私がかつて学んだ高校のある学科が、数十年前に姿を消しました。正直なところ、寂しさを感じるよりも、高校の発展を考えれば当然の決断だったと納得しています。
私もその廃止された学科の出身なのですが、確かに私たちのクラスには、どこか「野生的」な雰囲気が漂っていました。在学中は友人たちとそれなりに楽しく過ごしましたが、一方で「そっち側」に足を踏み入れてしまったような感覚も否めません。非行に走ったわけではありませんが、多くの生徒が「何も考えずに過ごせればいい」という風潮に流され、真面目に勉強する者がかえって浮いてしまうような環境でした。
入学は容易でした。私自身、勉強しなくても入れる学校を選びましたし、親の意向も大きかったです。もちろん、その雰囲気に流された私自身の責任も否定できません。しかし、高校生という多感な時期は、周囲の影響を受けやすいものです。そう考えると、当時の学科に漂っていた芳しくない空気は、やはり改善されるべきだったのだと思います。
だからこそ、あの学科が廃止されたことは、むしろ喜ばしいことだと感じています。若い頃には、良い意味で周囲に感化され、成長していく経験が必要です。健全な環境の中で、生徒たちがのびのびと学び、自分を磨けるような「良い流れ」を学校が提供してくれることを願っています。
文句や愚痴ばかり言うのも確かに良くないけれど、文句や愚痴ばかり言うなと言うのも良くないとは思う。ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
私たちは、自分がイライラしていたり、多忙を極めているときに、周囲の人々を委縮させてしまうことがあります。これはごく自然な反応かもしれません。しかし、自分が「教わる立場」にあるからこそ、この事実に気づけます。
かつて自分が「教える立場」だった頃を振り返ると、質問しやすい雰囲気を作る難しさを痛感します。自分で作業を進めた方が早いと感じたり、かつて自分が抱えていた「わからない」という気持ちを忘れがちになったりするものです。教える側も教わる側も、それぞれが自身の業務に手いっぱいで、他者にまで気を配る余裕がないのが現実かもしれません。
しかし、人生においては、私たちは様々な状況で立場を変えていきます。だからこそ、表面に見える状況(表のカード)の裏に隠された気持ちを、そして逆に見えない状況(裏のカード)の裏にある表の気持ちを、常に想像し続けることが重要だと考えます。
この視点の転換こそが、最終的にどんな立場であっても、表裏一体となって活用できる「一枚のカード」として、より良い人間関係を築く力になると信じています。この考え方を胸に、日々精進していきたいです。
中学生のときから仲良かった子、今思えば親が厳しかったのかも?
同じような偏差値の学校は近い範囲でけっこうあるのに、都会の私立女子校に進学していた。当時はあまりきにしていなかったけどかなり時間が経って、ブランド思考の親御さんだったのかなとは思う。
ウチは絶対に公立の家だったから、まず子どもながらにお金をかけてもらえることが羨ましいなとは思っていたな。頭が足りないから入れなかったとは思うけど、そういうタイプの女子校に入っていたらおそらく合わなさすぎて潰れていたかもなと。
それなのに、こんな私と仲良くすることを認めてくれてたのは感謝しかないんだけど、内心本当は親心としては私のようなタイプが友達って嫌だったのかもしれないとは思う。その辺の適当な公立高校行っている私とは付き合いさせたくなかったかもしれない。それでも今でも連絡取ろうと思えば取れるし30年近くどうにかなっているのはなかなか凄い。
でも今出会っても私たちは仲良くならないだろうなと。なんかそんな気がする。
こちらが忙しそうにしていても平気で今じゃなくてもいい話をしてくる人ってなんだろう。
自分が忙しいときは話しかけるなオーラすごいけどね。
何だろう。
mood よりこっちのほうが落ち着く。
アイコンもハンドル名もプロフィールもいらないよ、
心の色は自分で決める。
ある程度頂上にいると思っていたのに、そこは麓だったみたいな感じかなと。だから周りが何故登山をしているのか理解出来ないし、それを笑うことで平和に暮らしたかったのかな
朝起きた時から頭が痛くて頭痛薬も飲んだけどなんとなくまだ治らなくて、2回目の頭痛薬飲もうかと思ったけど、その前にとりあえずアイス食べるかと思って食べたら頭痛が治った。
