あぁ、もう無理。悪口のひとつも言わなきゃやってられない。世の中には、こちらの心を波立たせるものが多すぎるのだから。立派な人になろうと背伸びするのはもうやめて、自分の等身大を楽しみたい。
そう思ってあたりを見回したけれど、私の愚痴を受け止めてくれる人はどこにもいなかった。結局、私は一言も発せずにいる。沈黙は金、というけれど。結果的には聖人のように振る舞っている自分に、少しだけ苦笑いした。
通勤に使っているロングのダウンコートがくたびれてきたので、新しいロングのダウンコートを購入した。
時期的なものなのが定価から値引きされ、さらに半額になっていた。値札の価格より3分の1以下で購入した。
色も形も無難なこのコートがなぜこんなに値引きされているのか?
それは着用して外出してわかった。
全く暖かくないのである。
ダウンコートっぽいけど、触ってみると中はスカスカで、暖かいどころか冷たいナイロンを上から羽織ってるような感覚。
防寒もなにもあったものじゃない。
安いものには理由がある。
アウターはメーカーものを購入するべきだと思います。
防寒しないダウンコートなんて体調悪くなりそう。危ない。
結局、極寒予報の日は前のダウンコートを着ています。
買うんじゃなかったな。
もう30年以上前ですが、車の移動販売でアイスを売りに来ていたことがあったんです。アイスディッシャーで取り分けながら売ってくれるタイプの。サーティー湾みたいな売り方のアイス屋です。
マンションに住んでいて、ど田舎というわけでもなく、大都会というわけでもない場所に住んでいて、そのアイス屋が来る音がして親から購入許可が出たときは嬉しかった。
それから引っ越ししてその手のアイス屋は完全に見かけなくなった。地域性や時代もあるのかもしれないけど、なんかあのアイス美味しかったような気がする。今食べたら普通のアイスなのかもしれませんが⋯
〘常に「申し訳なさ」を背負わされる時間。〙
ああ、私が過ごしてきた家庭環境ってこれだったかも?
親に歓迎されていないから、ああいう言動が出来たんだろうなと思うことばかりだ。
子ども時代や若い頃はそれに気が付かなかったというか、本能的に気が付かないようにしてた。
今、不惑を過ぎてようやく正常に脳が働き出して、きちんと怒りや悲しさを感じられるようになったんだなと。
自分が育ってきた環境の違いをまざまざとと見せつけられ、体調の流れもあり落ち込みましたね。
簡単に書くと進学に関する親のスタンスって、その後の人生に大きな影響及ぼすんだなということです。
私はケチりにケチられたんだなという気持ちが拭えないです。
それでも進学させてもらったから文句も言えないという位置づけ。ああ、しんどい。
そもそも、親のスタンスが違うんだよね。大学なんか行かなくていいのに⋯という私の親のような考えと、大学は行っておいたほうがいいよという親では、結局、子どもに対する言動が違ってくる。
そんな違いを感じて、落ち込みながら自分の子どもの進路を見守らなきゃならならない。その都度、自分の親の言動をリフレインし、鋭い紙で何回も切られた感覚になるのだ。
私は、大学に行ったほうがいいと思ってるけど、浪人はしない方向だったんだけど、子どもは浪人も視野に入れてるみたい。子どもの親でもある私の配偶者は浪人させてもらって大学入ってるし、浪人しちゃいけない!なんて言えないよね。だけど、浪人すればいいみたいに思って取り組んで欲しくないし、その選択肢が普通だと思って発言出来ている環境羨ましいなと思ってしまう。
そんな環境を与えられたのは嬉しいけど、自分とくらべると複雑だなと。そしてまた鋭い紙でスパスパ切られる。来年、再来年も切られ続けるんだなと。
平和主義の裏側に「称賛への依存」があるのだとしたら、それは自己防衛が招いた閉塞感に他ならない。
感情の四要素である「喜怒哀楽」から特定のピースを排除しようとすれば、精神のバランスは必ず崩れる。負の感情を抑圧することは、結果として正の感情を受け取る感性をも麻痺させてしまうからだ。健全な人間関係とは、綺麗事の維持ではなく、多面的な感情の受容によって成立するものではないだろうか。
別に嫌味じゃないけどなー
そうじゃないのに嫌味と受け取ってくる人とは話したくないかなー
それが100人に聞いて95人は嫌味だと受けとるといっても私は嫌味として言っていないから、それなら話したくないんです。
「普段、〇〇は嫌いだけど、これなら食べられる!」って美味しいを表現するときに使われがちだけど、よくよく考えたら微妙な表現かなと。
私、トマト嫌いだけど、このトマトなら絶対食べられるってないんですよね。トマトはトマトだから嫌いなので⋯
食べられるトマトがあったら、たぶんそれトマトじゃないと思う。トマトの見た目の違う何かだと思う。
観察用として見ている元友人のSNSがあります。その元友人のフォロワーやフォロー者も閲覧出来たりしますが、その内の1人が怪しい健康法のようなビジネスっぽいのを投稿していて、最初に思ったのが"類は友を呼ぶ“という慣用句ですかね。ただの業者でもなく生身の人間がそれにハマって勧めているといった感じのでした。
元友人、ビジネスはやっていなかったけど、変な健康法にハマっていて、それから性格がピリピリとしだして、疎遠へのカウントダウンが始まったような気がする。
元友人は今は謎の健康法はやっていないことは観察済みだけど、まだその気はどこかに残っているんだろうなとは思っている。
そういうのハマる人って思い込みが激しいし、やっぱり周りに似たような人が集まる。私は離れたから良かったけど、友達の性格がピリピリしていなければ、影響されていたかもしれないと思うと怖い。
あの頃は、仲良くしていたのに違和感を覚えて、そっち側に行った友達に悲しさや寂しさ、そして苛立ちもしたけど、本当に離れて良かったなと思う。ほっこりした雰囲気で圧をかけてくるから、周りからは攻撃されているように見えないんだよね。だから私が悪くなる。それが疲れるから離れてよかった。
変な液体を飲んでから食事を食べる動画を拡散する人は周りにはいない。それは安全だと思うし、自由だとおもうのです。
まあ、大人としてはやっぱり字は綺麗に書けたほうがいいのかもしれないが、そうすると、また努力することが増えちゃうから疲れちゃうんですよね。