ipad とapple pencil と最初から入ってるメモのおかげで思考整理がしやすい。
ただ書き連ねてゆくだけだけど、切り貼りが簡単なのであちこち飛んでもまとめやすい。
その上でふと自己分析になっていった。
結果、私は自分以外を人と思っていないというのが浮き彫りになった。
それを書き出して「いい」も「悪い」という感想はなく、
ただフラットに「うん、そうね」という「同意」が出た。
不思議な感覚。
判断基準に一般概念や常識という物差しがあるものだけど、
私にはそれが大きく欠けていることもあるのか、何の評価もなかった。
現実を直視したくない無意識の心理、思考状態だろうかと思ったけど、
それもまた判断はできていない。
見栄っ張りから来る行動の原点を洗い出すという作業だったのだけど、
なんだか長い旅を した気分だ。
ところで自分の心理に名前はあるのだろうかと、キーワード検索すると
すべて加藤諦三さんという方に突き当たる。
この方の本を読むと、大人になれていない私は人と接する仕事は良くないということがよくわかって不安が少し軽くなる。そんな心地がして落ち着く。
なんの義務も評価もなく自分だけでいられる時間が長ければ長いほど、私は幸せなのだろう。
世の中には行動を起こすより話しているほうが好きな人たちがいます。そういう人たちにとっては、実際に何かを完成させることと、単に完成までの手順を突き止めることとの間にたいした違いはありません。感情移入した想像上のプロセスだけで十分なのです。「謎は解けたのだから、どうしてそれ以上そのことについて考える必要があるだろうか?」というわけです。それはそれで結構なことです。しかし、空想の世界で何かを完成させたところで、本物の成果には到底かないません。今日は、細部にまで辛抱づよく取り組むだけの価値があります。だいたい終わったところで(まだ完全には終わっていない段階で)仕事を切り上げたいという衝動に負けてはなりません。
私は読みにくい文章を読むのが好き
人間の思考ってそんなに単純ではないから、その軌跡なだけ
人生が複雑だから文章を書くんだと思ってる
正直なところ、実感が何もない。
仕事は大打撃だった。観光業だもの。しかも春先なんて海外ゲストが8割を占める。
ただ、身に迫る危険性というのがあまり実感できなかった。
元々海外からのゲストと関わることが多かったので、きっと症状が出ていないだけで我々は保菌者だろうな、というのが同僚たちとの共通認識だった。
徐々に閑散としてきて、ついにゼロ。そりゃそうだ、なんて。
なんとなくマスクをつけて、なんとなくアルコール消毒液を用意する。
ここで最初の感染者になってはいけない。
だから市街地には出ない。
ここには満員電車もなければオフィスビルも無い。
ソーシャルディスタンスを気にするほど人がいない。
今までの日常と何も変わらない。
何も変わらないのに、会いたい人に会えなくなった。
あまりにも唐突。だってこちらの生活は何も変わっていないから。
特段会う予定があったわけではない。
けれど急に襲いかかってきた「もう会えないかもしれない」という現実。
急に遠い街になってしまった。
体脂肪に効くという触れ込みのお茶。
本当かな?と思いつつ飲んでいる。
この生活で体脂肪率が上がってしまった。
2週間前の頑張りが足りなかったようだ。
でも、私はもうラーメンを食べに行くと決めています。
新しい生活様式ではどうやってラーメンを食べたらいいんだろうね。
本日、北海道や東京などでも緊急事態宣言が解除された。
まだまだ気が抜けない状態ではあるが、一安心といったところではないだろうか。
しかし、良いことであるはずなのに、盛んに「この結果は国民のおかげ!政府の手柄ではない!」と喧伝する人達がいる。
でも、この後にまた第2波第3波が来たら、「安部のせい!政府のせい!」って言うんでしょう?
今回落ち着いたのが「国民のおかげ」であるのなら、再流行したら「国民のせい」だよね。
何でもかんでも肯定するのは良くないけれど、それと同じくらい何でもかんでも否定するのは良くないよね。
いま、SNSの誹謗中傷が原因で、っていうのが話題になっているけれど、政治家相手なら何を言ってもいいと勘違いしているのだろうか。意見と中傷は違うものだよ。
それと、緊急事態宣言は解除になったけれど、まだ新しい生活様式は続く。でも、これって結局は補償なき自粛になるんではないかい?
そこはどうにかしてほしいよね。こ~ゆ~のが本来意見のはずだよね。
文章を書くとき、どんな目的でそれを書いているのですか?
