冬至の柚子湯、匂いが好きなので毎年やってるけど、毎年「この柚子もったいない…」と思ってた。
今年は何とか利用出来ないものかと考えてたら、柚子茶の仕込み時に出た廃棄部分で柚子湯にするという動画を見かけて、今年はこれで行こうと決めた。
早速柚子買って来て、色々仕込んでみた。
先に買ってた柚子以外にたまたま行ったフリマで売り出されてた安くて状態のいい柚子もあったので結構な量の柚子を仕込む羽目になった。
動画に従って、柚子茶と柚子皮と果汁でぽん酢を仕込み、廃棄の種は焼酎漬けにして、最後の廃棄物はお茶パックに詰めてお風呂に入れた。
分解してモミモミしたからもっと香りが出るかと思ったんだけど…やっぱり香り成分は皮にあったのかと思い知った。あんまり香らなかった。残念。
だけど何となく湯がとろりとしたので成分はかなり出てたのかも?
もったいないと思いつつ、やっぱり柚子湯は皮が必要なんだなと思った出来事でした。
でもやり切った感はとても良かった。
動画を見ながら面白そうな折り紙を折ってみた
動画では簡単そうに折ってるけど難しくて
四角く残すとこはペンで囲ってみたりしたけど全然できなくて折りすぎて折り紙がへにょへにょになった
手先器用と思ってたの違ったみたい、ちょっとショック
けど、折り紙久しぶりで楽しかったから違うの作る
雑談の中にある爆弾⋯
あからさまに言葉の爆弾があるって時は気をつけられるけど、そこに爆弾があると思わないで話していると、突然の爆弾の発見に驚いてしまい何も話せないと⋯こうして不発弾みたいにしばらく見つけられないのがコワイのです。
A「ある世代にとってはそれは面白いらしい」
B「それを見ていないから面白くないとは決めつけられないけど、見ようとは思わないよね」
A「そう、だから“らしい"って言ったんだけど」
この会話、AとBのどちらに違和感を覚える人が多いんだろう?
私はAの「だから"らしい“って言ったんだけど」に強烈に違和感を覚えてしまったのです。BはAが決めつけてそれを面白くないって言っているとは述べていなくて、B自身の視点の言葉だと思うのですが⋯A自身も面白くなさそうって感じている部分に寄り添っていると思うんですが、そう聞こえないのが普通なのでしょうか?
なんかこういうことがあり過ぎて疲れるんですよね。そう、私はBの立場なんです。相手のことを否定していないのに否定していると受け取られることが多い。あまり話すのが得意じゃないって自分でも思っているから、私が悪いのか?なんて考えたりもするけど、自分としては否定しているどころか相手に寄り添っていると思っていたので、こういうのが続くとシンドイです。
「それを見ていないから面白くないとは決めつけられない」ここがメインになってしまって、相手を否定したようになってしまうのかな?でも、相手が面白い“らしい"って言ったことに、寄り添っているからこそ、出た言葉でもあるからどう答えたら正解だったのかと思うんです。
こんな感じでちょっとした雑談の中に爆弾が仕込まれているなと感じることが増えました。
会話の相性が悪いって単純にあるのかもしれないけど、最初は会話の相性が合うと思っていた関係だから悲しいのです。だから、私に原因があったとしても、それを直していかなきゃならないのかな?と思うことがもうシンドイのです。
昔より断定した言い方を自分もしなくなったし、出来なくなったけど、そっちのほうが良かったかなんなのかわかりません。ただ、自分では今の私の断定しない部分がいいと思っているので、そのままにしたいです。なんか会話って難しいですよね。
半年前くらいのことだから忘れそうになるけどライブのチケットが当たったんだった
ずっと追いかけてるわけじゃないけど、にわかってこともないし楽しめるよね?
