頭が痛くて午前中寝てしまって、お昼食べても頭痛いから2回目の薬飲んでまた寝てて、今起きたところです。
またまた不用品の思い出ですが。
高校のときの友達からもらったプレゼントがセンスないなーって思ってたんですよね。人からもらっといてセンスないなんて、ここまで切り取ると傲慢かもしれませんが、その友達ってこちらからあげたものに対してあまり喜んでなかったのかな?と思ったことが何回もあって、それならば自分はどんなものを私に選んでくれるのかな?なんて思ってしまうフシがありました。ここはちょっと傲慢ですけど。
食べ物やそれ以外のものを贈り贈られの状況があったのですが、こだわっていそうな割には大したものくれないな〜なんて思ってました。
こちらがプレゼントするときは、いつも相手のよくわからないこだわりに頭を使ってるのに、自分が持ってくるものはソレなの?みたいに思ってしまってたんです。
一癖あるマグカップや貯金箱とか、なんかバカにされてたのかなーなんて今となってはそう感じます。それでも、マグカップも当時は使っていたし、貯金箱もオブジェとして使ってはいましたが…
マグカップがたまたま割れたんですよね。そうしたら何故かホッとした自分がいました。ペアのマグカップだったんですが、もう片方は割れていなかったけど、時間差で処分しました。「友達からもらったまだ使えるもの」を処分しているのを家族に見られたくなかったので、こっそりとゴミ捨て場に持っていったのを覚えています。
貯金箱ですが、陶器やプラスチック製ではなく分類的には燃えるゴミだったので、裁ちばさみで切り刻んで捨てました。私、この友達、嫌いだなって思いながら作業していた気がします。
それももちろん家族には見えないように。大切な友達からもらった大切なものをまだ使えるのに処分するなんて…って目線が絶対に降って来るのがわかっていたので。
一癖ある人ってだいたい共感されると思うんですけど、あの人といると私が一癖ある人になってしまうんですよね。友達は素朴なもの、丁寧な何か、自然由来の何かについてこだわりが強かったのですが、こだわり対象が”丁寧な何か“だから、癖が強いように見えなかったんですよね。今となっては理解される部分も多いでしょうが。そのこだわりもそうだし、自分の要望を謙虚をまとって主張してくる部分にも辟易していたんです。自己主張が物凄いのに主張してるものは謙虚さ柔らかさだから気がつかない人は気がつかない。その謙虚な柔らかさで強引に予定を決められたりシンドかったのです。
それを私の家族は理解してくれなかったのです。それは私の問題だと。こういう人を嫌いになっちゃうとシンドイなって感じます。
不用品の話でした。マグカップも貯金箱もないけど私は今のほうが楽だし、あの人に何かを贈ることも贈られることもないのは幸せです。いらないものは捨てるって大事です。
いつも絵を描いてる人が書く小説、のびのびしてていいなと思う 読んでもらうために努力しなきゃ、みたいな焦りがない 文章に対する執着のなさがうらやましい
やっと10月らしくなってきたかな
季節の中で朝のひんやりとした空気感が一番好き
クローゼットや布団を春夏から秋冬へ入れ替える準備をしますか
今日は久しぶりにお茶をたててみたいと思います。
見よう見まねですが、そういうのが楽しいのです。
適当な侘び寂び、最高
不用品といえば…
あの指輪、以外と売れたのかもなーなんて思い出してしまいました。もう20年以上前の話ですが、もう関係がなくなったらいらないし、そもそも一緒にいたときから指輪で縛られてた部分があったので関係なくなったらすぐ捨てたくて。
指輪で縛られてたというのは、常に指輪をしていないといけなくてシンドかった。ちなみに結婚指輪じゃないですよ?結婚していないけどするペアリングみたいな立ち位置の指輪とでもいいましょうか。
私、あの頃大学生だったんですけど、相手も同じ大学生で。簡単に書くと指輪を私をはめていないということで、家まで取りに行かされて授業に出られなかったということがありました。その他指輪については常にしていないといけなくて、それがシンドかったです。アルバイトのときは外していたり、寝るときは外していたりするのでつけ忘れをどうしてもしてしまう。指輪のことを忘れてしまうと大学の授業に出られないとか生活に支障が出るのでいつの日か煩わしいと感じるようになってましたね。
そんなこんなで別れのときがやっぱり来たんですけど、そういう思い出のある指輪なんていらないじゃないですか。だからすぐ捨てた記憶があります。
楽しいこともあったけど…まだ未練あるけど…なんて思いながら何かを捨てることはありません。それはドラマの中だけの話です。
現実にある未練は、売ったらお金になったかも?というタイプの未練だけなのです。
ある不用品を売ったら思いの外、高く値がついてびっくりしました。
でも私はそれをゴミだと思ってたので…価値のわからない人間なんだなと。でも、その方が思いがけずラッキーを感じられて幸せなときもあるのかも?
