私は両親、兄弟であっても「他人」という括りにするよう心掛けなければならない。
精神衛生上、同じものを期待したらすり減るばかりだ。心が。
「家族」ってなんだろう。
思い通りにされ、思い通りに動かせる。
根っこが同じだから理解しあえる。
それが「家族」だとしたら、私にはいま「家族」はいないということになる。
この年でそれに気がついた。
私が育った場所は一体どういう場所だったのだろう。
両親は低所得で外聞をずいぶん気にするご夫婦だったので
見栄ばかりの薄っぺらさで、伴侶となる相手にはそれ相応の地位を求める、みたいな感性を植え付けられた気がする。
いま、家族のふるまいで覚えていることを書くなら
私の行動が思い通りでないと、だれかほかの人の名前を出して
だれそれが嫌がってるとか、だれそれが喜ぶとか、そういう言い方をよくしていた。
自分の考えを他人の威を借りて言う。
自分が強くいたいから他人の威が必須だった。
その証拠に、姉と兄は伴侶に、ご家族が公務員とか市長の周辺の人がいるとか、そういう人を選んでいる。
また姉が私を誇りだのなんだの言ったのは、進学校にいたときと、大学のプログラムで海外にプチ留学したときだけだ。
父も、たかがプチ留学しただけなのに、それを言いふらしてたらしい。
あまり褒められない人間性だと思える。
そしてそれがわかるということは、私の中にそういう人間性があるということだ。
理解はできる。できてしまう。
けれど同時に不快だと感じてしまう。だって自分のことじゃないのだから。
それらに都合よく使われたくない、と思ってるのなら
もはや家族と言えないのではないか。血がつながっていることすら不快なのに。
いままで同じ部分があったらうれしいと思ってきたが
うれしいと思うことすら減った。
呆れることのほうが増えた。
だからあの「集団」はもはや「他人」で合っている。
そうしないと、私はああなってしまうのだ。