下のカフェの方お気に入りだったと書いてたので
余計なお世話なのは承知で書かせて頂きます。
紙コップなのは感染症対策かもしれませんよ。
コロナが落ち着いて暫くしてから判断しても遅くはないと思います。
お気に入りのお店が減らないと良いですね。
Sマルクカフェお気に入りだったんだけど
久々に行ったら店内で飲んだのに紙カップで
提供されて心底ガッカリ。
エコがうんたらってHPには書いてあったけど
紙カップなのね…
フランス人がスタバを始めとするチェーンが
紙カップで飲み物を出すなんてありえない、と
怒っていたという記事を昔読んで印象に残ってるが
スタバは紙カップ含めてのブランド戦略だと
勝手に思ってるので気にしない。
(滅多に行かないし)
でもずっとカップソーサーでやってきたお店が
急に変わると悲しい。
同じ味(に感じる)ならコンビニやマックに行くよー。
カップソーサーで飲みたくてやって来たのに
そんなぁ。
ソーサーにはちみつそら豆を出して、
コーヒーと食べるのが好きだったのに
ナフキンの上に紙カップって侘びしい。
マックはそれも込みの価格破壊に感謝してるけど
Sマルクは違うのー。
んもー!
オキニの店がまた減った。
忘れてたけど思い出して、あるところへランチに。ガヤガヤした雰囲気の店で派手な雰囲気の店員さんが意外に柔らかい接客で拍子抜けしたけど美味しかった。
その後は南米系の食品スーパーに行って色々買った。
ポンデケージョにハマっているので、それを作る粉をメインに買った。モチモチして美味しいんだよね。上手く出来ますように。
わんこは喜怒哀楽が持ち味ですね。
数年ぶりの積雪は大はしゃぎ。
かわいいもんだね。
大の大人犬
うちの、もも
特別予定もない通常業務の一日だったが、気忙しいのはおさまらず。
少数精鋭の社内で、秋から続くひとり作業。
そろそろ休みをとりたい。
去年も同じことを思って、取れなかった休み。
あのがっかりと疲労といったら、もう。
なんだかなあと思いいながら、近所のパン屋でクイニーアマンを買って帰ってきた。
クイニーアマンがなぐさめてくれるさ、きっと。
父方の伯父が亡くなった
農家をやってて、うちの父は末っ子なのでよく手伝いに行っていて、代わりに野菜をたくさんくれるおじさんだった。
伯母さんが亡くなった後、どこも悪いところは特にないのにしおしおと弱っていってしまって施設に入っていた。
男の人って、奥さんが亡くなると弱るよなあ、なんて思っていた。
喪主の従姉も、すでに亡くなった従姉の姉の息子さんもダバダバ泣いていて、ふと、自分は親がしんだとき、泣くんだろうか、なんて思った。ちょっと親子関係や距離に難がある家なので。親の遺体に向かって延々と恨み言をいうような壊れ方はしたくないな。
自分は結婚していない。パートナーはいるけど、法律上は他人で同居人でそれぞれ世帯主だ。
自分が一人しぬころには、「友人」が「亡くなった友人」の葬式をあげることが当たり前になるんだろうか。
自分がしんでも墓も納骨もいらんなあ(置いていく人が限られているから)、と思ったけど、お坊さんにお経をあげてもらって、花を入れて貰うこともない、というのはちょっとさびしいかもな、と思った。生きてるからこその感傷なのだろうけど。しんだらわからんし。
永年供養の金だけは貯めておこう。
インスタントラーメンを茹でて、残ってたもやしの和え物も一緒に添えたけど、なんか美味しいと思えなくて残してしまった。
味が不味いのではなくて、ラーメンをすするときにもやしの一部を一緒に吸い込んでしまってむせたのが原因。
いつものように玉子を先に落とし込んでそれから麺を茹でる方が良かった。ただのカロリーのほうが美味しいときってあるんだよね。
インスタントラーメンにも野菜をいれれば罪悪感もなくなるように思うけど、無理して野菜をいれるのもどうかと思うんだよね。
野菜が嫌いなわけじゃなく無理な共演はしなくていいんじゃない?って思うだけです。
