何となく動画サーフィンしてて、たまたま以前から気になってた「『アイドル』の英訳はどれくらい日本語の意を汲んで英訳されているのか?」の疑問に応えてくれる動画に行き着いた。
結論から言うと「めちゃくちゃ素晴らしい、ちゃんと意訳もされた英訳」らしいです。
そもそもなぜそんな事が気になったかと言うと、サビの部分の出だしが空耳で日本語と同じに聞こえるんですよね。そんなとこがちょいちょいある。
あと、ポイントポイントの単純な単語が日本語と同じ位置でその言葉に置き換わってるのも不思議だったんですよ。
日本語と英語では直訳すると単語の位置が前後で逆になりがちだから、そうもっていくのは難しいのでは?と
あと、「アイドル」はかなり裏表のあるアイドルの内面を皮肉な感じで表してる部分もあるし、明るく歌われてる部分がダークだったりと「含み」の多い歌詞なので、そういうニュアンス的なのは滲ませられるものなのかという事も気になってた。
そういう部分について、バイリンガルの人達がオーバーリアクションで「マジか!」「すげぇ!」「天才!」と言いながら細かく解説してくれてて、ほうほうと楽しく見られた。スッキリした。
実は英語版「アイドル」を聞いた時、少しカクカクした感じがすると思ってたら、それすらも日本語と空耳するように韻を踏むためのワザとな可能性があるらしいと聞いて更にビックリ。
…こういうの自分で感じたいなー。英語…高い壁…
暑さが落ち着いたなと感じた瞬間に自分の体調も良くなってる?と感じました。
この3ヶ月くらいちょっと調子悪いのに、それが普通の体調だと思わされてたのだと実感しました。
「これが普通だと思わされている」こういうのって暑さとか体調以外なことにもたくさんあって、自分でも気がついてない普通だと思わされていることがまだまだあるんだろうな。それに何個気がついていけるのでしょう?
秋刀魚を圧力鍋で骨まで食べられるまで煮込んだら美味しかったです。
去年は塩焼きしかやらなかったけど、秋刀魚を色々料理して食べたいです。
でも結局は塩焼きが1番!と言ってそうですが…
ある程度話せることも多いからシンドさを感じることも増えてきたなという感覚。
特にその話せることっていうのが自分の事ではなく、家族の今後のことだったりするから絶妙に疲れるんだと思う。
だからと言って私自身のことは話すことがない…特に今は何もないし、自分の好きな事は自分だけで完結させるという傾向が強いから本当に話すことがないのです。
自分の好きなことといっても食べたり音楽聴いたり時々本読んだりと話すほどのことじゃなくて話題がない。そのちょっとでも好きなこと話題にしてみればいいのかもしれないが、拡げることも出来ないし、拡がらないからしたくないのでしょう。
友達は昔から少ないほうだけど、その少ない友達とは何を話していたんだっけ?とか思うと何を話していたのかわからないです。
覚えていないけど楽しかった。もう付き合いのない友達もいるけど何だか楽しかった。覚えていないけど楽しいって何??それって何?たぶん私ちょっと大人になったのかもしれません。ええ、各種身分証明書の年齢はシジューなので大人なんですが…トークを調整出来るようになってしまったけど、それが大人なら大人ってつまらないですね。ってシジューで何言ってんだ?って話ですが…誰かと次の日には忘れてしまう会話をして楽しいって改めて若い人に与えられた権利なんですね。私はまだ大人なつもりじゃないのに…子どもじゃないだけってまたいつもの好きな歌詞に似てるのを置いておく。
「性格の悪さを使って性格の悪さを隠してる」
自分の持っているものしか使えないから当たり前だししょうがないけど、そういう綻びって思わぬところで出ちゃうから自分も気をつけないといけません。
ここまでものを減らしてもまだ物欲というものは生まれてくるのか。
何が原因で発生しているのか。
生きるうえで絶対必要ないとわかっていても、それを肯定するための理由が湧いてくる。
今よりも快適になるから、楽しくなるから、なんかイケてる空間を作れるから。
そう思い込んでしまった瞬間はその考えがとても美しく素晴らしい提案だと錯覚してしまう。
その瞬間的発想は実に愚かであると黒い自分と対峙している。
本当に欲しいものはわかっている。
ありきたりだけど、お金で測れないものがほしい。
心ときめくような発想、思考の変化、時間も身分も予算も忘れて求め行動した先にある未来の姿を欲している。
ものによって自分は形成されてきたが、モノは私自身ではない。
モノでこれ以上自分を拡張したくない。
自分の内にある無形のモノの進化こそ、生きるうえで必要になるのではと思っている。
この前電話してて、生理前でちょっとのことでずーんってなりやすくて
会う約束を延期にさせてって言われて
延期の日にちも言ってくれたのに
延びたことが悲しくて落ち込んじゃって
しばらく無言電話。。。
それで元気ないよって言われて
生理前だから落ち込みやすくて、ごめんねってしたら
何でも生理前って言ったらそれでいいのかとかなんとか
言われてさあ。。
生理経験してみろよって心から思った。
けどもう生理を理由にするのはやめると決めた。
今日は過ごしやすい1日だった。カメラを持って散歩に出かけてもよかったなと思う。でも部屋で物件探しをしていた。少し気になる部屋はあったけど、これだ!という感じでもない。とりあえずブックマークだけしておいた。
休みの日、ゆっくり寝ていようと思って寝るのだけど、つい早起きしてしまう。貧乏性なのかな。
何か相手にしてあげたいって思うなら、自分のタイミングじゃなくて相手のタイミングに合わせることが本当の優しさなのかもしれないよね〜
頼んでいないケーキ100個くれるよりも、突然食べたくなったピザ1枚を買ってきてくれた方が嬉しいよね、単純に。
ネットを見ていて、過剰な優しさを持っている人はモラハラの気があるって内容が目に入ってきました。
そういうタイプがわかりやすいモラハラをしてくるとは限らないとは思いましたが、その過剰な優しさと感じる何かに違和感を覚えることは大事なのかもしれません。
優しいのにモラハラ?って思うかもしれませんが、あれこれよく気がついて心配してくれたり労ってくれるけど、それは全部相手が望んで言葉にしてお願いしたことではなくて、自分が気がついて自分がしてあげたいことだったりするんですよね。だから、そこまでしてくれなくていいのに…って気持ちは絶対出て来てしまうし、だけど感謝として全力で受け取らないといけない圧…そういうのは絶対ありますよね。その過剰な優しさを受け取らなかった時に豹変するっていうのはあるかもしれない。いつも優しいからつい甘えて、して欲しいことを言葉に出してお願いしたときに、そのお願いはしてもらえないってのも高確率で有るんじゃないかな?って感じます。
過剰な優しさを供給するタイプって、あくまで需要よりも供給量なんですよね。だからこんなことを言いやすい「自分はこんなにしてあげたのに」と。
モラハラとまでいかなくとも、今まで出会った過剰な優しさがあるタイプって、いざというときに優しくないタイプが多い印象です。優しくしてあげた自分に満足したい、相手もそれを喜んでいるはずだと思いたい、なんでこんなにしてあげたのに違うことを頼んでくるのか?許せない!って思考回路のような気がします。
この“過剰な優しさ”に違和感を覚えることは結果的に自分を守ることになると思うのです。単純に色々気がついて柔らかい言葉をかけてくれるから優しい人と判断しないで、その優しさが自分が求めた感覚なのかどうかを大事にすることが、本当の優しい人かどうかを見極めることに繋がるのではないでしょうか。