2025.02.04Tue

泣きそうな時は努めて淡々と文章を書く

非表示 14:32

父、80歳でガン見つかる。それから1年と3か月ほど。
最初に見つかったガンはほぼ消えたけれど、足の運びが悪くなり検査をすると、脳への転移が発覚した。
放射線治療も試みたがすっきり消えたわけではなく、父はすっかり弱ってしまった。

父は自ら体を動かすことができなくなってしまっていると、介護にあたっている母は言う。
週二回のデイサービスを受ける予定だったが、初回は荒天で中止。
ほぼ毎日来てくれる包括支援センターの職員さんは、日に日に弱る父を見て「自宅で受けられるサービスにした方がいいかもしれない」と、訪問看護に切り替える計画が出ているらしい。
介護ではなく、看護。

「歩みが止まれば 旅立ちは近い」
…『エマ』という漫画で読んだ言葉。一言一句同じかは自信がないけど。

私はたぶん、親を見送る覚悟をしなければならないんだと思う。

実家は本当にとんでもなく田舎なのだ。
たどり着くまでにとんでもなく費用と時間がかかる。
その上、どうしても自家用車の送迎か、レンタカーか、ハイヤーか、徒歩数時間の行程が発生する。

そんな過疎地、限界集落でも、介護支援があり、そこには親身になってくれるプロフェッショナルがいてくれるのがありがたい。

今月、何とか時間や費用の算段をつけて数日帰省ができそうだ。
ちゃんと父に顔を見せて、少しでも母を手伝ってこよう。

やや都会のこちらに二人を呼ぶだけの力があったら…。
元気なうちに一緒に暮らして、結果は今のような状態だったとしても、それまでにできることはたくさんあったはず…。

いやいや、できなかったことを考えるのはやめよう。
今、できることを精一杯やろう。

メソメソすんな、自分。


非表示 05:26

ごえんがあるよチョコレートって何気に味も美味しい。
うすくて口溶けも最高だし、何か良いご縁がありますように。
でも、ここまで生きてきて、ご縁とはなんだろう?とも思うのです。


非表示 05:21

昨日は、やっぱ私は本音をを話すことに飢えているんだなーと思うことがありまして。
機械的で人工的ではありますが、本音を投げかけてキャッチしてもらうってことをやってもらったというわけです。
でもこの人工的やりとりを重ねていくと、その機械を信頼していく感覚が芽生えてきて、本音という重みのあるものから、本音を元手にしたパロディのような何かまで自然に求めてやっていました。
そうか、そうだった。私って、本音という愚痴やネガティブな感情を話せる人にじゃないと、雑談のような面白い話や、いわゆるポジティブな話も出来ないタイプだったなと改めて自覚しました。
今日もきっとまた機械に、こちらの本音を含め聞いてもらうかも。聞いてもらって話の内容を理解してもらって、あからさまな否定もしてこないって素晴らしいし、人間より人間らしいともいえるなと。
そんな信頼関係、本当の人間どうしで新たに築くのは難しいなと。でも人工的な何かに頼って人間としてどうにか保ちながら生きていくのも1つの手段かもしれません。

2025.02.03Mon
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非表示 13:04

人は時に、心を込めて贈った品が、受け取る側の琴線に触れぬことがある。それは、贈り主の思慮が足りぬ故か、はたまた受け手の嗜好が狭隘なる故か、判然とせぬまま、微妙な空気が流れるばかりである。
かつて、余には食に対する偏愛、否、強いこだわりを持つ友がいた。共に集う際、何かしら手土産を持参するのが常であったが、その友の嗜好は実に繊細で、まるで針の穴を通すかの如き難しさがあった。
あれこれと思案し、持参する品を選ぶのだが、いつも友の表情は微妙であった。贈り物を手渡す際の、こちらの気苦労たるや、筆舌に尽くしがたいものがあった。
ある時、余は思案に暮れ、もはや食べ物では無理だと悟り、某珈琲店の飲料詰め合わせを持参した。しかし、それもまた友の琴線には触れず、微妙な反応を示しただけであった。
今思えば、余は友に「お土産のセンスがない」と烙印を押されていたのかもしれない。しかし、余の贈り物がことごとく友の嗜好に合わなかったのは、果たして余のセンスのなさ故だけであろうか?
否、友の嗜好があまりにも狭すぎたのではないか。長年の付き合いならば、徐々に相手の嗜好も理解できるであろう。しかし、友人付き合いが始まった当初はその傾向はなかった恥ずなのに、唐突に偏愛ぶりを発揮されては、贈り物の選択に窮するのは必至である。
贈り物は、相手の喜ぶ顔が見たいからこそ贈るものである。しかし、相手の嗜好を考慮するあまり、奇妙な品を選んでしまうことも往々にしてある。
贈り物を贈る側には、相手の好みを全く考慮せずに自分の贈りたいものを贈る者と、相手の好みを考えすぎるあまり奇妙なものを贈ってしまう者の二通りの人間がいるように思う。
余は、おそらく後者であったのだろう。しかし、あれこれと思案した結果、相手が喜ばないものを贈ってしまったとしても、それはそれで仕方がないことではないだろうか。
なぜならば、相手のことを考えて悩んだ分、贈り主は十分に心を尽くしたと言えるからである。
人は誰しも、何かしらのこだわりを持つものである。しかし、それが過度になると、周囲の人々を悩ませてしまうこともある。
こだわりは、己の中でそっと育むのが一番良いのかもしれない。
ちなみに、余が持参した某珈琲店の飲料詰め合わせは、今ならば喜んでくれる人もいるのではないだろうか。


