何処かで、自分の価値観だと思っていても何かに影響されたりしていて、純粋な自分だけの混じり気のない自分の価値観を持つことは難しいって見たんですけど、確かに本当にその通りだなーと。
こうやってどこかで見た何かに私自身も頷いたりして、影響されてるんですよねー
だとしたら、私自身の私だけの純粋な価値観ってどこにあるんだろうなって思いました。
無菌室のようなところや、自分しかいない場所で誰しもいきているわけじゃないから、持っている価値観が自分自身のものだと断定しにくいですよね。
確かに最近なら、これは母の価値観で私の価値観ではなかったなと気がつくことが多いのです。それをずっと何年も純粋な自分のものだったと信じていたことが怖い気がしたのです。
自分自身の100%の価値観なんて存在しないけれど、残しておきたいものはなんなのかを時々自分に問うていたらそれでいいのではないのかな?ていうか、それしか出来ないですよね。何かに触れない人生なんてものがこの世にはないのですから⋯
必要ない、場所をとるものをもらうのが困る
知らないネズミがWelcomeって持ってる置物、
好きなのはその子じゃないキャラクターもの、
大昔に買った着てなかったお土産のシャツ、
自分が昔かぶっていた冬の帽子、
年号の入ったでかいマグカップ等
にへらにへらと受けとるから繰り返すのか
なんと言うのが正解なんだ
いらないでーす?
間に合ってまーす?
好かれたいとは思ってないけどはっきり言っていいのかね
そうとてつもなく愛した。
自分の好きも捨てて、友達よりも優先して、罵声やヤジのようにも思える針のような彼の一言一言を受け止めるように必しに。そうして数年経って、もうどうにもだめだ、と思ったときにお別れを告げた時に、彼は少し泣いて嫌だと、以前のように仲良くやれないか、と言った。その時には少しだけ愛されたことに報われた気分と執行猶予のような気持ちになって関係は続いた。けれどそのあとも彼は私の地雷を踏むし、泣きわめいた私を恐れるかのように顔色を窺って、そばにいれば喜ぶだろうと思ったのだと思うけど、それは私のペースを気にするという概念がはやっぱりなくて、結局彼の好きに合わせるしかなかった。お互いに一緒にいるための努力や遠慮の仕方や距離感というものの構築を彼はしたことがない人のようにも思えた。たとえば何かを誘ったとして、気が乗らないと「今日はいいかな」または「行ってくれば?」と言う。前者の言い方だと、じゃあ別の日ならいいのかと普通思うだろう。けれどその「次」を約束しようとしない。期待して期待して摩耗して、結局行きついたのは彼が私に興味がないってことしか突き付けられなかった。
後者だとああ興味ないんだな、じゃあ誘ってごめんね、ただ君と行きたかったんだという話になるのだが、その場合ことわったなら代わりの提案をするとか色々と相手の気持ちに寄りそうコミュニケーションは必須だろう。それがない。本当にその二言のどちらかしか言わないので「お前が俺に合わせるべき」というオーラを常に放つ人だった。
愛していた。本当に愛していた。
いまも気持ちは変わらない。けれど私も人間なので、優先順位を私にしてくれる人に流れてしまう。
心ぐるしい。
心の底からオタク女を馬鹿にしているのに、オタク女をお気に入りに入れるのは、見下して優越感を保ちたいからという人がいて、それがわかっててそばにずっといたのだけどどうにも擦り切れるので距離を置いている。向こうから連絡はないし、それでいいやって思う。どうせ顔を出したら出したで「必要とされる俺」に満足するんだろう。ああ、愛していたのにな。
昨日観たライブ良かったなー
求められていることを演るって人の心を動かすんですね。
珍しく隣の席の人と話したり異空間だけど、心地は良かった。
何年目かの高いマフラー、今季初めて着用しますがあったかいし、デザインも気に入っています。
質も良いのであと何年もお世話になれそうです。
ついこの前まで猛暑日だとか熱中症に注意とか連日騒いでいたのに
いきなり冬日や大雪とかヒートショックに注意とか
もう身体がついていかない
秋は何処に行っちゃったの?って感じだよね
自分の価値観と異なる価値観の人を
はぁ?なんで?と思わずに、
そういう感じなんだねと受け入れることができるようになりたい。
仕事の進め方がとにかく合わない人がいる。
その人のポリシーをちゃんと受け入れたい。
というか、そういうもんだと割り切れるようになりたい。
個人的な今年の漢字は「隠」かな?と思います。
隠れることで自分を守って自由を感じることが出来たとは思います。これからも隠居的自由を続けていきたいです。
ある小説で、「何かされたほうが許すか許さなきゃ決めなくてはならなくて、どっちにしろ、こちらにエネルギーを使わせることが解せない」といった表現がありました。
そうなんですよね。何かしら変化を起こさないといけないのは、何かをされた側なんですよね。何もされなければ使わなくていい気力や時間を使い、思考を頭の中で巡らせるのは何かされた側なんです。いつも。
仮に許すという選択をしたところで、された側の「許す」と、した側の「許される」の認識が違うことが多い。そのズレに苦しむのはいつでもどんな状況でも、された側なんですよね。
こんな感じで何かされたら損をする感覚あります。何もされないためにひっそりと隠れる。隠れることが本当の自分の自由につながると今年はこんなことばかり思っていたかもしれません。