「本当にやりたいこと」は「何もしない」ことなんだよな。
プーさんと一緒。もしかしてくまのプーさんの「プー」てそういうこと?
今の職場、基本的には今までを考えたら天国みたいなところで、定年までずっと勤めたいと日々思うような場所なんだけど、自分が苦手だと思いもしなかったことが分かるようなこともあって人間的に未熟だと思い知らされる
例えば自分から手を上げて発案、リードを取って推進するってことがよく求められるんだけどこれがかなり苦手だってわかった
なんでそんなにストレスになるのか考えてみたら、まず手を上げてリード取るとなると、当然自分の案についていろんな人があれこれ言う、それに慣れてないからだと思うけど言われたことをいちいち真に受けて悩んだり反発したりする
それに、自分はこうしたい、という思いを出しすぎたら周りの人の反感を買ったり興味を失ってしまう(「じゃあ好きにすれば?」)んじゃないか、という恐怖心もあると気づいた
多分単純に自分がいいと思うやり方について何か言われるのが嫌だ(逃げたい)という気持ちもありそうで、それは何かきっと更に根深い問題に原因がありそうだとも感じている
果たして自分はそうやってリードを取るってことはしたくないのか、それとも単に慣れてなくてやり過ごし方やリードを取ることの楽しさを知らないだけなのか、やってみなきゃわからないから挑戦はしてるけど、自分の根っこにあった未解決の問題がゴロゴロ明るみに出る感じでかなり痛みを伴う
手作り弁当の衛生面が気になるから、食中毒が気になる季節は思い切って弁当をやめよう!とはならず、アレコレ対策して弁当を続けさせようとするのが日本っぽいと思いました。
自分で決めてきたように思うことでも、紐解いて見れば「自分で決めたように思わされている」ことって多いのかもしれないと思いました。
「こっちの道に進めば今と環境は変わらないけど、食料は少ないから自分で確保するために別の道と平行して進まなきゃならない。だけどあっちの道に進めば、今と環境は変わるけど、他の道と平行しないでもそこで頑張れば食料は確保出来る」
という言い方をされたら、こっちの道より、あっちの道のほうがいいかな?なんて考えてしまうと思うんですよね。
進ませたい道があるけど、自分で決めたという形が欲しいときの導き方ってやっぱりあるんだと思います。
それを含めて、「自分で決めた」という意見ももちろんあるでしょうが、誰にも導かれないで左右されないで、自分で純粋に決めたことって、私にはあるのかな?なんて思うのです。
カレンダーは家族の予定を書き込んで使うので、永遠に使えるみたいな日めくりカレンダーって日めくりが手間だしわたしは選ばない。
家族がデザインもちっとも好みじゃない日めくりカレンダーを買ってきて、そこは違うだろってとこにぶら下げた。3ヶ月くらい経つけどたいしてめくってないし、自分の部屋にぶら下げてもらいたい。
ここまで書いて、ああそうだわたしには自分の部屋もないんだわと気づく。
もう2・3年前だろうか。
自分が妄想の世界に迷い込んでいた時に、「それ、妄想だよ」と誰かに言われてその世界から抜け出すことができた。
それから一年後、また症状が出たときも、「本当は何も考えていない、妄想」と誰かが繰り返し言ってくれたおかげで妄想の夢から意識を取り戻すことができた。
あの声はいったい何だったのか。
2024年、去年の12月。
一連のものとは少し違った声がした。
脳内に「頑張れ」と一言、その言葉が響いたと同時に、かなり攻撃的な言葉がずっと浮かび上がってくる。
当時、自分の意識はハッキリとしていたので、何だか不思議になってしまったことをよく憶えている。
攻撃的な言葉は「頑張れ」に対してのものなのだろうか。
オタクとしてはこの心霊的で脳病的な脳の働きに興味がある。
もうホラーゲームみたいで面白いよね。
(*6ω6)まじで脳外科とお祓いに行きたいわ~。
自分の話というよりは家族の話になってしまったけど、それも自分を構成するものだからしょうがないかなとも思うのです。
最近弁当を作っているので、その関連の記事やSNSなどを見ることも多いです。
その中で、「簡単!すぐできる!」「5分で」みたいなことを描いてることも多いんですが⋯
これ、朝から簡単じゃないよなーとか。5分では無理だよなーって思ってます。
こういう、簡単!すぐできるとか5分で!って人によって感覚違うなと思うんですよね。
例えばハンバーグのレシピで、玉ねぎ刻んで、袋の中でひき肉とそれを捏ねて絞り出すから成形の手間がない!って謳っててるけど、私にとっては朝から玉ねぎ刻んで、袋の中とはいえ、ひき肉を捏ねて焼くって手間以外の何者でもないんですよね。
その人にとっては成形の手間がないことが魅力なのかもしれないんですが、そこを端折ったところで手間だらけじゃない?って思うのが私なのです。
何が大変か⋯って、もう個人個人のものだから安易に簡単!と言われるものを信じられないし、結局は自分のことを理解して自分が思う簡単を探して定着させないと意味ないんですよね。
今日は肉を焼いて適当な調味料で味付けして簡単だったかな?とは思いますが、たぶん人によっては朝から肉を焼くことはシンドく感じるのかもしれません。
40にもなって、きっと多くの人は10代〜20代で気づいたりぶつかったりするんだろうな、と思うような自分の育ちに根っこのある問題に今頃気づかされる。
自分に逃げ癖があること。立ち向かって潰れるより上手に逃げられる方が賢い、と思ってたけど、それとは全然別の次元で、人から何か言われた時に反射的に否定や批判だと思ってすぐ言い訳したり(その癖はだいぶ直ってきた)、否定したりする癖がある。小さい頃からずっと、親を始め人から何か言われるとしたら褒め言葉だったことはたぶん一割以下で、ほとんどの場合は遠回しなものも含めてネガティブなものだったからだろうと思う。だから咄嗟に何か言われる=怖い、嫌だ、やりたくない(できない)、という気持ちが先に出てしまう。それに周りも気づいている、ということを教えてもらって(決して嫌味ではなく)、愕然とした。そんなつもりなかったのに、すごく無責任に見えていたんだなと。相手を「この人は自分を傷つけない」と信用をしていないということでもある。まず「うっ」と思ってしまう気持ち、反射で返したくなるのを堪えると、相手の言っていることがそこまで理不尽じゃないと分かることに気づいた。この繰り返しで克服していくしかないんだろうと思う。
判断や答えを他人に求める癖もある。今の職場が「自分で考え自分で答えを出し、それを発信し責任を持つ」方針で、そこで初めて自分は生まれ育った家庭も学校も今までの職場も、とにかく合わせることを求められてきたんだなと気づいた。その癖はそう簡単には抜けなくて、自分がどうしたいかより先に「それはこの集団において評価されることか・価値があることか(そうでないなら無駄だからしない)」を考えてしまう。それが悪いとは思わないけど、自分がどうしたいか、どう考えるか、それはなぜなのか、を考えてみたら、その方が楽しい。なかなか抜けない癖だけど、これも気づいたらまず一歩かも。
いくつになっても発見はある、といえば格好いいけど、ただただ恥ずかしい。
昨日はついに筍を茹でたのです。
筍の風味に頼り切った筍御飯は料理上手に見えるので嬉しいです。
上手く見えるものを使うのは大事。