ベッドに入って数時間、眠れないでいたら、窓の外が明るく、まんまるの月がまぶしい。
明日は満月だった。
もし明日が休みならば、このまま月見をしたいのだが、明日も朝が早い。どうしたものか。
忙しいのはなんとができる、気忙しいのはどうにかしたい。
特別予定があるわけでもないから、
安心で穏やかな一日であるように。
タマゴがない。タマゴを買うと他のものを買うのが制限される。
色々詰め込むと割れるし、タマゴ単独の袋を用意してもその他の荷物が重いとタマゴに意識を集中させないといけないから疲れるし、結局どこかにぶつけて割れる。だからタマゴをメインで買い物の内容を考えないといけないのが疲れる。
でもタマゴはないのだから買わないといけない。自分でニワトリを飼った方がいいのか?それはそれで難しい。飼育は苦手だし、そもそもこんなマンションでニワトリ飼えないよね。
タマゴって買うのを忘れるものの一つ。タマゴをメインで買いに行ったのに忘れたなんて日常すぎる。
タマゴって欠かせない割には、デリケートだったり忘れられたり面白い存在だと思う。
食事にもスイーツにも存在してるし、メインにも脇役にもなる存在。黄身も白身もそれぞれソロで活動出来るし、すごいヤツだ。
どこかにタマゴのような部分を持ちつつ、都合よくデリケートさを発揮して生きていきたいものです。ここまで書いたらもう忘れないよね。
少しだけ暗い、というか胸糞悪くなっちゃうかもしれないお話。
私は常々、一緒に遊んでいる人を「友達」と呼んでいいか悩む人間だ。
私は友達だと思っていても相手は友達だと思っていないかもしれない、と遠慮して、一緒に遊んだ人や話した人を指すときはいつも「知人」と呼んでいる。
「友達」とはどこからなのか、どこまで話していいのか、相手が嫌なことをしないのは当たり前だけれども、自分が嫌なことをされたら縁を切るべきなのか、大目に見るべきなのか……と悩みながらも、まあ大体楽しいのでいいかと笑って過ごしていた。
学生時代から付き合いのあるその人たちとは、話が盛り上がって朝まで遊んだこともある。インドア派が多いが一緒に遊園地にも行ったし、各々の家にだって泊まりに行った。
愚痴も聞いた。私も話した。相談にも乗った。私は、特に彼らに相談することはなかった。
けれども、「友達」と呼ぶには十分な関係性だったはずだ。
ところで、私には苦手なゲームがあった。なぜ苦手かは省略するが、とにかく名前を聞くのも音を聞くのも嫌な、いわゆる地雷のゲームである。
知人はそのゲームを好んで遊んでいた。彼は寂しがりでネットに知り合いを作らないタイプなので、よく周りの人を誘っていた。
私も誘われたが、彼は私がそのゲームを苦手なことは知っていたはずである。申し訳ないけど、一緒に遊ぶことはできないよと言うと彼は、
「今は苦手かもしれないけど、『好きな友達』と一緒に遊べば、好きになれるんじゃない?」
と言った。
彼は、自分を「あなたが好きな友達」と自称した。
私はなんだか気持ち悪くなった。
そうして、自覚してしまった。私が「友達」と呼ばないのは、「相手は友達だと思っていないかもしれないから」ではなく、「私が友達だと思っていないから」だと。あんなに一緒に過ごして笑い合った相手でさえも、心の底では「友達」と認めていない。
目の前が真っ暗になった気がした。
私は、
まあ大体楽しいのでいいか、と思った。
本当は「友達」と思っていないようだけれども、だからといって縁を切るほどの話でもなく、関係性はこれまでと変わらず、ただ笑い合う相手だ。付き合い方を変える必要もない。
心を許しているかどうかに関わらず、一緒にいて楽しいのならば、別に「友達」というラベルでなくてもいい。「知人」が少しそっけないようなら、「旧知の仲」とでもしておこう。別に嘘は言っていない。
そんなこんなで、自分のちょっと冷酷な面を垣間見ながらも、今度の土曜に約束したオンラインで遊ぶ予定を確認して、旧知の仲のその人たちとのグループラインに返信して、スマートフォンを閉じた。