2025.01.10Fri
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やろう、やらないと、やらないとなそろそろ
まいいか、月曜から、生理おわったら、、と
どんどん先伸ばにして年越してしまった
やらないといけないこと。

二重窓にするからベッド移動して
出窓にある大量のものをどかす
簡単にできそうで、できない。やらない。
窓際が寒く無くなるのは嬉しい
夏は暑いから冬にしてって言ったのもわたしだ。はぁ。やらないと


非表示 18:41

今年はいらないと思ってたのに急にポチ袋が必要になった

ポチ袋ってぴったり買うのが難しい
毎年微妙に余って、だいたい同じ子達にあげるのにそれをまた使うのもなんだし、そうするには足りないし
割り切って毎年同じ柄か柄なしにしたら気が楽だけど、それもつまらない

今年は家にあったお気に入りのリバーシブルの折り紙で折ってみた
なかなか素敵な仕上がりになった
わたしは子どものときポチ袋かわいいと思ってとっていたけど、あの子達は袋なんて気にしないかな、そんなもんかな


非表示 13:20

私の純粋な気持ちで好きなものでも、それが流行っているかどうかで貶されないことが多かったかも?
25年前に話題の二人組みのベストアルバムが出た時に、それを好きなことで貶されることはほぼなくて、そういう心地よさはあったなと思い出してました。今もまた世間で再燃してる様子を見てもそんな感じがします。
自分の周りの人間が知らないものや、誰かが流行ってないと認定したものを自分が好きな場合、バカにされることは多かったのです。流行りものを好きだということは余計な雑念が入りにくいということだけでも有り難いのかもしれないです。
いわゆる推し活をすることによって、多くの人が認める環境を整えることはアーティストや応援する対象が潤うこともあるが、自分にも潤いを与えられるのかもしれない。
でも、流行ってるとかそれだけでは自分の心に響かないものも多いです。たまたま話題になっているものを自分も素直に好きだと思えると、好きという感情だけがあってそれ以外の変な音は拾いにくいので、その環境、羨ましいなと思った次第です。


非表示 06:26

年末の歌合戦で話題になった2人組のCDをまた引っ張り出して聴いています。25年前に買ったCDなのですが、またあの頃を思い出してしまった。いらない何も捨ててしまおうと言いながら片付けよう。

2025.01.09Thu
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家の中でのヒエラルキーというものは外においても影響する。
兄姉が思春期まっただ中において、超最強わがまま甘やかされ末っ子として育った私。
姉兄からのヘイトを一身に受けて育った。ただ手を出されるようなことはなく、結果として「存在は無価値でヒエラルキーの最下層であり空気」という「いないもの」扱いをされることとなった。
そうして社会に出た私は「人に相手にされることはない無価値の生物である」という自己認識を無意識に持っていた。どうなったか。集団において、集団が何かを話し合っていても、そこに私が混ぜられている、という認識がひどく低い。意見を求められたり、会話を振られても、自分に振られるという選択肢が最初からないので正しい受け答えができない。だからいつもぽかんとされたり「そ、そっか、えっとじゃあ…」と他の人へとバトンが渡る。
正直、それで安心するし、私はただラジオを聞くがごとくここにいて、適当にみんなと相槌を合わせ、そこにいる振りをしているのに、私に話を振ったって何も意味のない存在であるのになぜ振るのかと心から疑問が湧き出てしまう。普通は、きっとそうじゃないんだろう。どうしてもわからない。
きっとそうなることで家族の中で心を守って生きてきたのだ。
空気として扱われた方が、私には日常的であり、幸せな日々が続くのだ。
私はきっと、外から見て不幸な家庭で育った人間なのだと、この年齢になってから気づいてしまった。


