2025.01.28Tue
非表示 05:13

当時は日の目を見なくても、時が経てば時代も見る人も全部変わるから光が当たることもありますね。
同じこと言ってもスルーされたり気に入られたり、すべてはタイミングなのかもしれません。

2025.01.27Mon
非表示 13:56

可能性を拡げるために勉強するってよりは、逃げ場所を増やすために勉強するって考えたほうが私の場所はモチベーションが保ちやすいかも〜?とどのつまりは言ってることの目的地は一緒なんだけどね、常に逃げたいような気持ちがどこかにあるからかな。
可能性は無限大。と言われるとわかるけど素直に受け入れようとしない自分がいる。でも、逃げ場所は無限大って言われると自分にはしっくりくるんだよね。捻くれすぎですけど、逃げるエネルギーや知識ってあるとないのでは違うんだよね。
もういい大人だけど、逃げ場所確保のために色々やってた。それは知識にはならないでそのまま蒸発してしまうかもしれないけど、逃げ場所確保のためにやっているということ自体がもう逃げ場所になってくれていたらいいなと。
逃げるって大事だからこそ、ちゃんとその時が来たらサクッと逃げられるようにしたいなぁ〜とまだ思ってる。


スキーと人生

非表示 09:47

雪国に住んでいた子供の頃、スキーが学校の授業であって、私はそれに毎年苦戦していた記憶がある。クラスで1番スキーが出来ない子で捻挫はしょっちゅうしていた。
1番スキーの授業で精神的に堪えたのは、1日中スキー学習をするために遠足のような形でスキー場に行く日があるのだけれど、その日は特別支援学級のクラスに入れられたことである。
勉強も出来ないし色々ついていけないこともあったけど、あくまで私は普通学級に通っていたので、支援が必要という括りに入れられたことは、小学生の私にとっては普通じゃない!と烙印を押されてしまったのも一緒だった。
特別支援学級に最初から通っている人を差別したりバカにしたりという意図はまったくありません。ただ小学生の私は支援が必要と周りから思われてしまっている。その配慮に見える行動によって傷つけられたのは間違いはなかった。
そんな私は親の仕事の都合によって引っ越した。スキー授業がない地域へ転校をした。転校では色々あったけれど、スキーが日常的になくなったのは私にとっては大きなメリットであった。スキーによってケガをすることもなければ出来なくてクラスの足並みを乱すこともないし、先生から呆れの眼差しも受けることもない。まして特別支援学級に入れられることもない。
ところが中学生のとき、宿泊学習でスキーがあるという。私はあの頃の“配慮を"思い出してしまったけれど、事前アンケートで超初心者ということにした。
これが私にとっては大正解ではあった。周りと同じ初心者の子と一緒に足並みを揃えることが出来ている。雪国での小学校ではなかった感覚を味わうことが出来た。
高校生になったときもスキー学習はあったが、同じように初心者グループに入り、同じように足並みを揃えることが出来た。
大学生になった私はあるゼミに入っていたのだけど、そのクラスでスキーが企画された。小中学校のときのような規模のスキー学習ではないので、初心者クラス入るという事前の振り分けもない。これが私にまた雪国のスキーの記憶を思い出させてしまった。足並みが揃うわけもなく、転ぶたび、立ち上がれなくなるたび雪より冷たい視線が私に降り注ぐ感じがもうあの頃と一緒だった。それが私の人生で今のところ最後のスキーとなっているが、もうやらなくていいならやりたくない。
自分のスキー人生で思うことは、足並みを揃えるためには同じ実力を持ったものどうしじゃないと揃わない。自分の実力より下でも上でも揃わなくて何かが合わなくて誰かが妙な気持ちを自分の中に積もらせてしまうのだと。
そして、もう一つ。何度やっても頑張っても初心者ままでしかいられないこともある。その初心者の中で初心者なりの努力をして少しでも何か達成出来たほうが心の健康ずっと保たれるということ。出来ないからといって普段いるところより違う場所に行かされるのも、出来ないからあえて高い場所に身を置くのも違うのだと。
最後のスキーから20年近く経つほどの年齢ですが、スキー以外にも出来ないことたくさん今でもある。きっと出来ないことの方が多い。だけど、今から幼稚園からやり直すことは出来ない。もしそれが何らかの公式の決定で幼稚園からやり直すのならば私は2度目の配慮という傷を負うことになるのだろう。