日記のように。メモのように。起きたことを忘れないために書き留めておく。そんな書き方もあるでしょう。
詩のように。絵画のように。心に浮かぶ事柄を留めておくように書き連ねる。そんな書き方もあるでしょう。
はたまた世の中の無情や由無し事を書きなぐることで感情を吐き出すような、そんな書き方もあるでしょう。
ただ、それを日記帳やチラシの裏にではなく。
机の引き出しに隠してある、秘密のノートにではなく。
匿名の掲示板にでもない。
こんな場所に書いているというのは、誰かに見てほしいからなのでしょうか。
読んでほしいからなのでしょうか。
読んで、共感してほしいのか。慰めてほしいのか。称賛がほしいのか。それとも、否定してほしいのでしょうか。
それとも、理由なんかなくて、ただ書き捨てていっただけなのでしょうか。
ここの文章は、とても読みにくい。
トゲトゲしていたり、上部だけ取り繕っていたり、書いてる本人もよくわかっていなそうだったり、端的につまらなかったり。
ここだけではないけれど。文章を書くSNSは、どこもみんな読みにくい。
誰かに読んでもらいたいなら、もう少し、読む人の事を考えたらいいのに。
誰かに読ませる気がないのなら、自分だけが読める場所に留めておくか、紙にでも書いて破って捨ててしまえばいいのに。
この文章を含めて、こんな物は誰にも読まれてなんていない。
読まれない文章に意味なんてあるのか。
こんな文章に意味なんてない。ただ、どこにも書けないから、吐き出すこともできなかった。
だからひっそりとここで吐き出させてもらおう。
独りよがりの文章書くなら、自分だけの場所でやれよ。お前の文章は見たくない。つまらんし、気持ち悪い。
誰かに読んでほしいなら、もうちょっと考えて書きなよ。
今回、特別定額給付金として10万円をいただけることとなった。中には「たかが10万貰ったところで」と文句を言う人もいるだろうが、10万円は端金ではない。私の月の小遣いは15,000円だぞ。半年分以上だ。なんとありがたいではないか。
かつて大河ドラマ『真田丸』で真田幸村の父、真田昌幸は「貰えるものは病気以外、何でも貰っておいたらええんじゃ」と語っていた。正に今の状況そのものだ。
同じようにお笑い芸人の次長課長・河本も母親の生活保護を「貰えるものは貰っておいたらええ」と言って取得していたが、あれは得た物(生活保護費)よりも失った物(好感度やメディアへの出演)が大きかった。そう考えると、「貰えるものは貰っておけ理論」も考えなければいけないかもしれない。
それはさておき。
難しいのは「子どもの特別定額給付金をどうするか」だ。
子どもも小学生にもなれば、自分の名義で10万円を貰えることは十分に理解している。しかし、子どもにとって10万というのは大金だ。当たり前だ。お父さんの小遣い半年分以上だぞ。もう少し小遣いをアップしてくれても良いのではないか。
そんな大金、とても子どもには渡せない、と親が管理という名の取上を行う家庭も多いのではないかと思う。
しかし、待ってほしい。安易にそれを取上てしまうと、子どもは不満を持ってしまう。先の生活保護不正受給の例ではないが、10万を得た代償に子どもの信頼を失ってしまいかねない。
10万は確かに大金だが、家庭内不和を代償にするにはあまりに少ない。安易に取上るべきではない。
しかし、子どもにとって大金でありすぎることもまた、確かだ。
お金がトラブルを招くことも多々考えられる。不用意にポンと渡してしまうこともまた問題だ。
折角の機会であるので、家族でお金のことを考えてみるのが良いと思う。
この10万というのがどれくらいの価値で、今回はなぜそれが給付されたのか。家の経済状況はどうで、どれくらいを使うのか。けして子どもと思わずに、家族の一員として、会議してみようと思う。
そして皆が納得する形で、ある程度を消費し経済をまわし、ある程度を備えにまわす。我が家では今回の給付金はそのように活用したいと考えている。
批判的でありたいなら、やるべきことは眉をひそめることだけです。そして自分自身を批判したいなら、やるべきことは自分が犯した過去の過ちを思い出し、今にも別の過ちを犯そうとしている可能性について考えることだけです。単に批判のまなざしを向けることよりもこちらのほうが難しいように思えるかもしれませんが、実際にはこちらのほうがはるかに簡単です。誰かが他の誰かのせいにしたいという気分でいるときはなおさらのこと、状況を公平に評価するのは難しいものです。今日は、あら探しをしないことがあなた自身の役に立つでしょう。