ずっと折り合いの悪かった無関心無神経母と、ようやく精神的に決別した。
数年前、実家を出てから10数年ぶりに同居することになり、昔より話が分かるようになったように感じた母の変化に、子供の頃一度捨てた希望が再燃して、やり直せるのでは、今なら話したら分かってくれるのでは、と思って諦めきれない気持ちで4年間ぶつかってきた。
けれど先日、私が仕事のストレスとプレッシャーで体調崩した時に、辛さを訴える私を母が自分の物差しで測って「放っておけば収まる」と判断し自分が楽しみにしていた遊ぶ予定を優先した時、ああこの人は変わらないんだ、と決定的なものを感じて、何かが私の中で終わった。
これからは、私には母親はいないものになる。ホームステイをしているんだと思うのが一番近い気がする。
他人として接し始めたら、これまでも何度か似たようなことはあったはずだけど今回は決定的だということの表れなのか、不思議と何も気にならなくなって腹が立たなくなった。分かってほしい、気にしてほしいと思っていたから腹が立ってたんだな。その代わり、今までならどうでもいい話やその日あったことなんかを話していたけど、そういうことを共有したいという気持ちもなくなった(だって他人だし)。
父と決別した20年後に母ともそうなるとは、人生って予想不可能だなと思う。母との関係が少しずつ改善していた気がしていた間、自己肯定の問題や今まで対人関係うまく行ってなかったのも少しずつ良くなっている気がしていただけに、それも諦めなければいけないのはまだうまく受け止められていない。私は両親どちらも喪って、これからうまく生きていけるだろうか。
最近読んだ本の中での感想。
山本文緒のプラナリアという短篇集です。まだ表題作のプラナリアしか読んでいないのですが、良かったなと思ったので何か書いておきたいなと。
若くして乳がんになって、手術をするという治療のクライマックスは終わり、その後も通院したり薬を飲んだりして、まだ乳がんは続いているけど、周りからは乳がんはもう終わったこととされる悔しさが表現されていました。病気を治療というだけじゃなく、こういうシチュエーションってけっこう何処にでもあるよななんて感じながら読んでいました。もう終わったことなんだからと自分じゃなくて、他人から決めつけられることはなかなか心がすり減りますね。小説では彼氏から終わったことと決めつけられていましたが、決めつけが身近な人であればあるほど変な傷になりますよね。
一方で、乳がんとしての自分を使って生きていきたい部分と自分の中で乳がん患者としては終わった部分があるということを巧みに表現されていて、この部分も病気じゃなくともあるよなーと考えていました。いわゆる、自虐ってヤツですよね。「私、乳がんだから」とあっさり仲間内に言ってしまうのは自虐だけど、自虐にすら使えなかったら乳がんになって感じたツライ気持ちや治療をしてきた意味がないって思ってしまう感覚なのかなと。主人公は若い24歳だったので、なおさら自虐に走らないとシンドイのかもしれないなと。
仕事先の人が乳がんの闘病記や本を贈ってくることに違和感を覚えるシーンも、なんとも言えない嫌悪感がよく伝わってきましたね。そういう時期はもう自分の中では終わっている乳がん患者としての部分なのにと。
「私は乳がん」ということで自分を奮い立たせてる部分があるのに、間違った視点でそんな本を贈ってくることに苛立ち、そしてそのついでに仕事への取り組み方も注意してくることに、病気を心配してあげて、注意するところは注意するけど、注意は軽めにしてあげるワタシみたいな意図的なものが透けていたところがリアルだなーなんて感じてました。こういう、受け取った側が変に捻くれて解釈した方が負けみたいなやり方に苦悶したことって他の人もあるんじゃないでしょうか。
乳がん患者として生きるということを自分では認めて、自分なりに乳がんを咀嚼して生きているのに、周りはその咀嚼音を認めない。入院中に一緒だった人と上手くいかないから、今度の職場で上手くいくように自己開示をすると別ところで不快感を持たれるという部分にも生きることのもどかしさや難しさが描かれていたなと。
人生が上手くいかないと感じるのは人生の過ごし方を誰かが決めてそれに則らないと雑音が入るからなんでしょうね。その雑音を毎日掻き消して誤魔化しているうちに人生って終わるんでしょうけど、その雑音を掻き消すのってかなりシンドイよね〜なんて感じた短篇でした。