最近読んだ本の中での感想。
山本文緒のプラナリアという短篇集です。まだ表題作のプラナリアしか読んでいないのですが、良かったなと思ったので何か書いておきたいなと。
若くして乳がんになって、手術をするという治療のクライマックスは終わり、その後も通院したり薬を飲んだりして、まだ乳がんは続いているけど、周りからは乳がんはもう終わったこととされる悔しさが表現されていました。病気を治療というだけじゃなく、こういうシチュエーションってけっこう何処にでもあるよななんて感じながら読んでいました。もう終わったことなんだからと自分じゃなくて、他人から決めつけられることはなかなか心がすり減りますね。小説では彼氏から終わったことと決めつけられていましたが、決めつけが身近な人であればあるほど変な傷になりますよね。
一方で、乳がんとしての自分を使って生きていきたい部分と自分の中で乳がん患者としては終わった部分があるということを巧みに表現されていて、この部分も病気じゃなくともあるよなーと考えていました。いわゆる、自虐ってヤツですよね。「私、乳がんだから」とあっさり仲間内に言ってしまうのは自虐だけど、自虐にすら使えなかったら乳がんになって感じたツライ気持ちや治療をしてきた意味がないって思ってしまう感覚なのかなと。主人公は若い24歳だったので、なおさら自虐に走らないとシンドイのかもしれないなと。
仕事先の人が乳がんの闘病記や本を贈ってくることに違和感を覚えるシーンも、なんとも言えない嫌悪感がよく伝わってきましたね。そういう時期はもう自分の中では終わっている乳がん患者としての部分なのにと。
「私は乳がん」ということで自分を奮い立たせてる部分があるのに、間違った視点でそんな本を贈ってくることに苛立ち、そしてそのついでに仕事への取り組み方も注意してくることに、病気を心配してあげて、注意するところは注意するけど、注意は軽めにしてあげるワタシみたいな意図的なものが透けていたところがリアルだなーなんて感じてました。こういう、受け取った側が変に捻くれて解釈した方が負けみたいなやり方に苦悶したことって他の人もあるんじゃないでしょうか。
乳がん患者として生きるということを自分では認めて、自分なりに乳がんを咀嚼して生きているのに、周りはその咀嚼音を認めない。入院中に一緒だった人と上手くいかないから、今度の職場で上手くいくように自己開示をすると別ところで不快感を持たれるという部分にも生きることのもどかしさや難しさが描かれていたなと。
人生が上手くいかないと感じるのは人生の過ごし方を誰かが決めてそれに則らないと雑音が入るからなんでしょうね。その雑音を毎日掻き消して誤魔化しているうちに人生って終わるんでしょうけど、その雑音を掻き消すのってかなりシンドイよね〜なんて感じた短篇でした。
牛すじを多めに煮込んで冷凍しておくと便利です。
圧力鍋があって良かったと一番思う時はこの牛すじを料理しているときに一番感じているかもしれません。
YouTube観ながらちょっと寝ちゃうのが一番疲れが取れる気がしますね。ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
言葉尻取るっていうか、言葉に敏感な人増えましたよね。
「楽しんでね」って私は言わないようにしてるっていう投稿がどこかのSNSで出て来て、え?って何がダメなの?と思ったけど、この楽"しんでね"のところがダメらしいですよ。まあ、言わないようにしてるだけで、言われたからどうのうこうのってわけでもないらしいですが、自分が言わないようにしているという主張が自分は一線を引いているという薄いベールを纏っているようにみえました。
そんな投稿を見て、某検定の勉強をしていたら「万◯に値する、◯力を尽くす」っていう言葉が出て来たんですよね。これはここでNGワードのアレなんですけど、わかりますか?デッドな言葉とでも言っておきましょう。
検定の問題にもなっているくらい、慣用句として成立している言葉を避け続けるってシンドイって思うんですよね。
そんなことを考えていたら、昔に「眠くてしにそう」と言ったらその言葉は良くないっていわれたことも思いだしました。別に実際に三途の川が見えたわけでも行こうとしていたわけでもないんですが⋯
このワードだけじゃなくて、「頑張って」という言葉もダメとか、そんなこともありました。いってらっしゃーい、頑張ってね〜くらいの挨拶なんですが、それもダメだと言われたことがあります。しかも、この話は言われた本人じゃなくて、その会話を聞いていた他人が注意してきたので、さすがに反応しすぎと思った記憶があります。
そんな言葉の記憶が芋蔓式に蘇った日でしたね。
でも私は、眠くてしにそうでもし力を尽くしたいときは尽くしますし、頑張って楽しんで生きたいです。