私の人生じゃないからね
こういうふうに思うくらいが丁度いいのだと思う。
私の言う事を聞いていたから結果が芳しくなかったと言われたら嫌だし。
距離が近い人には私の人生じゃないって唱えるのが必要でしょう。
私の人生じゃない
私には好きな人がいるのですが、その人の気持ちとかその人が楽しいと思えることが、わたしには一切わからないのです。その人も私もまったく別の人間だから、価値観が合わないのは仕方がないことなのですが、その人は人気者でいつもその人のまわりにはたくさんの仲間たちがいて楽しくしてみんな、本当に幸せにみえます。笑ってます。わたしにはその人が分かりません。その人は仲間たちとたくさんのことをを共有したり、分かち合います。
私には、わからない世界で共感できることがありません。みんなが楽しいと思えることがわたしには理解が出来なかったり、みんなが悲しむことがわたしには何も感じなくて。私の心は、ロボットみたいです。好きな人の世界を理解したいけど世界を理解できなくて理解できて分かち合いたいけど分かち合えなくて分かち合えている人たちがすごく羨ましくていいなあと思ってみてます。
共感できることがなくて真っ暗やみに浮かび上がる私の機械みたいな心は今日も宇宙の塵みたいに消えていきます。はたまた人工衛星みたいにみんなのことを眺めながら。ああ、無常です。(これは、かの有名なレ・ミゼラブルから借りました)こんなもんなんですかね。だけどやっぱり、私はその人のことが大好きなんです。好きで好きで仕方がないんです。ああ、ダメなんですわ。ああ、困ったなあ。分かんないんだけど、分かりたい、分かんないんだけど、なんか好きみたいな。バカだな。ポエムみたいになりました。
書き終えたら、丁度その時に、「君が好き~、君が好き~!!」外の知らない通りすがりの若い兄さんがほんとに今、なんかさ、歌ってました。アンサーソングか(んなことはない)はたまた、私の代弁者なのか。なんなんだ、このタイミングは。君のおかげで楽しくなれた。君よ、本当にありがとう。
「昔話になりますが」とつけることが多いなって思いました。
それはその昔話が現在のわだかまりに繋がっているから昔話だけど現在の話ではあるんですよね。だけど、昔話は嫌がる人も多いから無意識そうやってつけるようになったのかもしれません。
今日もそうやって書こうと思ったのですが、あーまた昔話をしようとしているなと思ってこういう内容になりました。
誰が見ているわけでもないし、静かな場所だけど、さらに奥地に入り込むような書き方をしているので、大丈夫だとは思うのですが…いわゆる、自分語りとか愚痴とかそういうのもしづらくなりました。なのでこういう場所を使って奥へ奥へもぐり込んでるのでしょう。
どこかで「批判されることは自身の成長へ繋がる」とか言っている人がいたんですが、自分が批判されて自身に言っているわけじゃなくて、批判されている人に言っていたんですよね。私は傍から見ているただの傍観者でしたが、自分に言っていい言葉と人に言っていい言葉って違うんだよなーなんて思ったのでよく覚えています。批判されたい人っていませんから。基本的に肯定されたいのが人間ですよ。だから、私はそう思わないけど…って気持ちも肯定されたいから言っちゃうんでしょうね。だから批判が飛び交う変な場所がネットでは生まれやすいんでしょうね。
私も基本的には肯定されたいです。ただ私の気持ちは肯定されにくいのもわかっているから森だとしたら奥の奥の方へ、深海ならより深いところへ、宇宙ならより遠い星へ…
観測しよう、検知しようと思えばできるけど、わざわざしない場所にいるのが私だし、もし何かのレーダーに引っかかっても変だなと思ったら放置してくれたら有り難いです。ちょっとわかるなって思ってくれたら届けてくれても嬉しいし、そのまま気持ちを持ったままにしてくれても構わないです。
それが私の生き方なのです。昔話じゃないですが。