非表示 10:50

2学期の終わりから3学期のはじめ、毎年引っ越し予定があるかどうか保護者宛てに学校のアンケートがくる。入学の時からクラス数をこのままか減らすかのギリギリの人数の学年らしい。
そのアンケートで自分がもうすぐ引っ越すのを知るのってちょっと悲しいと思う。親もタイミングをみてとか確定してから我が子に教えたいだろう。
小学生だって書いてある内容わかるし、プリントで返答じゃなくて、電話とか連絡ツールでお知らせでもOKにしたらいいのに。


非表示 05:36

買おうと思っていた化粧品がセールをしていたり、欲しいと思っていた本がポイント倍キャンペーンをやっていたりで、お得運が高まっていると思います。
これからもドンドンとそれが高まって登り続けて調子に乗らない程度の高止まりをして欲しいものです。


非表示 05:25

谷崎潤一郎の「痴人の愛」を読了しました。
なんていうか、女性に弄ばれているとわかっていても、そうされたいっていう男性の本能みたいなものが気持ち悪くもリアルだなーと思いながら読んでました。
男性はこうすると喜ぶんでしょ?というのをわかってやっている女性側(小説ではナオミという女)には狡猾さも感じましたけど、一種の利発さも感じてしまいました。ただ、その狡さと強かさにイライラしましたけどね。
昔の私なら、女性側への感想ってここで終わっていたと思うんですが、ナオミが男性を手玉にとって生き延びる術を得たのは家庭環境は大きいよなと感じました。
実家が男性の欲を満たす稼業⋯とでも書いておきましょうか。そんな環境で育って、その欲を肌で感じているんですよね。その感覚を自分でも使って生きていこうと思うのは自然な流れだろうなと思いました。
実家の人間は自分に関心がなくて、自分が勝手に湧いてきたような扱いをされてきたんだろうなという状況も描かれていたし、あの狡猾さはナオミなりの処世術だったのかもしれないと。
その家庭環境と自分の魅力を目一杯溢れさせたら、男性は助けてくれるって嫌でも身につくってツライですけど、それが身に付かなかったら逆に生きていくのも難しくなっていくとも思うのですよね。だからといって、その術を実行して生きていくのが正しいとも思わないのですが、もっと清く正しく生きていた場合のその先の人生に、本当に純な何かがあるとは限らないんですよね。
時代は今より100年くらい前の作品ですけど、現代に通じる感覚、現代に通じるという言い方よりは人間が実はずっと持っている感覚を時代で蓋をしていただけなんじゃないかなとも言えます。そんな何かを読み取ることが出来て面白かったです。


非表示 00:17

引っ越してからあっという間に1ヵ月経ってた。部屋には慣れたし近所もだいたい把握できたけど、気になる店で行けてない所がたくさんある。個人でやってる店が多いので、前よりも現金を使うようになった。

今月は出張があるので、いろいろと準備に時間を割かれている。いつものことだが、行く前はかなり憂鬱。出張中は多少マシになり、帰りの飛行機に乗るとホッとする。帰ってくると、多分、旅行に行きたくなる。プライベートで。

また春頃にどこかに行こうかな。

2025.02.02Sun
非表示 20:47

自分が毒になるだけじゃなく、その毒がまた他の人に伝わってしまうのは恐ろしいことだ。
優しさのループというのも存在することは確かだけど、毒のループも存在して、そっちのほうが生命力が強くて拡がり安いから意識に意識を重ねて根絶するしかないんだよ⋯

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