スプーンは料理をするために出してあるから、出しっぱなしではないんです。
ただ、出しっぱなしに見えるみたいで片付けられちゃうことが多くてシンドイ。
そんなちょっとしたことなんだけど、私にとっては出しっぱなしじゃないのにわざわざしまわれることで、無言でダラシないと言われているみたいな気になってしまう。
だから私も自分しかいないタイミングで、すぐにスプーンを何本か取り出して自分のテリトリーに置く。
こうやってお互いに見えない無言の戦いをしてるのかもしれない。私はしまってもしまってもただ、出すだけなのです。使うから。
気になる役者さんがいるんだけど、
きっと恋に落ちるからあえて調べない(笑)
ははっ、って笑ったその仕草がやけに頭に残っている。
推しを作るべきか否か…
足の長い蚊が昨日からベランダに居座ってるな〜
いなくなった…と安心していたら移動しているだけだった。
そういうことはどんな状況でもありますね。
色々な事情があるのは理解しますが、転校って小4までだなって個人的には思います。
転入先の学校の雰囲気や運もありますけど、小4でも小6でも転校した自身としては小4が転校最終便だとは思うのです。
小6だともう輪が出来ているし、それは小4だって一緒ではあるけれど、輪の太さがやっぱり違うような気がしました。
私のような特に秀でたものかない児童はジワジワがっかりされていくっていうのを感じながら過ごしたのは、30年近く経っても抜けない嫌な感覚なんですよね。
大人になれば、ずっと同じ場所にいられないのは当たり前ですがこのジワジワがっかりされていく感覚は子どものうちに味わうことがない方がいいと思うのです。その感覚に気が付きにくいのも小4が限界でギリギリなんだろうなって思うのです。
二頭身くらいの着ぐるみと毎日一緒にいれば自分がスタイル良く見えるだろうけど、私はスタイルを良く見せるために二頭身の着ぐるみと常に一緒にいることは選択しないだろうなって思いました。当たり前といえば当たり前だけど、そういうとこ自分のいいところかもしれません。
電動自転車買って浮かれてた私。その辺チョロチョロするのに使ってた。
最近、私が電車で通ってる職場に、私と同じ地区から電動自転車で毎日通勤してる人がいると知ってビックリ。
確かに電動自転車買った時、ちょっと行けるかな?とは思った。
思ったけど出来ると思ってなかった。
諦めたら人はそこで成長が止まるという実例だなと思った。何かちょっと悔しい気持ちになった。
なので、今度のお出かけにはバスの所にレンタル自転車使ってみようかなと思った。
ショッピングモールって混んでるよねー
ウォーターサーバーとWi-Fiの契約のダンジョンをかわすのがちょっとめんどくさい
友達のような親子とかたまに聞くけど、逆に親子のような友達ってあまり言わないですよね?
それが答えなんだと思います。親の役割は親の立場でしか出来ないし、友達の役割は友達にしか出来ない。
私の母はそこを混合させていたから子どもとしてはシンドかったなと。
子どもは子どもとしてのみ接していくことが大事なんだなと四十路アラウンドになってヒシヒシと思うのです。
子どもは親の友達じゃない。だから子どもに話す内容って限られるはず。ウチの母はその境界線がボヤけすぎてて、聞かされたくない話もいっぱい聞かされたような気がする。
一方で、友達が私を親のように頼ってきたと想像したら引きます。友達には友達の距離感、やっぱりあるんです。
友達ではないけど、よく妻が「私はあなたのお母さんじゃない!」って怒る状況、何かしら聞きますよね。あれも妻は妻としてしか見てはいけないんだと思います。甲斐甲斐しく世話をするのは親が子どもにだけで、あくまで親子関係があって不自然じゃなくなるものなんだと。
まとまりのない話になりましたが、オールインワンみたいな人はいないし、自分もそれを誰かに求めちゃダメだよという話でした。
旅するように生きることができるだろうか。
今の安定した生活を捨て、不安定に身を投じ、ただ生きるために生きる生活を求めている自分と、それを恐れている自分がいる。
その土地々々で自分ができることをして、また別の場所へ移動する。
そうやってこの世界を知りたい。
頭が痛くて午前中寝てしまって、お昼食べても頭痛いから2回目の薬飲んでまた寝てて、今起きたところです。