非表示 05:55

バターをのせてトーストしたパンにハチミツと抹茶パウダーをかけて食べると美味しい。
「けっこうなお点前で」と自分で自分に言ってる。

2025.01.26Sun
非表示 05:16

「言ってくれればよかったのに〜」って言ったのは、状況的に自分は一人で抱え込まなくて言ってくれて良かったんだよ〜って意味でったのに、「だから今言ったんじゃない」と言われると萎えます。
「言ってくれれば良かったのに〜」って伝えた相手は別の相手で、それを見ていただけの第三者に言われたことがさらにしっくりこない。私が届けた言葉はあなたに向けてじゃなくて、ちゃんと寄り添いたいという気持ちを向けた相手に届けたものなのですと。
まあ、でも、この第三者さん的な捉え方、けっこうあるんですかね?なんか最近そういうのが多く感じられて疲れてしまうんです。
びっくりしたときとか、自分の想像を超えたときに「嘘でしょ?」って言葉が出るときがあるんですけど、それを「私は嘘をついていない」と返す人がたまにいると思うんですけど、そういうのが苦手だなって思っていたのを思い出しました。
なんでそう捉えるかなー?ってネットの海を泳いでいればそういうことたくさんありますが、それを身近な人にやらるとキツイですね。
私が正しい!と言い切りたいわけでもないけど、思いやりの言葉が別の方向に捉えられるなら何も発したくはないです。ただ、昨日の状況のように、届けたい相手には届けたいので第三者は大人しくしていて欲しいとも思ってしまいました。
言葉は難しいですね。でも何も言わないのもダメとかめんどくさいです。


非表示 04:48

以前経験したことが酷すぎると当たり前のことにも素晴らしさを見つけ出せてお得感はありますが⋯
今は当たり前のところにすら立ててない無色不透明な自分です。

2025.01.25Sat
非表示 23:36

赤信号、信号の手前で軽トラが止めてあった
後ろからきたおじいさんの原付が横断歩道の真ん中で止まった
軽トラが邪魔だったのか、その時点でちょっとあれ?って感じ

信号が青になり直進していると、原付じいさんが『よぉ、よぉ、よぉ』とでかい声
どうやら対向車線を走っていた自転車のおじいさんと知り合いらしい
で、自転車じいさんを呼び止めたと思ったら原付じいさんはUターンしていった

わたしはペーパードライバーですけど、あれはだめでしょ、なんと身勝手な
通報すべきだったのか、あっけにとられてしまった


非表示 23:08

帰ってくると、いや、帰ってる途中で、何かやり残したことないかなと頭の中がぐるぐるしている。かなりの頻度で。
そこまで気にしなくていいと思うし、気になるなら帰る前に頭ぐるぐるさせればいいのに。
帰る前はそんな余裕ないんだよね、そしてとにかく早く帰りたくて仕方ないんです。


非表示 05:27

料理したことなさそうな街行く若い女子に料理させて、その工程を笑うみたいな番組がちょっと前までやっていたんですけど、アレしんどいですね。料理が出来ないことじゃなくて料理が出来ないことを笑われるしくみが⋯教えてもらっていないと出来ないこと、やったことないことは普通に出来なくて当たり前ですもんね。まあテレビに出てた若い女子は笑われていることも肯定的に受け止めるタイプの子ばかりだと思いますが⋯
笑われることを肯定的に受け止めるスキルも料理が得意でもない当時の私にはキツイものがらあったのかもしれません。


非表示 05:22

労力を使わないのに、子どもには勝手に期待する。これがウチの両親の特徴かなと。
父母共に自分で教えたくはないんですね。母にいたっては「私は教えてもらったことがない」なんてよく言ってましたから。
勉強もその他料理だったり、生活面のあらゆる事ですかね?教えていないのに出来るわけがないことも多いのに、教えなくても出来るを信じてたんでしょうね。
子どもに勝手に期待⋯って書くと、勉強が出来てその他能力も高くて⋯という部分を期待してお金をかけるというのでもないんですよね。子どもに1番期待していたのはお金がかからないということ。お金がからず能力が高い人が1番能力が高いって母は盲信してたと思う。
教えたくないし、お金もかけたくないけど、子どもにはある程度を求める。優先順位はお金はかけたくない、お金かけるくらいならバカでもいい、だけど教えたくはない。って感じでしょうか。
確かにあまり勉強勉強って言われなかったけど、それはお金をかけるくらいなら勉強しなくてもいいし、勉強なんてお金かけなくても出来るって両親が思っていたから。子どもにお金かけるくらいならって父は飲みに行きたかっただろうし、なんだかんだでその父に従ってたのも母だなと。
自分も親になって子どもにお金かかる⋯塾の金額スゴイなって思うけど、これは必要経費なんだよなー金額は高いしびっくりするのは間違いないけど、お金をかけてるから本人が楽をしているってわけでもないんですよね。独学でやるのはスゴイとは思うけど、それだけが努力じゃないなとも思います。
母が生きていたら、私たちが子どもにしている当たり前のことを嫌味で返されてたかもしれない。それがなかったのは幸いだ。

ページ上部に戻る