非表示 09:22

わかりたい部分だけわかりたいし、いいところだけ見て見られる距離感は大事。それが許される関係ならわざわざ知りすぎることはないと思うのです。


非表示 05:53

ネットのキャンペーンで当てたいちごメロンパン、美味しかったけど、私の年齢には重たいとも思ってしまった。
いちごメロンパンってよく考えたら、メロンどこにもないのにイチゴパンだけだと伝わらなくて、今更メロンパンに他の名前をつけても定着しないだろうし⋯でもそれが認知されたらもう永久にメロンが入ってなくてもメロンパンだから、認知させることって大事ですね。


非表示 05:11

京都慕情という曲が好き。
「京都人の密かな愉しみ」という番組でアレンジされた曲が流れていたのを聞いてからずっと好きだ。
高校生の時にこの番組と曲に出会って、結局憧れて大学生活は京都で過ごした。
春、バイト帰りの夜22時くらい、橋の上で桜を眺めながら一人酒を飲むおじさんを見て、ああドラマみたいと思ったなあ。曲を聴くとあのおじさんを思い出す。
高瀬川ではなく高野川の話。比叡山が綺麗に見えるのだ。


非表示 00:41

母は物が捨てられない。
よく親の遺品整理に呆然としているという記事をあちこちで見たが、母はその前兆がものすごい。

私の実家は高床式。
雪国によくある家の形をしている。1階はガレージ、物置。2階から上か住居。
1階にはこれでもかと捨てられないものが溜めこまれている。
そこにはよく、いらないと思って捨てたはずのものがひっそりとピックアップされて鎮座していることがあった。
捨ててほしいものが、私の中で不穏分子やノイズと言っても過言ではないものたちが、母にはお宝のように映るらしいのだ。
物のない時代に育った人の弊害だろうか。
もったいない、の精神はわかるが、現実を見てほしい。まだ着るよ!と言って持って行った服が着られているところを見たことがない。母は縫製の仕事をしていたので袖丈を詰めるなんてお手の物だが、ただ単に縫製作業が好きなだけで「着られるように蘇らせた!」という実績をアンロックしたいがためだ。どれだけアンロックしたいのか。アンロックするにしても、人が視界から消したいものまでリブートしなくていい。
いつからか、捨てるときは完膚なきまでにズタズタにし、割れるものは割り、家電はコードをぶった切り、再起不能にしてから捨てるようになった。原型をとどめているものがあれば、逐一「これはもう嫌な思い出しかないので」と断るようになった。そうでなければ家の中で要らないものがなくならない。

物がない時代は知らない。
物のある時代に適応し、物を少なく持ち、いかに自分が自分にフィットする一番良いものを持てるのか、そこに今はステータスがあるように思う。

まだ使える、ではなく、いま自分にこれはぴったりと来るものかどうか、なのだ。
いつか使う、ではなく、いま使ったらどれだけ生活の質と心が豊かになるか、なのだ。

悲しいかな、母にはそれが通じない。

蛇足だが、数年前に突然「整理を進めているの!」と母が言い出したことがあったが、1階の物置の中で真っ先に捨てると言い出したのは姉兄私の子供時代の写真だった。
母には深い闇があると気づいたのは最近だ。

2025.01.08Wed
非表示 21:46

最近ちょこちょこ編み物してる。
最近編んだのは帽子。普通の帽子じゃなくて折り返すとリバーシブルにも、伸ばすとマフラーにもなるデザインのものだったので、普通の帽子編むのの2倍時間がかかった。
時間かかった分それなりに満足出来る出来になりました。
その後、図書館で借りて来てた編み物エコバッグの本からネットバッグも編んでみた。
前から編もうと思ってた根菜類保管用のもの。
汚れてもいいように麻紐で編みました。スズランテープで編むのもありだったな。
麻紐編むのは凄い力がいった。太いからすぐ編めたけど。
しばらくは麻紐は編みたくないな。
編み物の波が来てるので色々編みたくなってるけど、慢性の肩こりを騙し騙し編まなきゃいけないのでなかなか大変です。

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