久しぶりにカラオケ行ってきた。今日は喉が痛い。
喉が痛いって事はちゃんと歌えてないんだろうなと、最近オーディション番組のボイトレ見てて思ったりした。
最近カラオケはご無沙汰だったから新機能色々知らなかったから、発達しすぎててちょっと面白かった。
ボーカルが不案内だったら一緒に歌ってくれるボーカルガイド付けられるし、採点機能の音程バー見たら外れてたりすると良く分かるし。
採点見てると色んな小技入れたかどうだかも分かって楽しい。
マイク揺らすといいとか聞いた事あったから試してみたんだけど上手くいかなくて、このマイクなかなか高性能だな?と気づいてみたり。
カラオケの採点機能の言によれば私は表現力不足らしい。音程はそこそこ合ってても小技出せないから高得点にはならない。
たまーに90点出たらいい方だった。
時々見るカラオケバトルの点数は上手いとは思ってたけど本当に高得点だったんだなーと知った。
でもまあ本人映像だけじゃなくライブ演奏と歌うとかって機能も楽しかった。
また行きたいなー。もうちょいボイトレとかしようかな。
管理人です。
この度、心の色でつながるクローズドSNS「mood」をリリースしました。
https://straightline.jp/mood
nisshiやnisshi2のDNAを受け継ぎ、SNSとしてさらに発展させたのがこのmoodです。きっとnisshi2をご利用の皆様にも気に入っていただけるのではないかと思っています。
もちろん、nisshi2はこのまま残していきますのでご安心ください。ぜひ、新しく誕生した「mood」も一度触ってみて、新しい繋がりを体験してみてください。
ツラツラと⋯
を熟熟と⋯書いてツラツラなんて人生で一度も使ったことないし、見たこともないのですが、熟熟とここに書くことで初めて使ったことにしますね。
間違えていつもより小さいサイズのラップを買ってしまった。
小さいだけでどうにかなると思っていたけど、普通に使いづらいです。
ラップでおにぎりを握るのですが、ちょっとご飯がギリギリで余裕がありません。
余裕があるのが当たり前のときは余裕があることに気がついてないんですよね。そもそも、なんで間違えたのか謎です。
この年、成人式2回くらいやっていそうな年齢になって親が嫌いになっている私ですが、この年齢になると親に感謝している人が現れてきて、それが私とは違うなと思い、そして勝手に傷ついています。
成人式1回目のちょっと過ぎまで、色々あったけど感謝の方向性を保っていたのに、それが徐々に出来なくなって、感謝に違和感を覚え、反発し、そして今は嫌いです。
親が嫌いなことよりも、感謝をしたいという思いに至らせてくれなかった親が心底ウザいと思うのです。
この年齢で親に純粋に感謝していないと、大人としてどうなのかというレッテルを貼られているような気がする。私もきっと親が違ったらちゃんと感謝していたのに、また私が悪いのか、ここまでもと思ってしまうのです。
そうなんですよ、ずっと私が悪いことにされてきたから、それがシンドイんですよね。私の意見や希望は「ワガママ」とされてきました。だから本当にワガママなのかそうじゃないのか未だにわかっていないところはあります。
だって周りは、私がワガママだということにさせられたり、我慢をさせられてきたことを普通にしてもらっていたから⋯
自分もこんな人間なのに、親になってしまいました。親の正しい見本みたいなのを知らないから親になれたのかもしれない。
ただ、自分のような思いをさせたくないという思いがやっぱりあって、アレ?それは何で?と考えたときに、あの頃の私は傷ついていて、親のアレコレは正しくなかったんだなと思うからです。
そんな親に育てられた自分はいい見本には慣れないんだろうなと、何かちょっとでもモヤッとすることが起こると考えてしまいます。昨日も本当は家に帰りたくなかった。ちょっとしたことでモヤッとなって、心が考え過ぎるのが疲れるのです。
だからなるべく1人でいたい。私は人としてあまり出来が良くないんです。だからシンドイ。親ももうちょっと出来の良い子なら優しかったかもしれない。でも、優しくされるために頑張りたくはない。それは今も昔も思っていることなんでしょうね。
今週もなんとか生きますか。
家族が天寿をまっとうするのを見届けたら、私は翌日にでも終わりたいのです。
父母には仲良く長生きしてほしい、夫にももちろんそう思っている。
私が生きる理由は3人のためなのです。1人は先に行ってしまったので。
それだけ。
だから、そのあいだは、がんばります。
悲しませたくないから、私が元気なことがその人たちの救いになっているから。
それだけなのよ、生きる理由。それが大切で私はすがって生きている。