誘う人も思い浮かばなくてひとり分しか申し込んでない
前のときは客層があっちのファンとこっちのファンとラジオ好きもいたからひとりでもどうってことなかったけど
今さらちょっと不安になってきた、最近寒いから心細いのかな
とりあえず年末年始、予習復習しよう
私が知らないから有名じゃないからダサいって価値観は意外とそのへんに落ちているんですよね。
私は知らないけどってことは山程ありますが、それを簡単にダサいと言い切ることだけはしたくないなって思います。
もうライブから1週間経ったのか⋯
なんだかんだで、彼らの初めてライブ行ってから25年近く経つのか⋯早いな
このアーティストを好きでいて良かったのだけど、好きでいるのは大変でした。アーティストの問題ではなく、それらを応援する環境が本当に良くなかったなと思うんです。
あの頃はCDが売れた時代でミリオンセールスがバンバン出ていた時代でした。そういった状況の中でミリオン出していないから売れていないと安直な考えをする人も多かったんです。
私の好きなアーティストもミリオンは出していないけど、セールスランキングには入るし(今ランキングを大々的にやらないよね?)そこそこ大きい会場でのライブもやっていたんで、売れていないと言い切ってしまうのは出来ないとは思うんです。
ただ、うちの両親はこの安直な売れていないと感じる価値観の持ち主だったので、そんなものがすきなの?みたいな風はすごく吹かされていました。友達にもソレが好きなことをバカにされたりしたこともあったし、たぶんミリオンアーティストにならないと売れているって感覚がなくて、それ以下は売れていないからダサいって空気は周りから感じました。
周りからみれば、"そんなもの“という扱いの音楽を聴くのはやっぱり大変で。特に現在と違って姿を観たけりゃライブに行くかテレビを見るしかなくて。出演したテレビとかはやっぱり見たいのですが、それを見るのも大変。“そんなもの"見るくらいなら、こっちの好きなものが見たいという圧に耐えながら、なんとか見ていました。同様にビデオ、(途中でDVDになりましたが)を見るのも大変。"そんなもの“まだ見ているんだって圧をくぐり抜け、テレビを占領したい父の圧もあったし、そんな中でサバイバル的な今でいう推し活をしてました。
そんな圧あったからかもしれないけど、途中で聞かなくなった時代もあって、こんなに応援しているのに売れなかった⋯という思いが私の中にも出てきてしまったんですね。サバイバル推し活ではなく、誰もが認めるような地位にまで登ってくれることで安全な推し活がしたかったのだと思います。サバイバル状況に疲れたっていうのは否定出来ないですね。それを周りのせいにしているという考えもあるのかもしれませんが⋯
ただ、私は安全な推し活をしたがった自分に対しては後悔している部分があるので⋯現在もまた応援させてもらっています。
単純に曲がカッコいいし、自分と一緒にサバイバルしてきたって思いもあるし、その当時の思いが溢れるセトリだった先週のライブはグッと来ました。
都合良く考えると、良さを改めて実感したことは離れたからかもしれません。アーティスト側にはもちろん申し訳ないのですが⋯
またライブ演るのを夢見て生きていくんだろう⋯ズットズットオマチシテオリマス⋯
アンケートきたけど名前を書くとこなくてもクラスと番号が必須だからほんとに思ってること書けないや
『わからない』ばかり選ぶのも消極的で無関心な感じだけどわからないものはわからないよ
わたしは保護者ですけど、なんか先生イライラしててこわいなぁ学校行くのやだなぁって書いたらダメなんでしょ
Xのその場で当たる系のキャンペーンで当たったお菓子美味しい。
当選品を引き換えるついでに他のものも買って欲しかったのだろうけど、本当に引き換えだけしてしまった。
買いたくないとかじゃなく、当選の画面をスマホで出してポイントアプリを出して、決済バーコードをスマホを出すのが面倒に感じられたのですいません。普通にいつもは買っているから許して欲しい。
「感受性が強い」「感受性が豊か」と子どものときに母に言われたことが多々あったのだけれど、具体的にはなんなのかよくわかっていなかった。子どもなんだから当たり前なんだけど。褒められているようなニュアンスで言われているとは当時は思ってた。
でも、あれから30年以上経って思うのは、私が感受性が高くて豊かということにして、私から逃げていたんじゃないかと思う。
母自身のイラつきや不機嫌さを感じとってしまうことも確かに多かった。ただ、それは私が感受性が強いのではなく、母自身の問題であって私の感受性アンテナが強いというわけでは決してなかった。
イラつきたいのに自由にイラつけない。弟たちに比べて何かイラッとするのに、それを感じとってくる私にさらにイラついていたのかもしれない。女の子なんだから子どもだろうと私に共感してくれるのは当たり前。だから多少イラッとしても受け止めてくれるだろう⋯とも思っていたのかもしれない。
実際、私はかなり不器用だし、頭も良くないし、スポーツもダメだし、だからといって大人が喜ぶような明るい子どもでもない⋯
特に母がさらっと出来たことを出来なかったりすると、同じ性別として腹が立ったのかもしれない。弟たちは教えなくても出来るのに⋯なんてよく言われてたな。
そんな総合的な不快感とそれが1番近い娘という存在なことを、無理矢理にでも受け入れるように聞こえてる言葉が「感受性が強い、豊か」だったのかもしれない。イラつきがバレているのは私のせいにすることで保っていたのでしょう。
自分だからこそわからない部分もあるかもしれないけど、私の感受性は別に普通だったし、今、感受性とやらが強かったとしても私のネガティブセンサーが過剰に反応して私には何の役に立ってないのです。感受性って一体、なんでしょうね。