをその上に吊るした。それだけではない。太陽の光を浴びればまた使えるという、フック付きの除湿シートも使っているし、足元には置き型の除湿剤も鎮座している。
昨日ふと、クローゼットの扉を開けた時、奇妙な感覚に襲われた。「もしかして、服よりも除湿剤のほうが、この空間の主役なのではないか?」と。
もちろん、大切な服を守るためには湿気は大敵だ。そのための対策は必要不可欠。だが、ここまで来ると、まるで除湿剤をメインに収納しているような、本末転倒な光景に見える。
考えてみれば、こういうことは世の中に溢れている。本当に守りたいもの、大切なものを守るために、それ自体はさほど重要ではない「何か」を、やたらとたくさん配置しなければならない。今話しているのは、除湿剤のことだけれど、その役割自体はありがたいものだ。大切じゃないなどと口走ってしまったのは、訂正しよう。
クローゼットの中だけではない。まるで湿気のような、とめどなく押し寄せる「何か」と、それに抗うための「除湿剤」のような存在に囲まれて、どうにか日々をやり過ごすことに、自分は少し疲れているのかもしれない。ゼリー状になるのも早いし、天日干しのサインが出るのもあっという間だ。本当にキリがない。そんなことばかりが、自分の日常を占めている。
毎日予期せぬイレギュラーな出来事がたくさんあって、心身ともに本当に疲弊してしまいます。ただただ決まったルーティンをこなす、そんな穏やかな日々を送りたいと切に願っています。
自分には、とっさの機転が利く才能も、話術も、特別なスキルもありません。だから、自分に合っているのは、ただ単純な作業を黙々とこなすことだと感じています。しかし、人それぞれに言うことや感じ方が違うので、自分はただひたすら目の前の仕事に集中するしかありません。
それなのに、ふと頭をよぎるのは、頭の回転が速く、人を惹きつけ、あるいは突出した才能を持つ人が、いとも簡単にすべての良いところを持っていくことへの虚しさです。この胸の中に渦巻く澱(おり)のような感情は、せめて自分で水と石鹸で洗い流しながら前に進むしかないと、自分に言い聞かせています。
まるで毎日お風呂に浸かって、心ゆくまで体をきれいにするように。違う香りの石鹸や、趣の異なる入浴剤を使うたびに、このわだかまりも少しずつ変わっていくのかもしれません。